非才の催眠術師

水城ひさぎ

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まわり始める運命の時計

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 三階へ上がっていく足音が聞こえなくなる頃、今度は一階の方から急いで由香が駆け上がってくる。

 先程ここへ来る前、喫茶店を通って挨拶はして来たのだが、まだ何かあるのだろうか、由香は慌ただしく言う。

「ごめんなさい、古谷さん。今、手が離せなくて。お部屋はもう見た?」
「これから。部屋の鍵は頂きましたし、大丈夫ですよ。落ち着いた頃にコーヒーを飲みに行きますから、お話があればその時に」
「ええ、そうね。家具やお布団はそろってるはずよ。昨日送られてきたダンボールは部屋にそのまま置いてあるし、あとはー……」

 由香は世話焼きのようだ。悠紀を引き取って育てているのだから、責任感のある人でもあるのだろう。

「無理言ったのはこちらですから。でも助かりました。後は自分でやりますので」
「お店の方は15時には落ち着くわ。手伝えることがあれば言ってくださいね」

 そう言って、由香は来た時同様、慌ただしく階段を降りていく。

 程なくして俺は三階に上がった。正面の部屋が俺の部屋だと聞かされている。右手の部屋のドアには猫が出入りできるくぐり戸が取り付けられている。そこが悠紀の部屋で、左手は由香の部屋だろう。

 静かなものだ。悠紀の部屋からは人の気配すら感じられない。

 突き当たりの部屋の前まで行き、ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、回すとカチャッと音がしてドアが開く。

 部屋の中は思いの外、明るい。カーテンが開いている。家具の配置や掃除も、荷ほどき以外は全て済まされているようだ。今日までと変わらない生活が明日からも送れそうだと俺は満足する。

 コートを脱ぐと早速、ダンボールの前にひざをつき、荷をほどく。床には真新しいシックなじゅうたんが敷かれている。新調してくれたのだろう。

 由香の歓迎ぶりは想像以上だ。悠紀を心配している。その点に執着しているのはわかるが、期待の高さに戸惑いもないわけではない。

 俺は悠紀を治せるだろうか。
 いや、治すなんてきっとおこがましいのだ。悠紀が前のような生活ができるよう、俺は手助けをしたいと思っている。それだけだ。

 部屋に残すものと、一階のクリニックに運ぶものを仕分ける。それが終わると、クリニックと部屋を行き来して荷物を運んだ。

 その間、何回も悠紀の部屋の前を通ったが、物音一つして来なかった。心配になり、ノックしてみようかと心が揺れかけた時、くぐり戸が揺れて、ミカドが顔を出した。

 聡明で凛々しい顔立ちの猫だ。もともと由香が悠紀を元気付けるために選んだオス猫のソマリだったそうだが、今ではまるで悠紀の忠実なしもべのように側にいる、と由香から聞いた。

 ミカドは俺と目が合うと、すぐにくぐり戸の中へと逃げ込んでしまった。

 人見知りするのか、それとも俺が気に入らないのか。

 何のへんてつもないシンプルなドアが、堅牢な砦のように見えて、悠紀に声をかけるのは断念した。



 ようやく部屋の片付けがひと段落した頃には、お昼をとうに過ぎていた。空腹のお腹を抱え、喫茶店SIZUKUに顔を出すと、店内最後の客が出ていくところだった。

「古谷さん、サンドイッチ召し上がる?」

 俺がカウンター席の真ん中に腰かけると、由香が問う。

「サンドイッチですか。是非頂きたいです。あとは何か温かなスープを」
「今日は昨日より冷えますね。古い建物だから、冬は寒くて夏は暑いの。今思うと、高級なマンション暮らしされてた古谷さんには迷惑な話よね」

 由香は恥じ入るように言う。感情ばかりが先に出て、俺のことは二の次だったことをようやく省みる余裕が出来たようだ。

「高級というほどのものでは。普段は大学近くのホテルに宿泊することが多かったですし、これからもそういうことは度々あると思いますから、不規則な生活がかえってご迷惑になるかもしれません」
「古谷さんは大学で講師をされてるんでしたね」
「ええ、週に三日の非常勤です。クリニックは週に二日の開院を予定していますが、まだまだ準備に時間がかかりそうです」
「以前のクリニックへは今も行かれてるの?」
「そうですね、師事するドクターのクリニックで学ばせて頂いてます。そろそろ独立したらどうかと背中を押されたこともあり、一部移転という形になりました」
「えっと……、古谷さんがされてる催眠療法というのは珍しいですね。悠紀ちゃんは詳しいようだったけれど、私は初耳で」
「そのような方の方が多いですから。そうですか、悠紀さんは詳しいですか」

 俺はそう言って口をつぐむ。少し考えごとをしたかったからだが、由香もそれを察したのか、ランチプレートを用意すると奥へ行く。

「オニオンスープ、ですね」

 誰に向けるでもなくつぶやき、出されたスープで体を温め、レタスたっぷりのサンドイッチを口に運ぶ。

 空腹だったお腹が満たされてくると、悠紀のことが気になりだす。彼女はまだ食事をしていないだろうか。

「あの……」

 悠紀のことを尋ねようと顔を上げると、いつもと同じ香りのするコーヒーが目の前にあった。

「悠紀ちゃんに会った?」
「あ、ええ」

 ありがとうございますとコーヒーを受け取り、短くうなずく。

「古谷さんにアドバイスしてもらった通り、朝と夜の挨拶は欠かさないの。最近は朝ごはんも食べるようにはなったみたい。古谷さんから見て、悠紀ちゃんってどうかしら」
「まだわかりません。立ち入った話になりますが、悠紀さんが仕事を辞めるきっかけになった出来事はなんだったのでしょう?」

 俺はさらりと問うが、由香は返事にためらう。すんなり教えてもらえるとも思っておらず、俺はコーヒーを口に含む。

「何度頂いても美味しいです。ああ、そうだ。悠紀さんはやたらと時間を目にするのを嫌がりますか?」
「え……」

 由香は予想外の問いに明らかな狼狽を見せた。

「時計も見たくないようでした」
「……そう、ね。喜んではくれなかったもの」

 深いため息を吐き出す由香には、話したくない思いよりも、吐き出して楽になりたい気持ちが見え隠れしている。だから俺はさらに問う。

「外折さんがプレゼントしたものは時計でしたか。とても大切そうに箱が飾られていたので、深い思い入れがあるのだろうと思っていました」
「箱……?」
「黒に赤いリボンの」

 ああ、あれね、と由香は目を伏せる。

「違うわ……」
「違うというのは?」
「あのプレゼントを買ったのは私じゃないの」
「外折さんじゃないんですか。悠紀さんはそう思っているようでしたが」

 思わぬ副産物だ。すっかり由香がプレゼントしたものだと思い込んでいた。

「悠紀ちゃんには話してないけれど、あの子を大切に想う方からのプレゼントなの。あの日は、あの子の誕生日だったから」
「……そうでしたか、悠紀さんを大切に。そうですね、そういう方もいらっしゃるのでしょう。当然です」

 思わず動揺した俺がいる。それに気づかれないよう、俺はゆっくりとコーヒーを飲み干した。

 三年前に悠紀を駅で見た。あの時、輝くような笑顔を見せていた彼女の隣には、誰もが好感を持つだろう清廉な容姿の青年がいた。

 腕をからめながら好青年を笑顔で見上げる彼女とすれ違った後、俺は振り返ることができなかった。

 彼女は幸せそうだった。俺と彼女の時間が交わる日がやがて来るなんて、そのとき俺は想像もしていなかったのだ。
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