プラトニックな事実婚から始めませんか?

水城ひさぎ

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「ただいまー」

 東京での取材を終えて帰宅すると、マンションの中はシンと静まり返っていた。

「祥子は仕事か」

 ひとりごとをつぶやきながら、靴を脱ぐ。キャリーバッグは玄関先に置いたまま、疲れた身体を引きずるようにしてリビングに入る。そして、厚手のコートを脱いで、寝室の隣にある部屋の扉をノックする。

 いないとわかり切っているのに、祥子がいないか確認するのは念のためだ。この部屋は衣装部屋を兼ねた彼女の部屋だからだ。普段は無断で入ったりしない。もちろん、彼女も俺の仕事部屋に勝手に出入りしない。

 冬物のコートやフォーマルのスーツは一緒に管理した方がいいと彼女が言ってくれて、俺の服を何着か置いてくれている。

 コートをクローゼットにかけたらすぐに出るつもりで、部屋に踏み込む。おしゃれなドレッサーが置かれたシンプルな部屋だ。彼女はきれい好きで、どの部屋も使いやすく、雑然としていない。

 申し分ないぐらい丁寧な暮らしをしている祥子と暮らせているのは、かなり幸運なことだ。それを毎日のように感じながら、俺は過ごしている。

 コートをハンガーに引っかけて、クローゼットにしまおうとしたとき、すそがほつれて、糸が垂れているのに気づいた。

「うわー、全然気づかなかったな」

 コーヒーで汚れたお気に入りのコートはまだクリーニングに出してある。仕方ないから、普段あまり使っていなかったコートで取材に出かけることにしたのだが、すそのほつれは見落としていたようだ。

「ハサミ、あったかな」

 部屋を出ようとしたが、仕事部屋まで行くのが億劫で、祥子のドレッサーに近づく。

 よく使う化粧品だろうか、少しばかりの口紅や化粧水が置かれているが、見えるところにハサミはない。

「ちょっと悪いな」

 両手を顔の前で軽く合わせ、引き出しを開く。ハサミぐらいすぐに見つかるだろうと思っていたが、数々の化粧品が整然と並んでいるだけだ。

 やっぱり、部屋まで行くか。と、あきらめつつ、もう一段下の引き出しを開いたとき、俺は白い封筒に気づいた。

「なんだ?」

 それは、祥子宛の消印のない封筒だった。宛名を書いたのは、女性だろう。かわいらしい丸文字で、妙な無邪気さを感じる。

「芹奈じゃないよな」

 芹奈は細く長い繊細な文字を書く。

 元警察官の勘だろうか。どうにも気になって、封筒を手に取る。自分は正しいことをしていない。その自覚はあるし、一緒に暮らしているからと言って、彼女のすべてを知ろうとするのも間違いだとわかっている。

 しかし、祥子から芹奈以外の友人の話を聞いたことはないし、まして、手紙のやり取りをする友人がいるような話も聞いていない。

 百歩譲ったとしても、友人からならもっとかわいらしい封筒を使うんじゃないかとか、様付けの宛名書きなのに、住所が書かれていないのはおかしいんじゃないかとか、とにかく異様な雰囲気を感じ取って、放っておけないと思った。

「祥子、ごめん」

 謝罪にもならない謝罪をつぶやいて、封筒を開く。中には、封筒と同じ、素っ気ない白い便箋が一枚入っていた。

 三つ折りにされたそれをゆっくりと開く。そこに書かれた、たった二行の文字を読み上げる。

「私、見てますよ。絶対、許しませんから。……なんだこれ」

 脅迫文にも見て取れるそれを、すぐさまドレッサーの上に広げると、ズボンの後ろポケットからスマホを取り出して、写真におさめる。あとは、何もなかったように元通りにする。

「トラブルに巻き込まれてるのか?」

 改めて、スマホの画像を見ながら、頭をめぐらせる。祥子にトラブルがあるとしたら、離婚にまつわること以外に思い浮かばない。

 だとしたら、手紙の差出人は別れた夫の不倫相手か。たしか、不倫相手には弁護士を通じて慰謝料を請求し、解決したと言っていたはずだが。

「不倫相手の名前、聞いておけばよかったな」

 髪をくしゃくしゃっとしたとき、スマホの画面にメール通知が届く。祥子だ。新幹線に乗り込んだとき、『昼には帰る』と送ったから、その返信だろう。

『おつかれさま。もう着いた?』

 着いたかどうか聞いてくるあたり、スマホの位置情報を共有していても、見てないのだろう。まあ、信頼されてると受け取ればいいのだろうが。

『いま、マンションにいる』
『疲れてるよね』
『大丈夫。夜ごはんは俺が作るよ』
『いつもありがとう。まだ仕事中』
『買い物は俺が行くから』
『うん。ありがとう』

 たわいのないやりとりをしたあと、クローゼットからダウンジャケットを取り出して、出かける準備を始める。

「ちょっと腹減ったな。ついでに何か食うか」

 つぶやいて、玄関先に置いたままの財布をつかむとマンションを出た。
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