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陶芸の青年と閉ざされた過去

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 弦さんのさんぽから帰ってくるころには、ふたたび雨が降り出していた。

 雨で濡れてしまった弦さんを玄関の中へ入れると、つづみさんはフードの奥から目をギョロリとさせて、「じゃあな」と壊れた柵を通って帰っていった。

 彼は真っ黒なレインコートのフードを深くかぶっていた。雨の日はいつもそのスタイルでさんぽするらしい。背の高い黒ずくめ姿には、一見ぎょっとする物々しさがあるが、弦さんは彼の姿が見えなくなってもずっと柵の方を眺めていた。

 弦さんはつづみさんと一緒にいたいかもしれないと思ったけれど、そっと声をかける。

「弦さん、これからもっと雨が降ってくるみたい。今夜はおうちの中で寝てね」

 弦さんは玄関の床にちょこんとお座りする。生前、父も雨の日は玄関に入れていたとつづみさんから聞いた。

 父の家の三和土たたきは、意外と広い。クッションを置けば、じゅうぶん過ごせるだろう。

 下駄箱の上に残されていた古びたクッションはなんだろうと、以前から不思議に思っていたけれど、弦さんのものだったみたい。捨てなくてよかった。

 すぐにタオルとクッションを持ってくると、濡れた体をふいてやり、床の端にクッションを置く。弦さんはうれしそうにしっぽを振り、クンクンと匂いをかいで、そこへ腰をおろすと、丸くなって目を閉じた。すごく安心してるみたい。

「もうちょっとしてから、夜ごはんにするね」

 目を閉じたまま耳をぴくりとさせた弦さんを残し、キッチンへ入ると、鍋に水を入れて火にかけた。それから、レトルトカレーと弦さんのエサを準備する。

 もう何回、この家に泊まるかわからないから、必要最低限のものしか持ち込んでいない。夕食は陽仁さんが誘ってくれるときもあるし、つづみさんが分けてくれることもある。と言っても、彼が分けてくれるのは、陽仁さんの手料理なんだけれど。

 お湯が沸くのを待つ間、スマホを開いた。特に目的もなくスマホを見るときはニュースばかりチェックしている。熱心にというより、単なるひまつぶしで。

 たくさん並ぶニュースのタイトルを上から順番に眺めていると、知ってる名前を見つけてどきりとした。有名人でも、馴染みのある名前を見ると何かあったのかとクリックしてしまう。

『人間国宝の真乃屋和雄さん、重体』

 不穏なタイトルだった。焦るようにタップして、記事全文を表示する。

『陶芸家の真乃屋和雄さん(68)が先月、自宅の二階から転落し、意識不明の重体となっていることがわかった。詳細はあきらかになっておらず、警察は事故と事件の両面で捜査している。真乃屋和雄さんは太陽の受け皿を発表したことで有名で、3年前に人間国宝に認定されている』

 短い内容の記事だった。

 太陽の受け皿と聞くと、すぐにあの作品を思い出す。たきざわ夕市美術館に展示してあるレプリカだ。私はあれを見て、陶芸家になろうと思った。私の人生に影響を与えたといっても過言ではない真乃屋和雄のニュースに驚きは隠せなかった。

 もっと詳しいニュースはないかと検索してみたが、どこも同じような内容ばかりで、詳細はまったくわからなかった。

 鍋のお湯が沸騰して、ゴトゴトと音を立てるからハッとした。そのとき、バタバタと強い雨音が鳴り、雷がドゴーンッと地響きを立てた。

 弦さんも驚いたのか、「ワンッ」と鳴く。一瞬身をすくませた私も、すぐに玄関へ向かい、弦さんに駆け寄った。彼もまた、私の足にしがみついてくる。

 雨はひどくなるばかりだった。言い知れない不安が押し寄せてくるみたいな雨が、激しくガラスの引き戸に打ち付けていた。
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