非才の催眠術師

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まわり始める運命の時計

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 部屋に戻ると、ミカドが軽やかに駆けてくる。ミカドだけだ。こんな私でも必要としてくれ、私の存在を認めてくれているのは。

 ウォーターボウルを足元に置くが、ミカドは見向きもしないで、窓辺のチェアーに腰かける私の膝の上へと飛び乗る。

 お皿に乗せたパンを欲しがる様子もなく、丸くなり目を閉じる。

 ミカドの背を撫でながら、私はカーテンをわずかに開く。ここからは庭に植えられた桜の木と、向かい側の住宅、そして空が見える。

 雲ひとつない澄んだ青空だ。くすんだ私には眩しすぎて、すぐに遮光カーテンを引く。

 薄暗くなった室内で、パンにかじりつく。小さなカサカサした食物は、渇いたのどに詰まりながら落ちていく。出窓に置かれた水差しから麦茶をグラスに注ぎ、パンと一緒にのどに流し込む。

 ママの手作りパンは近所でも評判の美味しさなのに、味覚を感じない。何を食べてもいつもそうだ。だからすぐに食べることを諦める。

 何のために私は生きているのか、そう考えるほどに落ち込んでしまうから、食べかけのパンを出窓に置いて、チェアーにもたれて目を閉じる。

 眠ってしまおう。何も考えないで済む。明日が何日かだなんて、考える必要もなくなる。

 そうしているうちに、私はいつしか眠りに落ちたようだ。気づくと周囲は暗闇に満たされている。

 お腹がぐるると鳴る。出窓には食べかけのパンが乗ったままだ。

「ミカド……?」

 膝の上にも、ベッドにもミカドの姿はない。

 部屋の外へ出たのだろうか。私は立ち上がるとすぐに部屋を出た。

 暗闇の廊下を歩く。眠っているだろうママを起こしてはいけない。だから必要以上に息を凝らし、二階へ降りる。しかしミカドが私を見つけて駆け寄ってくることはない。

 どこへ行ったのだろう。

 辺りを見回した時、一階の方からカチャンという小さなガラスがぶつかるような音がした。

 階段下は真っ暗だ。しかし細くドアが開いているのがわかる。闇の中に白く浮かび上がるドアの端が、微妙にずれて見えるからそれに気づいた。

 ミカドは一階にいるのだろうか。ママがミカドを一階へ行かせてはいけないと言ったことはないが、飲食店だから私が行かせないようにしていた。

 ミカドは賢い子だから、私の気持ちをさとって、一階への階段を降りていくことすらしたことはなかった。

 私は暗闇の中、階段を降りていく。

 薄く開いたドアを開けて店内を覗くが、ミカドの姿は見つけられない。

 うっすらと月明かりが店内を照らしている。私はカウンターの上に何かあることに気づいた。白く光っていたから、目についたのだ。

 近づいていくと、それはA4サイズほどのチラシだった。ツルツルとした光沢のあるチラシで、月夜の光が反射して光って見えたのだ。

 私は何気にチラシを手に取る。

 それほど興味があったわけではないが、目を落とす。

 白地に黒で、大きく書かれたゴシック体の文字が目につく。

〝マサキ催眠クリニック〟

 何とも胡散臭いチラシだ。

 催眠療法とは、から始まる長い文章の先に、電話番号が掲載されている。さらにその下へ視線を落としていった時、ガチャン!と大きな物音がして、私の肩は驚きで飛び上がった。

 音のした方を見ると、ママが胸に手を当てて、カウンターの奥に立っていた。ママも物音に驚いたのだろう。目を丸くして私を見つめている。

 私はチラシをカウンターの上へ戻し、気まずさから視線を斜めへ逃す。床にキラキラとしたものが落ちている。グラスの破片だとすぐに気づき、屈むとカウンター下からミカドがひょいっと現れた。

「ああ……、悠紀ゆきちゃん、拾わなくて大丈夫よ。けがをしたらいけないわ」

 ママは乱れた髪をなでつけながらカウンターから出てくる。

 割れたのはグラスだろう。大きく斜めにひび割れたグラスの破片に手を伸ばす私の背に、ママはそう声をかけると、どこからかホウキとチリトリを持ち出してくる。

 ママは私を過保護にする。

 私もあえて抵抗せず、ミカドをそっと抱き上げて一歩下がる。ミカドの体は緊張している。彼もガラスの割れた音に驚いたのだろう。

「お腹、すいたの?」

 ホウキでガラスの破片をかき集めながら、ママは問う。

「……ミカドがいなくて」
「そう」

 私がパンを一つだけ食べたことは知っているのだろう。ママは用意した食事の何がどれだけ減っているのかチェックしている。

 私の健康状態を気にするためだが、食の細い私に食べなきゃダメだと怒ったことはない。いつでも私のしたいようにしてくれている。

 私が唐突に仕事を辞めた時も何も言わずに見守ってくれていた。ママは、過保護だが過干渉はしない、そんな人だ。

「コーヒー、飲む? 今から淹れようと思っていたところよ」

 片付けを済ませたママは、コーヒー豆の入った袋と例のチラシを手にしてドアへ向かう。

 私は無言でママについていく。

 居住用スペースと店舗をつなぐドアに鍵をかけ、階段を昇るママの足取りはいつもより重い。
 疲れているのだろう。眠れないぐらい、疲れているのだろうか。

「寝たら? ママ」

 コーヒーを飲もうとしていたなんて嘘で、私に食事をさせるためにそう言っただけだと思って、そう声をかけた。

「コーヒー飲んだらね」

 ママは振り返りもせずに穏やかに返事すると、リビングの明かりをつけた。

 やはりテーブルの上は片付いている。休もうとしていたが、何か用事があって一階へ行ったのだろう。そこへ私が現れて、とっさにママはコーヒーを飲もうと誘ったのだ。

 コーヒーメーカーに豆をセットし、コーヒーが出来るのを待つ間、ママはスコーンを乗せた楕円の皿をテーブルに置いた。

 お腹は空いている。だが食べる気がしない。
 スコーンをじっと見つめていると、ミルクたっぷりのカフェオレが差し出される。

「クリームチーズとブルーベリーを入れてみたの。さっぱりして美味しいって」

 ママはそう言って、スコーンを小皿に取り分けた。
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