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まわり始める運命の時計
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今日は何日だろう。
ただ漫然と月日を過ごし、ただ鬱々と24時間を過ごす日常の中で、私に時間の概念は不要だった。
脳内は麻痺していて、あの日を境に時間が巻き戻っているのではないかと疑心暗鬼になることがある。
時間が巻き戻っていると考えたのにも理由がある。私は過去にも、ひどく心的に傷つくと、時間が巻き戻る経験をしていた。
それははっきりした感覚ではない。なんだか変だという小さな違和感。気づくといつもベッドの中にいて、枕元の時計が眠りにつく前の時刻に戻っているような、曖昧な感覚があるのだ。
傷ついた心に降りかかる妙な感覚は、私の心を疲弊させた。そして悩むことに疲れ切り、時間を拒否した。
今日が何月何日だろうと関係ない。確かなのは、傷ついた私がいるということ。
どう心の整理をつけ、どう対処したらいいのかわからないまま、外界からも心を閉ざした。そうして過ごしてきた年月は、想像するに一年ほどのものだろう。実際に時間が巻き戻るなんてありえない。窓から見える桜の木が華やいでいるのを見たのは、仕事を辞めてから一度だけだった。
しかし今日は妙な気分だ。
何日だろう、と考えた私すら久しくて、何もない日常に飽きてきているのかもしれないなんて考える。
机に伏していた顔を上げたら、カーテンが揺れて、ミカドが奥から顔を出す。カーテンの隙間から朝日が漏れ出て、珍しく朝に目覚めたのだと気づく。
昨夜は遅くまで小説を読んでいた。そのまま眠ってしまったのだろう。本にはさんでいたしおりも足元に落ちて、どこまで読んだのかわからなくなっている。
でも気にならない。また読めばいい。それだけのことだ。
しおりを拾おうと足元に指を伸ばすと、出窓からひょいっと軽やかに絨毯の上へ飛び降りたミカドが、私の指先をなめる。
ザラザラとした感触がくすぐったい。
ミカドだけだ。私を癒そうとしてくれるのは。
「おはよう」
そう口に出してみる。本当に今日の私はどうかしている。ミカドに話しかけるなんて、本当に珍しい。
ミカドは私の挨拶に応えるように、ふわふわの頭を手の甲にこすりつけてくる。私はミカドを抱き上げて、胸に抱き寄せる。彼もおとなしく私に身をゆだねる。
ミカドはママが私のために選んだ、ソマリという品種の猫だ。フォーンの毛並みが高貴な王子のようで、ミカドと名付けた。
外界を受け付けなくなった私を唯一受け入れてくれるミカドは、この部屋から一歩も出ないで、私の側にいてくれる。彼もまた、外界ではうまく生きていけない迷い子かもしれない。
食事の時間も決まっていないが、お腹が空いたら食べるようにしている。しかしミカドはそうはいかない。
猫が出入りできるくぐり戸のついたドアの前には、エサの入っていないフードボウルがある。ミカドはすでに食事を済ませたよう。
ママが毎日規則正しく食事を用意してくれるから、ミカドのお世話はママがしているようなものだ。
私はミカドを解放すると、ウォーターボウルを持って部屋を出た。ミカドはついてこない。私がすぐに戻ることを知っているし、戻らなくても部屋への出入りは自由だから焦ることはない。
ミカドは賢い。深入りしない距離で私の側にいてくれる。時には深く私に関わって欲しい。そう思うのは、ミカドに対してか、それとも別の誰かにか。
向かいの部屋はママの部屋だ。右手奥にもう一部屋あるが、今は誰も使っていない。以前は一階の空き店舗を利用していた美容師の女性が暮らしていたが、彼女は別の場所で美容院を開業したためここを去った。それももうずいぶんと前のことだ。
そのどちらの部屋からも人の気配はなく、裸足で廊下を歩くと、ひたひたという足音だけが周囲に響いた。
階段を降りて、リビングへ向かう途中、一階の方から「いらっしゃいませー」と明るい元気な声が聞こえてくる。ママの喫茶店は朝から繁盛しているようだ。
私が暮らすこの建物は、一階がテナント用、二階と三階が居住用の小さなビルだ。ママの父親が残した遺産であり、私の祖父が遺したものでもある。
喫茶店SIZUKUは私がまだ小さな頃にオープンした。当時の状況がどうだったのかは覚えていないが、ママが一人で切り盛りしてきたことだけは知っている。
忙しそうな一階の気配を背に、二階のリビングに入る。テーブルの上に用意されたお椀を横目に、キッチンに立つ。
ミカドの飲み水をボウルに入れて、カウンターの上にあるママお手製のパンを一つお皿に乗せて、通ってきた廊下を戻る。
ママは私がいつでも気の向いた時に食事ができるよう、和食も洋食も常に用意してくれている。
何もいらないのだと言っても、ママは笑顔で毎日用意してくれた。
そんなママの優しささえ、凍りついた私の心は受け入れることがなかった。
だから今はこれが日常だ。当たり前のように用意された食事の中から、食べたいものを少し選び、食す。草を食む動物のように、私はただ食す。
感謝の気持ちがないわけではない。ママがいなければ私は生きていられない。
時々涙が出た。無気力な私がママを困らせていることが情けなくて、でもどうにも立ち上がれなくて、もどかしくて泣いた。
この状況を打破する力はやはり今の私にはない。誰かの力が必要だ。そう思っても、その誰かを思い浮かべた時、私の心はまた闇に落ちるのだ。
今日は何日だろう。
ただ漫然と月日を過ごし、ただ鬱々と24時間を過ごす日常の中で、私に時間の概念は不要だった。
脳内は麻痺していて、あの日を境に時間が巻き戻っているのではないかと疑心暗鬼になることがある。
時間が巻き戻っていると考えたのにも理由がある。私は過去にも、ひどく心的に傷つくと、時間が巻き戻る経験をしていた。
それははっきりした感覚ではない。なんだか変だという小さな違和感。気づくといつもベッドの中にいて、枕元の時計が眠りにつく前の時刻に戻っているような、曖昧な感覚があるのだ。
傷ついた心に降りかかる妙な感覚は、私の心を疲弊させた。そして悩むことに疲れ切り、時間を拒否した。
今日が何月何日だろうと関係ない。確かなのは、傷ついた私がいるということ。
どう心の整理をつけ、どう対処したらいいのかわからないまま、外界からも心を閉ざした。そうして過ごしてきた年月は、想像するに一年ほどのものだろう。実際に時間が巻き戻るなんてありえない。窓から見える桜の木が華やいでいるのを見たのは、仕事を辞めてから一度だけだった。
しかし今日は妙な気分だ。
何日だろう、と考えた私すら久しくて、何もない日常に飽きてきているのかもしれないなんて考える。
机に伏していた顔を上げたら、カーテンが揺れて、ミカドが奥から顔を出す。カーテンの隙間から朝日が漏れ出て、珍しく朝に目覚めたのだと気づく。
昨夜は遅くまで小説を読んでいた。そのまま眠ってしまったのだろう。本にはさんでいたしおりも足元に落ちて、どこまで読んだのかわからなくなっている。
でも気にならない。また読めばいい。それだけのことだ。
しおりを拾おうと足元に指を伸ばすと、出窓からひょいっと軽やかに絨毯の上へ飛び降りたミカドが、私の指先をなめる。
ザラザラとした感触がくすぐったい。
ミカドだけだ。私を癒そうとしてくれるのは。
「おはよう」
そう口に出してみる。本当に今日の私はどうかしている。ミカドに話しかけるなんて、本当に珍しい。
ミカドは私の挨拶に応えるように、ふわふわの頭を手の甲にこすりつけてくる。私はミカドを抱き上げて、胸に抱き寄せる。彼もおとなしく私に身をゆだねる。
ミカドはママが私のために選んだ、ソマリという品種の猫だ。フォーンの毛並みが高貴な王子のようで、ミカドと名付けた。
外界を受け付けなくなった私を唯一受け入れてくれるミカドは、この部屋から一歩も出ないで、私の側にいてくれる。彼もまた、外界ではうまく生きていけない迷い子かもしれない。
食事の時間も決まっていないが、お腹が空いたら食べるようにしている。しかしミカドはそうはいかない。
猫が出入りできるくぐり戸のついたドアの前には、エサの入っていないフードボウルがある。ミカドはすでに食事を済ませたよう。
ママが毎日規則正しく食事を用意してくれるから、ミカドのお世話はママがしているようなものだ。
私はミカドを解放すると、ウォーターボウルを持って部屋を出た。ミカドはついてこない。私がすぐに戻ることを知っているし、戻らなくても部屋への出入りは自由だから焦ることはない。
ミカドは賢い。深入りしない距離で私の側にいてくれる。時には深く私に関わって欲しい。そう思うのは、ミカドに対してか、それとも別の誰かにか。
向かいの部屋はママの部屋だ。右手奥にもう一部屋あるが、今は誰も使っていない。以前は一階の空き店舗を利用していた美容師の女性が暮らしていたが、彼女は別の場所で美容院を開業したためここを去った。それももうずいぶんと前のことだ。
そのどちらの部屋からも人の気配はなく、裸足で廊下を歩くと、ひたひたという足音だけが周囲に響いた。
階段を降りて、リビングへ向かう途中、一階の方から「いらっしゃいませー」と明るい元気な声が聞こえてくる。ママの喫茶店は朝から繁盛しているようだ。
私が暮らすこの建物は、一階がテナント用、二階と三階が居住用の小さなビルだ。ママの父親が残した遺産であり、私の祖父が遺したものでもある。
喫茶店SIZUKUは私がまだ小さな頃にオープンした。当時の状況がどうだったのかは覚えていないが、ママが一人で切り盛りしてきたことだけは知っている。
忙しそうな一階の気配を背に、二階のリビングに入る。テーブルの上に用意されたお椀を横目に、キッチンに立つ。
ミカドの飲み水をボウルに入れて、カウンターの上にあるママお手製のパンを一つお皿に乗せて、通ってきた廊下を戻る。
ママは私がいつでも気の向いた時に食事ができるよう、和食も洋食も常に用意してくれている。
何もいらないのだと言っても、ママは笑顔で毎日用意してくれた。
そんなママの優しささえ、凍りついた私の心は受け入れることがなかった。
だから今はこれが日常だ。当たり前のように用意された食事の中から、食べたいものを少し選び、食す。草を食む動物のように、私はただ食す。
感謝の気持ちがないわけではない。ママがいなければ私は生きていられない。
時々涙が出た。無気力な私がママを困らせていることが情けなくて、でもどうにも立ち上がれなくて、もどかしくて泣いた。
この状況を打破する力はやはり今の私にはない。誰かの力が必要だ。そう思っても、その誰かを思い浮かべた時、私の心はまた闇に落ちるのだ。
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