佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

二番目の恋 4

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***


 夏の日射しは、キャリーバッグを引く私に容赦なく降り注ぐ。

 日傘で日射しを遮りながら駅へ向かっていると、麦わら帽子をかぶって気だるそうに歩くティーシャツにショートパンツ、サンダル姿の女性が正面に現れた。
 コンビニの袋を下げた彼女は、私に気づくと元気に手を振って駆けてくる。

「華南っ、どうしたのー? おっきいカバン持って」

 深春は珍しいものを見るように、私の全身を眺める。

「家に帰るの。深春も帰るんでしょう?」
「私は明日から。華南は夏休み、実家に帰らないって言ってなかった?」
「気が変わったの」

 気まぐれな私に、彼女はあきれ顔で言う。

「それ、柚樹知ってる?」
「なぜ? 誰も知らないわ」

 急に思い立ったわけではないけれど、柚樹くんどころか、誰に話す必要もないことだ。

「さっきコンビニで柚樹に会ったの。ほら、駅近くの市立図書館。あそこで毎日勉強してるんだって。華南に教えてもらいたい問題があるって言ってたよー」
「そう。一週間留守にするの。来週、図書館へ行ってみるわ」
「柚樹、喜ぶよ。邪魔しないからねっ」
「深春は邪魔にならないわ。一緒に勉強したらいいのに」
「ほら、アルバイトできるのも今年までかなと思って。今年の夏は働くよ!」

 夏の暑さに負けないぐらい元気に深春は腕を突き上げる。

「いつも楽しそうで羨ましいわ」
「うわー、華南に羨ましいなんて言われるとはー。華南もすぐに充実するよ。柚樹はああ見えて、一途で真面目だからさ」

 柚樹くんと勉強するのも悪くはないだろう。際立って優秀ではないものの、勉学に取り組む姿勢は真摯だ。

「そうね。誤解してるつもりはないわ、深春のことも柚樹くんのことも」
「華南って何気に可愛いよね。あっ、電車! 時間大丈夫? また帰ってきたら連絡して」
「ええ、行くわ」

 少々立ち話が過ぎたようだ。急かす深春に見送られながら、駅へ向かって歩き出す。

 少し早めに出てきたことが功を奏した。切符を購入してホームへ行くと、ちょうど電車が駅に入ってくるところだった。

 自宅へ帰るのは四ヶ月ぶり。一人暮らしは順調だったし、大学生活も充実している。
 両親はたまに電話をかけてくるけれど、差し入れを送ったからという連絡程度のもので、私を自由にさせてくれている。だから、一週間家に帰ると連絡した時、何かあったのかと心配されたぐらいだ。

 帰る理由は言えなかった。それは後ろめたい思いがある証拠だったが、私はそれに目をつむっていた。



 御簾路駅までの車窓の風景が懐かしい。
 久しぶりの田園風景に胸は弾む。離れてみてわかる。私は御簾路の土地が無条件で好きなんだろう。生まれ育った土地は、いつでも私に優しい。

「おかえりなさい、華南。疲れたでしょう。荷ほどきは後にして、お茶にしましょう」

 御簾路駅まで迎えに来ていた車から降りた私を玄関で出迎えたのは、母の凡子だった。

 藤色の着物に金の帯姿。アップにした髪は隙がなく毅然としている。子供の頃から憧れる母の姿だ。彼女のように生きたいとの理想は今でも胸にある。

 キャリーバッグを玄関に置いたまま、颯爽と歩き出す母を追う。母はリビングへは向かわず、庭園に面した座敷へと私を連れていく。

 人を寄せ付けない緑あふれる静かな庭園から吹き込む風が涼しい。

「元気そうね、安心したわ」

 向かい合って座り、母の差し出す緑茶を口に運ぶ。透明ガラスに気泡の浮かぶ涼やかなグラスに淹れられたのは、ほど良い冷たさの甘い緑茶。

 夜間瀬先生にも美味しい緑茶を淹れてあげたい。そんなことを考えながら飲み干すと、母はおかしそうに口元に手を当てて笑う。

「華南も優しい顔をするようになったのね。大学生活は楽しいようね」
「緑茶が美味しいと思っただけよ」
「そういう余裕をもてるのがいいの。何か将来について考えてることでもあるの?」
「え……」
「だってまともに帰ってこないあなたが一週間も泊まるだなんて言うんだもの。それも思い立ったように急に。何かあると言ってるようなものよ」

 さとい母に隠し立てはできないのかもしれない。それでもストレートに尋ねることは出来ないまま、穏やかに私を見つめる彼女に問いかける。

「お母さんにとってお父さんは何番目の恋?」

 思いがけない質問だったのか、母はほおを強張らせた後、庭園の方へ視線を向けて、ほんの少し息を吐き出す。きれいな横顔がどことなく憂いている。気丈夫な母にしては珍しく儚げだ。

「何番目とかではないのよ」

 私に視線を戻し、母は頼りなくそう言う。

「お父さん以外の人を好きになったことはないってこと?」
「華南は好きな人がいるの?」

 母は質問に質問で返した。父とのことを話す気はないという意思表示だったが、私の中には妙なわだかまりだけが残る。

「……声が、聞こえる人はいるの」
「華南の気持ちは相手の方に伝えたの?」
「伝えたけれど、どうしたらいいのかわからなくて」

 夜間瀬先生は私の気持ちを知っているのに、受け入れることも突き放すこともしてくれない。
 私の自由にさせてくれているからなんて、気持ちを慰めてみるけれど、それはひどく無責任にも思える。

「相手の方はなんて? 華南への気持ちは聞こえるでしょう?」

 私はゆるりと首を横に振る。

「真っ黒な声だから、彼が私をどう思ってるのかなんて聞こえたことがないの。なんとなく、彼が悲しんでるとか、楽しんでるとか伝わってくるだけ」
「真っ黒な。そうなの」
「お母さんにはそういう経験あるの?」

 母は眉を下げて困り顔をする。

「華南、難しいわね。お母さんが何か言ったら、華南はその通りにするの? そうだったらお母さんが言えることはないのよ。前にも言ったでしょう? 答えはあなたが、あなた自身が見つけるしかないのよ」

 私の答えは見つかっている。少し前まではそう思っていた。でも、今は少しだけ揺らいでいる。
 夜間瀬先生は私を利用しようとしている人かもしれないのに。佐鳥家を滅ぼす人かもしれないのに。

「彼と結婚できても、子供は生まれないかもしれない」

 先生にその意志がないから。たとえ結婚できたとしても、私が結婚したいと望んだから結婚してくれるだけかもしれなくて。

「華南、それは気にしなくていいのよ。跡取りを生むために結婚するわけじゃないでしょう? 御簾路を守る人は、この土地を愛する人なら誰だっていいの」
「この土地を守れる人……」
「そうよ。最近はすぐに田畑を売って家を建ててしまうでしょう? お母さんもどこまで守れるのかわからないけれど、精一杯やってみるつもりよ」
「そんなに価値のある土地なの?」

 私はそれが知りたくて、今日ここへ来た。しかし、母の口から語られるのは意外なことだった。

「価値は誰が決めるもの? 人によって価値観は違うじゃない。お母さんは守りたいと思ったの。その信念に従って生きていることに誇りを持てる。それがお母さんの選んだ道よ。華南もいずれ選択する日が来るわ。あなたが苦しまないようにと願うのは母親の気持ち。この気持ちと、あなたが選ぶ道がお母さんの望む道とは違っていたとしても、それは別の話なのよ」

 母の言葉からは御簾路の価値はわからなかった。それでも母にとっては価値のある土地で、私にとってはどうなのだろうと考えさせられる。

「私の好きにしていいって言っているの?」
「選択の自由を与えられるのはとても責任が重いわね。お母さんはそうだった。でもね華南、お母さんは今でも後悔は一つもしたことがないのよ」
「佐鳥家が滅んでも、それが私の選んだ人生」
「ええ……、それが華南の選ぶ道なら、尚秀様もきっと理解してくださる」
「尚秀様……」

 初代佐鳥家当主、佐鳥尚秀。彼はどんな当主だったのだろう。御簾路を愛し、守り続けてきた人。守るべき価値があるから子々孫々と繋いできた土地。
 その価値とは、いったいなんなのだろう。
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