プラトニックな事実婚から始めませんか?

水城ひさぎ

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接近

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「あら、そうー。久しぶりにこっちに戻ってきたの。一見駅の周辺も、学生時代と全然変わってるでしょう?」

 パン教室の講師、河瀬美里かわせみさとは、明るくてハキハキとした口調でそう言う。パーマをかけた長い髪を後ろで一つに束ね、シンプルなエプロンをつけた細身の女の人だ。

「ほんとに。ビルは同じでも、入ってるテナントが全然違ったりしますもん。このビルも昔は本屋さんが入ってましたよね? パン教室はいつからされてるんですか?」
「7年前よ。一念発起で始めたの」

 だとすると、私が大学を卒業し、東京へ引っ越した頃だろうか。

「それまでは、違う仕事をしてたんですか?」
「そうなの。結婚して仕事辞めて、それからパン教室に通うようになって、めちゃくちゃのめり込んじゃって、とうとう自分でって感じよ」
「ご結婚されてるんですね」
「それがねぇ、今はひとり」
「あっ……」

 余計なことを聞いてしまったみたいだ。申し訳ない気持ちになるが、美里さんはあっけらかんとしている。

「いいのよ、気なんて遣わないで。今はすっかり吹っ切れてるの」
「私も離婚してるんです。全然聞いてもらってかまわないって思うけど、積極的に話したくはないですよね……」
「祥子さんも? 苦労してるのね。でも、まだお若いからたくさん出会いがあるわよ」
「祥子は結婚を考えてる彼氏がいるんですよ」

 言ってもいいよね? と目配せしてきた芹奈がそう言うと、美里さんはパッと顔を輝かせる。

「いいじゃなーい。きっといい人ね。そんな気がするっ」

 啓介のハンカチの件でちょっと落ち込んでたけど、笑顔の美里さんになんだか救われた気分になる。

 きっと彼女は、その場の雰囲気を楽しむ人で、明日には私に彼氏がいるかどうかなんて忘れちゃう人なんだろうなと思う。そのぐらい、さっぱりした人に見える。だから、芹奈も暗い話にならないように話題をそらしてくれたのだろう。

「美里先生も彼氏いらっしゃるんじゃないですか?」

 芹奈が話を振る。

「それがねぇ、全然。っていうか、別れた夫が素晴らしい人だったから、あの人以上の男に出会えないって感じかな。離婚してから、7年も経つのにね」
「そんなに素敵な人だったんですね。いいなぁ。私も好きな人と過ごした時間が、何年先もずっと変わらずに素敵な思い出にできてるといいな」
「芹奈ちゃんも好きな人いるんだ? みんな、幸せになろっ。じゃあ、おしゃべりはこのぐらいにして、始めましょうか。今日もたくさん作るから、好きな人におすそわけしてね」

 気合いを入れて腕まくりした彼女の差し出すレシピのプリントを受け取る。今日は食パンとウインナードックを作るようだ。

「祥子さんはパン作り、はじめて?」
「少しだけやったことはあるんですけど、こうやって習うのは初めてなんです」
「オッケー。じゃあ、まずは食パンから作りましょうか」

 ぽんぽんと会話を弾ませる美里さんに教わりながら、私は慣れないパン作りに悪戦苦闘した。

 芹奈はさすが、助手のようにテキパキと動いて、私が一生懸命、生地の成形をしてるうちに洗い物に取りかかり、焼きの時間に入ったときにはティータイムの準備も終わって、あっという間に時間は過ぎていった。

「お土産もいっぱいできたね。おしゃべりもたくさんしたし、ストレス発散になるでしょー」

 焼きたてのパンがたくさん入った紙袋をかかえて、芹奈が笑顔を見せる。

「うん、楽しかったね。美里さんも明るくていい人だし、また行こうね」
「行こ行こっ。じゃあ、私はこのまま電車で帰るから、またね」
「気をつけてね。またね」

 駅の前で芹奈と別れ、寄り道をせずにマンションへと向かう。

 啓介は今ごろ、仕事中だろう。たまには私が夕食を作ろうかな。パンもあるし、パスタがいいかもしれない。

 あれこれ考えながら、玄関に入ると、啓介の仕事部屋から話し声が聞こえてくる。リモート会議でもしてるのかもしれない。

 そっと足音を忍ばせて、キッチンへ入ると、早速、パスタの材料を探す。買い物は基本的に私が休みの日にしているから、材料の把握はしてる。

 足りないものがあるときは啓介が買ってきてくれるけど、今日は買い物をした様子はないし、冷蔵庫に解凍済みの食材もない。特別、何かを作ろうとしてる感じはないみたいだから、あとで私が作るって言えば大丈夫だろう。

「バジルのパスタにしようかなぁ」
「祥子、帰ってたんだ?」

 パントリーの中をのぞいていると、後ろから声をかけられる。振り返ると、啓介がリビングテーブルに置いた紙袋をのぞき込んでいる。

「うるさかった?」
「いや、いい匂いがするなぁって思ってさ。これ全部、祥子が焼いたのか?」
「うん、なかなか上手にできてるでしょ? 夜ごはん、パンでもいい? あと、パスタ作ろうと思って」
「祥子が作ってくれるんだ? 楽しみだな」
「いつも啓介が作ってくれるから、たまにはね」
「祥子は掃除してくれてるんだから、気にしなくていいさ。ああ、そうだ。コーヒー飲むけど、祥子もいる?」
「うんっ」

 うなずくと、啓介はキッチンに入ってきて、私の顔を罪のない笑顔でのぞき込む。

「ちょっと、機嫌直してくれた?」
「いつも通りだよ」
「ハンカチの件、まだ気にしてるかなって思ってさ。昨日はあんまり口きいてくれなかったし」
「そうかな? 気のせいだよ」

 無意識に啓介を遠ざけてたんだろうか。

「ならいいけど。パン教室は芹奈と行ってきたんだよな?」
「そうだよ。綺麗な女の先生が教えてくれてね、バツイチ同士だねって盛り上がっちゃった」
「へえ、講師の先生もバツイチなんだ?」
「そうみたい。実は私ね、一見に戻ってくるときは、離婚したことあんまり知られたくないなって気持ちがあったけど、今日は笑い話にできて、楽しかったかな」
「それはよかったよ。芹奈はなんだって?」
「芹奈?」
「結婚をどう思ってるのかなぁって思ってさ」

 唐突すぎる質問に面食らう。急に芹奈を気にするなんて、どうしたんだろう。

「あー、どうかな。体調のこと気にしてる感じはあるよね。……啓介って、芹奈が手術したの、知ってる?」
「祥子も聞いた?」
「じゃあ、啓介も知ってるんだ?」
「知ってるっていうかさ、芹奈に取材して記事書いたこともあるんだよ。若い女性にもっと検診を受けてほしいって、啓蒙活動のさ」
「そうだったんだ……。私、全然知らなくて」
「芹奈、ほかに何か言ってたか?」

 話してもいいんだろうか。芹奈が誠也さんを好きだって。でも、啓介に話してもいいことなら、もう彼女から先に話してるだろうとも思う。

「あ、ううん。のんちゃんがかわいいって話だけ。ほら、のんちゃんってお母さん似だから、芹奈にも似てるじゃない? 自分の子どもみたいにかわいがってるんだって。成人するまで見守りたいって思ってるみたいだったよ」
「だよなぁ。難しいところだよな」
「難しいって、何が?」

 やっぱり、今日の啓介は変だ。彼にも話せないことがあるみたい。

「あ、いや、こっちの話」
「気になるじゃない」
「あー、なんていうかさ、誠也さんと芹奈が気まずくなったら、芹奈ものんちゃんと会いにくくなるだろうなって思ってさ」
「気まずくなるって?」
「たとえばの話だよ」

 啓介はごまかすように笑うと、冷蔵庫からコーヒー豆を取り出す。そして、何かを思い出したように口を開く。

「来週なんだけどさ、取材に行ってくるよ。家あけるけど、心配しなくて大丈夫だから」
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