非才の催眠術師

水城ひさぎ

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優しい真実と苦しい選択

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***


 ただ漫然と過ごすだけの日々は終わった。朝日を受けて目を覚まし、月明かりに癒されて眠る夜は心地よく。

 ミカドとたわむれる休日があるのは、仕事に従事する日があるということ。

 あの日にかえりたいと思う気持ちはまだ心の奥底にひそんでいるけれど、過去と現在、時間の流れが複雑に絡み合う毎日はもうやって来ない。一日一日前に歩む私は時間に惑わされることなく生きていける。

「ミカド、本当にリン君なの?」

 ベッドに仰向けになり、ミカドを胸の上に乗せて頭を撫でる。彼は私のほおに頭をすり寄せるだけで何も言わない。

「ミカドには不思議なことが起きたんだね。ミカド、ありがとう」

 またリン君に会いたい。

 それを望むことはいけないことだ。真咲さんが教えてくれた。リン君の幸せはミカドで居続けることだと。

「ずっと側にいてね、ミカド」

 そう言うと、ミカドは約束するみたいに私の唇の端にキスをする。ちょっと遠慮するみたいでおかしい。

 ミカドを抱いたまま体を横に向ける。

 日差しを受ける机の下、暗がりにきらりと何か光った気がして、私はベッドから身を乗り出す。

「ミカド、見て」

 机の脚の方を指差すと、軽やかにベッドから飛び降りたミカドがそれに鼻を寄せる。

 私も彼の後ろにしゃがみ込み、手を伸ばしてそれを拾う。

「こんなところに落ちてたんだ。見つかって良かったね」

 それは抜け落ちたアルファベットの一文字。

 ミカドは首を下げてこうべを垂れる。私は首輪にIのパーツをはめる。MIKADOと並んだ文字が見えるわけでもないのに、彼は誇らしげに背を伸ばす。

「悠紀さん、いますか?」

 部屋のドアがノックされて、真咲さんの呼びかけ声が届く。

 彼は私を悠紀さんと呼ぶ。呼び捨てしてもいい関係になったのにと思うけど、ママにまだ何も話していないから、そう呼ぶ。知られたってかまわないけど、ママがきっと反対するから言えないでいる。
 だから私も言えない。反対されたら、私はどうするだろう。まだその先の未来まで見えていない。

「悠紀さん?」
「あ、はいっ、……います」

 すぐさまドアに駆け寄り、ノブに手をかけた時、真咲さんが言う。

「いるなら大丈夫です。すぐに戻りますから、もう少し部屋にいてください」
「……」
「あとで出かけましょう。出かける準備をして待っていてください」

 真咲さんは一方的にそう言うと、ドアから離れる。次第に遠ざかる足音が階下へと消えていく。

 私は心配そうに足元へやってくるミカドを抱き上げ、そっと微笑む。

「大丈夫だよ、ミカド。ミカドも一緒に出かけよう。大丈夫、何も心配はいらないの……」

 ふと浮かぶ根拠のない不安を覚えながら、ミカドを抱きしめる腕に知らず力を込めた。





 階段を降り、右手のドアを開く。喫茶店SIZUKUの入り口にはカーテンが引かれている。

 視線を動かすと、すぐにカウンターに立つ外折由香と目が合う。まるで俺が来るのをわかっていたみたいに、彼女は視線だけでカウンターへ座るように促す。

 由香は木製のプレートを真っ白なぞうきんで拭いていた。俺がカウンターに腰かけると、そのプレートを斜め前に置く。

 年季の入った艶を持つプレートには、SIZUKUと彫られている。大切にされてきた看板のようだ。

「今日は休みにしたんですね」
「日曜日は休むことにしたの、新しい生活のために」

 由香はふんわりと微笑むが、どこか切なげだ。

「新しい生活ですか」
「そう。それでね、古谷さん、お願いがあるのよ」

 ため息を吐き出す彼女を見つめる。俺と目が合うとすぐにそらすのはうしろめたさからか。

「益田創士さんと一緒に暮らすんですか?」

 単刀直入に切り出す。由香の思いは手に取るようによく見える。得たいものと犠牲にするものの天秤のかけ方が悠紀によく似ている。

「ええ、そう。彼が悠紀ちゃんに会って、なるべく早く一緒になりたいって」
「悠紀さんを気に入られた?」
「あっ、変な意味じゃないのよ。古谷さん、聞きにくいのだけど……」

 由香は重いため息をもう一つ吐く。

 先月の日曜日の夜、家を空けた罪の意識からか、俺を責められない何かに彼女は苦しむようだ。だから俺は言う。

「悠紀さんとお付き合いしています、真剣に」

 由香は唇をわななかせる。俺と悠紀がデートすることは冗談まじりにからかって、それを容認していたのに、真剣な付き合いには抵抗を示す様子がありありと浮かんでいる。

「また別れさせますか?」

 俺は努めて冷静にそう言う。

「別れさせるって。そんなっ……」

 由香は震える指先を隠すように、こぶしをぎゅっと握る。

「悠紀さんは医師である俺を受け入れられないと言いました。今でもその思いに苦しんでいるのはわかります」

 悠紀は俺が好きだと言った。だがその後に続いた言葉は「でも」だった。

 でもダメなのだと言おうとした悠紀にキスをしたのは、俺の弱さからだった。彼女をつなぎとめるためにはそうするしかなかった。だから彼女は今も不安の中にいるだろう。

 俺が医師であるがためにいずれ来る別れに、記憶が彼女をおびえさせている。

「敬太という青年のことを少し調べました。正確に言うと、同僚がたまたま彼を知っていたのです」
「……え?」

 由香は不安を隠せない様子で警戒をあらわにする。

「門村敬太は結婚して幸せに暮らしているようですね。悠紀さんと結婚しても幸せだったかもしれない」
「違うわ。悠紀ちゃんは悩んでいたの。門村さんだって家柄を気にしてた……」
「だから別れさせた? 門村敬太は周囲に話したそうですよ。悠紀さんに冷たくするのは自分からは諦めがつかないからだと。悠紀さんから去るように仕向けるためだと」
「それは違うわっ」

 由香は首を左右にふるが、俺は続けた。

「なぜ愛し合っていたのに別れさせようとしたのか、考えました」
「それは門村さんが悠紀ちゃんを守れなかった結果よ。門村さんのご両親は結婚に反対だった」
「それもあったのは事実でしょう。ですがそれは大義名分に過ぎないでしょう? 悩む門村敬太はあなたに相談した。あなたが別れてくれと言わなければ身を引くつもりはなかった、そう言っていたそうですよ」
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