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プロポーズ
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会いたい。
たったそれだけのメールが啓介から届いたのは、あの日から二週間が過ぎた雨の日だった。
よりによって今日も残業で、仕事を終えると、レストランこもれびへとまっしぐらに走った。足元で水しぶきがあがり、パンプスに泥が跳ねる。今日は雨予報だったけど、こんなにまとまった雨が降るなんて聞いてない。
こもれびに飛び込む。薄手のコートはびしょ濡れで、入り口でハンカチを取り出していると、先に来ていた啓介が心配したのか、席を離れて来てくれる。
「ごめん、急に呼び出して」
「ううん、全然。啓介は濡れなかった?」
「俺が来た時はあんまり降ってなかったから。ハンガー借りれるか聞いてくるよ」
「大丈夫だよ」
そう言うのに、啓介はカウンターへ近づくと、店員に手振り身振りでコートが濡れているのを告げ、ハンガーを借りてくれる。
大人しそうな彼だけど、こんなふうな行動力と優しさを見せてくれるんだと思いながら、いつもの席に移動して、私たちはコーヒーを注文した。
「何か食べる?」
「啓介は?」
「返事次第で、食べようと思う」
情けなさそうな笑顔で、啓介はそう言った。
どうしてそんな顔をするのだろうと思ったけれど、ふられてまで長居したくはないだろうと思い直す。
私は迷って、メニューに伸ばした手を引っ込める。それだけで、落胆を見せる彼に私は言う。
「私ね、近いうちに引っ越そうと思ってるの」
「えっ、引っ越し? なんでまた」
いきなり本題を切り出されると思っていたのだろう。全然違う話をしたからか、拍子抜けしたように、啓介はぽかんとする。
「あわてて引っ越してきたから、あんまり物件をちゃんと見てなかったの。もっと住み心地のいいところに引っ越すつもり」
「結構、場所もいいし、新築だった気がするけど」
「セキュリティーも気になるし」
「一人暮らしはやっぱり不安なのか?」
「そういうんじゃなくて」
「違う?」
じゃあ、なんで? と言わないばかりに首をかしげる彼に、私はつとめて冷静に尋ねる。
「啓介は結婚願望ある?」
「え……、あ、ああ、あるよ」
啓介は意表をつかれたように肩を揺らしたが、後ろ頭に手を置いて、照れくさそうにする。
「実はさ、母親の体調がよくなくて、死ぬまでに安心させろって、なんでか父親に言われてるんだよ。今どき、結婚したら安心なんてのも古いよな。まあでも、結婚願望はあるよ」
「結婚したいのは、ご両親のため?」
「あっ、いや、そう聞こえたなら、ごめん。両親がそんなだから、結婚を意識する機会はあるって意味。結婚ありきで恋人探してるわけじゃないけどさ、絶対結婚しないなんて思ってるわけじゃないってこと」
「いい人がいたら、結婚したいって感じ?」
「それはそうだよ。……祥子は? 結婚をどう考えてる?」
少し迷いを見せたあと、彼はそう尋ねてくる。
触れてはいけない話題だと気づいていながら、それを乗り越えなくちゃ未来はないとわかっている。そんなふうに、私の表情の変化を見逃さないとばかりに顔をのぞき込んでくる彼から目をそらし、窓の外へと視線を移す。
ずいぶん雨は止んだようだ。ガラスに打ち付ける雨粒はもうなくて、私がここに来るまでの間だけ降っていたみたい。
啓介の座る後ろの壁に、私のコートがかかっている。彼の気遣いや優しさを知るためだけに雨が降ったんじゃないかなんて思えてくる。
私たちはこの一年、お互いの近況を伝えあっていたけど、深い話し合いはしたことがない。今日は違う関係を築く第一歩かもしれない。
「帰りはまた送るよ。雨予報だったから、今日は車で来たんだ」
「あっ、うん。いつも送ってくれてありがとう」
「いいよ、全然。呼び出したの、俺だし」
申し訳なさそうな彼に首を振り、話を戻す。
「私もね、結婚を考えないわけじゃないんだよ」
「そうなんだ?」
意外そうな表情と、うれしそうな表情をないまぜにしたような顔を、啓介はする。
「でも、あれからまだ一年だから、結婚するってなると、よく考えたの? って、両親が心配すると思う」
将司との結婚は決して、流れに任せたとか、勢いでしたわけじゃないけれど、一年もしないうちに離婚騒動になって、両親はあきれただろう。
「じゃあ、消極的なんだな」
「でもね、精神的な支えはほしいって思ったりするんだよ」
「そっか。前の人は年上だったよな。俺じゃ、頼りないって思ってる?」
「年齢じゃないよ。でも、まだわからない。だって私たち、こうやって会って話してるだけだもん。啓介が普段、どんな生活してるかも知らないし」
「別に隠し事とかないよ。祥子が負担に感じるような何かも抱えてない」
そう、はっきりと言い切ってくれる。
「啓介の言いたいことはわかるよ。私だって、失敗を恐れない若さがあれば、細かいことは気にしない」
「裏切ることは絶対しないって誓える自信があるよ」
「それでも、裏切られたから」
絶対、裏切らない。そんな口約束、簡単に反故にできる。それを知ってしまっているから、どうしても消極的になってしまう。
そんな気持ちを彼は汲み取ってくれたのか、優しく言う。
「俺が信じられないっていうなら、どうしたら信じてもらえるか考えるし、祥子に教えてもらいたいとも思うよ」
「啓介は私を裏切らないって、信じられる人だとは思ってるよ」
だけど、将司にだって同じ感情だった。裏切られるなんて思ってなかった。啓介と彼は違うと頭でわかっていても、じゃあ、お付き合いしましょう、と簡単にはならなくてもどかしい。
「前にも言ったけど、俺はさ、祥子のことがずっと好きだったよ」
まっすぐ見つめてくれる瞳に心が揺さぶられる。
清潔感のある短髪に、誠実そうな面立ち。いい人そうだね。啓介を見た人は誰でもそう言うだろうと思うぐらいの善人顔。好感はある。
だけど、彼ほどの熱量で好感を抱いているのかはわからない。ただ、もし彼の好意を断ったら後悔すると思うぐらいには好きだと思う。
「俺だって、今まで他の人と付き合ったことはあるよ。その間も、祥子が気になってたなら、彼女を裏切ってたってことになるよな。そういうところに不信感があるなら、俺は何度も祥子以外は好きにならないって言うしかない」
「そんなふうには思ってないよ。思ってないけど、どうして私なの? わざわざ、離婚歴のある私なんて選ばなくても、啓介の選択肢はたくさんあると思う」
そう言うと、啓介はほんの少し落胆した。
「そんなの気にしてない。祥子は祥子だよ」
芹奈の言う通り、彼は私がバツイチかどうかなんて関係ないのだ。
会いたい。
たったそれだけのメールが啓介から届いたのは、あの日から二週間が過ぎた雨の日だった。
よりによって今日も残業で、仕事を終えると、レストランこもれびへとまっしぐらに走った。足元で水しぶきがあがり、パンプスに泥が跳ねる。今日は雨予報だったけど、こんなにまとまった雨が降るなんて聞いてない。
こもれびに飛び込む。薄手のコートはびしょ濡れで、入り口でハンカチを取り出していると、先に来ていた啓介が心配したのか、席を離れて来てくれる。
「ごめん、急に呼び出して」
「ううん、全然。啓介は濡れなかった?」
「俺が来た時はあんまり降ってなかったから。ハンガー借りれるか聞いてくるよ」
「大丈夫だよ」
そう言うのに、啓介はカウンターへ近づくと、店員に手振り身振りでコートが濡れているのを告げ、ハンガーを借りてくれる。
大人しそうな彼だけど、こんなふうな行動力と優しさを見せてくれるんだと思いながら、いつもの席に移動して、私たちはコーヒーを注文した。
「何か食べる?」
「啓介は?」
「返事次第で、食べようと思う」
情けなさそうな笑顔で、啓介はそう言った。
どうしてそんな顔をするのだろうと思ったけれど、ふられてまで長居したくはないだろうと思い直す。
私は迷って、メニューに伸ばした手を引っ込める。それだけで、落胆を見せる彼に私は言う。
「私ね、近いうちに引っ越そうと思ってるの」
「えっ、引っ越し? なんでまた」
いきなり本題を切り出されると思っていたのだろう。全然違う話をしたからか、拍子抜けしたように、啓介はぽかんとする。
「あわてて引っ越してきたから、あんまり物件をちゃんと見てなかったの。もっと住み心地のいいところに引っ越すつもり」
「結構、場所もいいし、新築だった気がするけど」
「セキュリティーも気になるし」
「一人暮らしはやっぱり不安なのか?」
「そういうんじゃなくて」
「違う?」
じゃあ、なんで? と言わないばかりに首をかしげる彼に、私はつとめて冷静に尋ねる。
「啓介は結婚願望ある?」
「え……、あ、ああ、あるよ」
啓介は意表をつかれたように肩を揺らしたが、後ろ頭に手を置いて、照れくさそうにする。
「実はさ、母親の体調がよくなくて、死ぬまでに安心させろって、なんでか父親に言われてるんだよ。今どき、結婚したら安心なんてのも古いよな。まあでも、結婚願望はあるよ」
「結婚したいのは、ご両親のため?」
「あっ、いや、そう聞こえたなら、ごめん。両親がそんなだから、結婚を意識する機会はあるって意味。結婚ありきで恋人探してるわけじゃないけどさ、絶対結婚しないなんて思ってるわけじゃないってこと」
「いい人がいたら、結婚したいって感じ?」
「それはそうだよ。……祥子は? 結婚をどう考えてる?」
少し迷いを見せたあと、彼はそう尋ねてくる。
触れてはいけない話題だと気づいていながら、それを乗り越えなくちゃ未来はないとわかっている。そんなふうに、私の表情の変化を見逃さないとばかりに顔をのぞき込んでくる彼から目をそらし、窓の外へと視線を移す。
ずいぶん雨は止んだようだ。ガラスに打ち付ける雨粒はもうなくて、私がここに来るまでの間だけ降っていたみたい。
啓介の座る後ろの壁に、私のコートがかかっている。彼の気遣いや優しさを知るためだけに雨が降ったんじゃないかなんて思えてくる。
私たちはこの一年、お互いの近況を伝えあっていたけど、深い話し合いはしたことがない。今日は違う関係を築く第一歩かもしれない。
「帰りはまた送るよ。雨予報だったから、今日は車で来たんだ」
「あっ、うん。いつも送ってくれてありがとう」
「いいよ、全然。呼び出したの、俺だし」
申し訳なさそうな彼に首を振り、話を戻す。
「私もね、結婚を考えないわけじゃないんだよ」
「そうなんだ?」
意外そうな表情と、うれしそうな表情をないまぜにしたような顔を、啓介はする。
「でも、あれからまだ一年だから、結婚するってなると、よく考えたの? って、両親が心配すると思う」
将司との結婚は決して、流れに任せたとか、勢いでしたわけじゃないけれど、一年もしないうちに離婚騒動になって、両親はあきれただろう。
「じゃあ、消極的なんだな」
「でもね、精神的な支えはほしいって思ったりするんだよ」
「そっか。前の人は年上だったよな。俺じゃ、頼りないって思ってる?」
「年齢じゃないよ。でも、まだわからない。だって私たち、こうやって会って話してるだけだもん。啓介が普段、どんな生活してるかも知らないし」
「別に隠し事とかないよ。祥子が負担に感じるような何かも抱えてない」
そう、はっきりと言い切ってくれる。
「啓介の言いたいことはわかるよ。私だって、失敗を恐れない若さがあれば、細かいことは気にしない」
「裏切ることは絶対しないって誓える自信があるよ」
「それでも、裏切られたから」
絶対、裏切らない。そんな口約束、簡単に反故にできる。それを知ってしまっているから、どうしても消極的になってしまう。
そんな気持ちを彼は汲み取ってくれたのか、優しく言う。
「俺が信じられないっていうなら、どうしたら信じてもらえるか考えるし、祥子に教えてもらいたいとも思うよ」
「啓介は私を裏切らないって、信じられる人だとは思ってるよ」
だけど、将司にだって同じ感情だった。裏切られるなんて思ってなかった。啓介と彼は違うと頭でわかっていても、じゃあ、お付き合いしましょう、と簡単にはならなくてもどかしい。
「前にも言ったけど、俺はさ、祥子のことがずっと好きだったよ」
まっすぐ見つめてくれる瞳に心が揺さぶられる。
清潔感のある短髪に、誠実そうな面立ち。いい人そうだね。啓介を見た人は誰でもそう言うだろうと思うぐらいの善人顔。好感はある。
だけど、彼ほどの熱量で好感を抱いているのかはわからない。ただ、もし彼の好意を断ったら後悔すると思うぐらいには好きだと思う。
「俺だって、今まで他の人と付き合ったことはあるよ。その間も、祥子が気になってたなら、彼女を裏切ってたってことになるよな。そういうところに不信感があるなら、俺は何度も祥子以外は好きにならないって言うしかない」
「そんなふうには思ってないよ。思ってないけど、どうして私なの? わざわざ、離婚歴のある私なんて選ばなくても、啓介の選択肢はたくさんあると思う」
そう言うと、啓介はほんの少し落胆した。
「そんなの気にしてない。祥子は祥子だよ」
芹奈の言う通り、彼は私がバツイチかどうかなんて関係ないのだ。
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