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守りたい人と生まれる疑惑

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 果歩さんがろまん亭を訪ねてきたのは、辺りが薄暗くなる夕暮れ時だった。

 自宅へ戻ろうとろまん亭を出たとき、車から降りてきた彼女が黄昏たそがれ色に染まる空を背に私を振り返った。表情はよく見えなかった。

 だんだん彼女が近づいてきて、深刻な目を向けられてると気づくと逃げ出したくなった。陽仁さんがらみの話はあまりしたくない。それでも無下にできなくて、平然を装って歩み寄った。

「陽仁さんならいないですよ」

 確認するように言ってみると、果歩さんはゆっくり首を横にふった。

「あなたに会いに来たの。3時ぐらいにおじゃましたんだけど、留守だったから。何度もごめんなさい」
「じゃあ、入れ違いになったのかも」

 陽仁さんが帰ったあと、すぐに不動産屋へ出かけた。戻ってきたのは3時を少し過ぎていて、今までずっと残っていた仕事を片付けていた。

「お忙しいかしら?」

 弦さんのさんぽはまだ行ってない。駐車場に停められた赤い車に視線を移す。つづみさんなら、車を見たら状況を理解してくれるだろう。

「コーヒーしかないですけど」
「あなたのいれるコーヒー、おいしいから好きよ」

 ろまん亭の中へ戻る私に彼女はそう言ってついてきた。褒められるのは気分がいい。だけど、彼女とふたりきりになるのは気まずくて居心地の悪さを感じてしまう。それはやっぱり、私にできることなんてこれっぽっちもないってわかってるし、陽仁さんとの関係をなかなか容認できないでいるからだろう。

 カウンター近くのテーブル席に案内してコーヒーを出すと、彼女は砂糖をひとさじ入れて口もとへ運んだ。陽仁さんと同じ飲み方をする。そんなことまで気になって目をそらすと、彼女はため息をついた。

「恋人が警察に連れていかれたわ」

 え? と果歩さんを凝視すると、私の顔がよほどおかしかったのか、彼女はそっと笑った。

「陽仁のこと好きじゃないんだって顔してる」
「あ、そんなつもりじゃないです」

 否定するけれど、彼女の言う通りだ。ふたりはまだお互いに恋心を残してると思ってた。

「本音をいうとね、別れてからも陽仁を忘れられないでいたの。父も憎らしくて、家の中がおかしくなっちゃって。そんなときにあの人に出会ったの」
「あの人って……?」
小沢律紀おざわりつきって言うの。ご存知?」
「あ、……すみません。知らないです」
「真乃屋和雄は知ってたのに。ほんとにたまたま知ってただけなのね」

 あきれたような顔をするから、なんだか申し訳なくなる。

「有名な陶芸家の方ですか?」
「父の弟子なの。三歳年上のおとなしい人。お付き合いしたいって言われたときは本当に驚いたわ。私が陽仁と別れた理由も知った上だったし、陶芸一筋で恋愛なんて興味ないって思ってたから」

 小沢律紀さんは22歳のときに真乃屋和雄に弟子入りしたのだという。ちょうど、果歩さんが陽仁さんと付き合い出した頃だろうか。

 幸せいっぱいの彼女も傷心の彼女も、彼はずっとそばで見ていたのだろう。だから、失恋からなかなか立ち直れないでいる彼女に手を差し伸べた。果歩さんもその気持ちに応えることで、お互いを思いやってきた。

 果歩さんは優しくて物静かな人が好きなのだろう。きっと律紀さんは実直な好青年に違いない。

「彼ね、そろそろ独立したいって言っていたの。だからあの日も、父とその話をしてた」

 ふと、悲しげに眉を寄せて、コーヒーカップへ視線を落とす。

「あの日って……」
「ええ、父が転落した日。律紀さんが庭で倒れてる父に気づいて救急車を呼んでくれたの。私は職場にいて、病院に駆けつけたときにはもう父の意識はなくて」
「それじゃあ」
「ええ、律紀さんはずっと警察から事情を聞かれていたの」

 だから、果歩さんは言ったのだろう。真乃屋和雄が真実を語らないと困ったことになると。第一発見者が疑われるなんて話はよく聞く。律紀さんは最初から警察に疑われていたのだ。

「律紀さんが突き落としたなんて絶対ないわ。彼もそれだけは絶対にない、信じてくれって。私だって信じてる。いくら独立の件でもめたって、そんなこと絶対しない」
「……もめたんですか?」

 遠慮がちに尋ねると、彼女は胸もとまで垂れた長い髪をくしゃりとつかんだ。

「近所の人がそう証言したらしいの。父と律紀さんがもめてる声を聞いたって。信じられなくてすぐに彼を問い詰めたわ。そうしたら、独立はまだ早いって言われて、もめたかもしれないって」
「かもしれないって、覚えてないんですか?」

 果歩さんはゆっくり頭をふる。

「言えなかったのよ、私のために」
「どういうことですか?」
「律紀さんね、あんまり独立を反対されるから言ってしまったの、父に。盗作するような人に縛られたくないって」

 息を飲んだら、彼女は苦しげにまぶたを伏せた。

 それは売り言葉に買い言葉だったのかもしれないけれど、もっとも言ってはいけない言葉だっただろう。

「律紀さんは認めてほしかっただけなの。父が独立を反対したのだって、独立なんてしなくていい、私と結婚して真乃屋の後継になればいいって思ってたからだと思うの」

 真乃屋和雄と律紀さん、ふたりの失望は大きかっただろう。かみ合わない気持ちを話し合うには、言葉が足りなかったように思う。

「真乃屋さんは衝動的に飛び降りたんでしょうか」
「律紀さんは、追い込まれて飛び降りたんじゃないかって思ってる。ずっと父はあのことを後悔してたから、追い込んだのは自分だって、ひどいことを言ってしまったって、後悔してる」
「警察にその話は?」
「してないわ。父が盗作してたなんて世間に知れたら私たち親子は生きていけない。私たちの名誉を守りたいからって、律紀さんは黙っているの」
「だから陽仁さんに会いに来たんですね」
「そうよ。彼が公表するなら、父も律紀さんも受け入れるでしょう?」

 たとえ、それが公になったとしても、果たして律紀さんの疑いは晴れるのだろうか。盗作は事実。そのことでふたりはもめた。その挙句に、律紀さんが真乃屋和雄を突き落としたのだとしたら、すべてのピースがきれいにつながってしまうのではないか。

「私ね、気になってることがあるの」

 ぽつりと、果歩さんはつぶやく。まだ何かあるのだろうか。

「あの日、陽仁を見かけたって人がいるの。高校の同級生なんだけど、陽仁がうちに入っていくのを見たって。詳しい時間はわからないけど、律紀さんが父を訪ねた後じゃないかって思ってるの。今日はそれを聞きに陽仁に会いに来たんだけど、やっぱり何も話してくれなくて」

 眉をひそめる私をぼんやりと見つめる彼女は、どこかうつろな目をしていた。自分が何を言ってるのか判断がついてないのだろう。

「律紀さんのあとに陽仁が訪ねたなら、彼は無実よね。律紀さんが会ったあとに、陽仁は父に会ってるんだもの」
「……それはいつの話ですか?」
「10月の最初の金曜日よ。よく覚えてる。うちの会社ね、月初めと月末の金曜日は必ず残業になるから」

 10月最初の金曜日といえば、私がはじめてろまん亭を訪ねた前日だ。

 陽仁さんは出会ったころから物静かで落ち着いていて、動揺の少ない人に見えた。真乃屋和雄の一件を知っていて、あんな風に穏やかでいられるものだろうか。でも、どうなのだろう。彼をよく知らない私に、変化なんて気づきようがない。

 深いため息を吐き出す果歩さんに視線を移す。彼女はひどく疲れ切っていた。今日も朝から陽仁さんと会っていたのだ。守りたい人がいると、人は強くなれるのだろう。だけどもう、それも限界に近づいてるような気がした。

「陽仁の作品を父が盗んだと知ったとき、私は何も言えなかった。彼から陶芸を取り上げてしまったなんて、後悔してもしきれない。本当に才能にあふれる人だったの、陽仁は。だからもう、あんな思いをするのはいや。彼と同じように、律紀さんから陶芸を取り上げたくない。彼の才能をつぶしたくないの。陽仁は救えなかったけど、彼は救いたい」

 しぼり出すような彼女の言葉に、思わず声が震えた。

「そんなの、勝手です」
「わかってるわ。陽仁はたきざわ夕市の息子よ。たきざわ夕市の息子の作品を父が盗んだなんて明るみになったら、陽仁だけじゃなくて、たきざわさんにも迷惑がかかるのはわかってる。でも、陽仁を説得してほしいの」

 懇願する彼女の目には、ふたたび強い意志が宿っていた。しかしその力も、すぐに尽き果ててしまいそうなほどのもろさを同時に帯びていた。

「説得……?」

 何を。

「あなたなら陽仁を説得できるかもしれない。このままでは律紀さんは犯罪者にされてしまう。私や父のことはどうなってもいいの。律紀さんを守りたい。もう時間がないの……」

 果歩さんは細い手で顔を覆って、肩を揺らした。泣いてるのだろうか。泣きたい人はほかにいるのに。

 陽仁さんが、太陽の受け皿のレプリカはレプリカではなく、真乃屋和雄に盗作された自身の作品だと公表したら、律紀さんも警察に真実を話して、釈放されるのかもしれない。

 だけど、果歩さんは気づいてるのだろうか。それをしたら、今度は陽仁さんが疑われることになると。

「私には無理です」

 陽仁さんが沈黙してる理由なんて私にはわからないけれど、果歩さんは間違ってると思う。

 彼が失った多くのものはもう取り戻せないだろう。輝かしい芸術家としての未来を奪っておいて、どうして彼に助けなど求められるのだろう。

 陽仁さんは震えていた。それがすべてじゃないだろうか。

 私はゆっくりと頭をさげた。

「もう、陽仁さんを傷つけないでください」

 テーブルにひたいがぶつかりそうになるほど深々とさげることしか、いまの私にできることはなかった。
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