非才の催眠術師

水城ひさぎ

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まわり始める運命の時計

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 部屋の前を歩く人の気配に目が覚める。それは私だけではないようだ。ベッドの中で丸くなっていたミカドも、毛布から顔を出す。

「古谷さん、帰ってきたのかな……」

 足音はすぐに聞こえなくなり、遠くでドアの閉まる音がする。

 真咲さんは毎日帰らない。帰ってくる日の方が少ないかもしれない。帰らない時はホテルに宿泊しているようだが、それも本当かわからない。

 恋人もいるだろうか。

 真咲さんは誠実さが前面に出ているような綺麗で優しい面立ちをしている。きっと彼の恋人も思いやりがあって包容力のある女性だろう。

 ミカドがベッドを降りる。首輪が月の光にきらりと光る。

 散歩の時だけつけようと思っていた首輪だが、どうやら気に入ったらしくずっとつけてくれている。

 ウォーターボウルに鼻先を入れたミカドは、なんだか途方にくれたように肩を落とす。

「お水、ないの?」

 そう尋ねると、わずかにうなずいたような気さえする。

 私も毛布をめくってベッドから降りる。空になったウォーターボウルを持ち上げて部屋を出るとミカドもついてくる。

 階下は真っ暗だ。軽々と先に進むミカドについてリビングに入り、明かりをつける。

 いつもと変わらないリビングの風景の中に、カウンター上の猫の置き時計がある。その針はちょうど12時を指している。

 ボウルに水を汲み、足元に置くと、ミカドは勢いよく飲み干す。よほど喉が渇いていたのだろう。

 私も何か飲もうと食器棚からグラスを取り出していると、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。

 真咲さんだろう。そんな気がして、身が萎縮する。取り出したばかりのグラスを戻し、ミカドを抱き上げた時、彼はリビングに顔を出した。

「起こしてしまいましたか。なんだか久しぶりですね」

 真咲さんは真夜中だというのに爽やかに微笑むと、キッチンに入ってきてグラスを手に取る。

「水、飲みますか?」
「あ……いえ。ミカドの水を取りに来ただけだから」
「今夜は乾燥してますね」

 そう言われたら、とっさにほおに手を当ててしまう。肌はガサガサだ。ママと2人の生活の中では、誰にどう見られるかなんて気にならなかったのに、真咲さんの目は気になる。

「少し……健康的になりましたね」

 真咲さんは言葉を選んだのだろう。少しの沈黙のあと、そう言った。

 睡眠時間も食事の時間も、仕事を辞める前の生活のように整ったら体重は増えた。顔色もよくなったようには思う。でもぼろぼろになった体は、すぐには全てを取り戻せない。

「あんまり……見ないでください……」

 お化粧もしていない。髪だってバサバサだ。

「悠紀さんは綺麗ですよ。気になることがあるなら、ランニングでもしませんか?」

 唐突の提案に驚く。

「ランニング?」
「休日は日課にしてます。ミカドくんとウォーキングもいいし、俺とランニングでも。仕事だってしましょう。少しずつでいいですから、何か一つしませんか?」
「仕事なんて出来る気しなくて……」
「なぜ? 勤め先がないと心配してるなら無用です。前に言ったでしょう。俺のクリニックで働きませんか? そして休日にはランニングしましょう」

 それだけを聞けば、とても健康的だと思える生活だろうと思う。だけど今の私にはハードルが高くて、そんな生活が出来るとは思えない。

「明日は……ミカドと散歩します」

 最大の譲歩をしたつもりだったが、そう言ったら、真咲さんは嬉しそうに微笑む。

「では俺もご一緒させてください」
「え……、あ、はい」

 あんまりジッと見つめられたら落ち着かなくて、わけもわからず頷いていた。口調は穏やかだから騙されてしまうけど、彼は結構強引だ。

「明日は公園まで行きましょうか。天気も良さそうだし、暖かくしていけば大丈夫でしょう」
「寒かったらすぐに帰ります。ミカドが風邪をひいたらいけないから」

 ミカドの心配をする私が滑稽に見えたのか、真咲さんはふっと笑うが、すぐに何かを思い出したような表情をする。

「ああそうだ、ミカドくん、あれからおかしなことはないですか?」
「おかしなこと?」
「そう、例えば、人間の言葉を話すようになったとか」
「は……」

 あまりに突飛なことを言うものだからぽかんとすると、真咲さんは「冗談ですよ」と言う。とても冗談で聞いたとは思えなかったが、何も言えないでいる私を見て、彼はくすくす笑った。
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