プラトニックな事実婚から始めませんか?

水城ひさぎ

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 駅前の通りにあるカフェ『モルドー』に入ると、窓際の席に座って、コーヒーとサンドイッチを注文した。

 ここへはよく、一人で来る。落ち着いたオレンジ色の照明が外界の喧騒を消し去り、やすらぎの空間を与えてくれる。考えごとをしたいときには最適な場所だからだ。

 スマホを取り出し、さっき撮影したばかりの祥子宛の手紙を眺める。何度見ても見覚えのない文字だ。

 祥子は大学を卒業後、すぐに上京した。再会するまでの数年間、どんな人生を送ってきたのかあまりよく知らない。

 高校時代はその美しさから、それなりに嫉妬されて嫌な思いをしたことはあっただろうが、恨みを買うほどのトラブルに巻き込まれているのは見たことがなかった。

 大学時代も同じだ。彼女と同じ大学へ進学した友人が、モテるだろうに、地味な学生生活を送っていてもったいないと言っていたのを覚えている。

 それに、手紙も古びてはいない。最近のものだろう。そう考えると、やはり、彼女の元夫の不倫相手からのものとしか思えない。しかし、彼女は夫とはきっぱり別れ、連絡は取り合っていない。不倫相手から恨まれる理由もよくわからない。

 隣に人の気配を感じて、スマホを閉じる。店員だろうと思って顔を上げたら、ニットを着た茶髪の女の人がこちらを見下ろしていた。見覚えのあるその顔に俺がちょっと驚くと、彼女は「やっぱりっ」と満面の笑みを見せた。

「ご一緒していいですか?」

 いいなんてひとことも言ってないのに、彼女は向かいに腰かけると、バッグを脇に置き、足を組む。そうして、サンドイッチを運んできた店員にカフェオレを注文する。

「ひとり?」

 仕方なく尋ねると、彼女はかわいらしくうなずく。

「実は、外からあなたが見えて、追いかけて来ちゃいました。この間は本当にすみませんでした。コート、だいぶ汚れちゃいましたよね。大丈夫でしたか?」
「気にしなくていいよ。ああ、そうだ。ハンカチ、どういうわけか、俺のポケットに入っててさ。……しまったな。マンションに置きっぱなしだ」

 ハンカチは、祥子が洗ってアイロンまでかけてくれ、かわいらしい紙袋に入れて、玄関先に置いてくれたんだった。

「私が入れたんです。またお会いしたかったから」

 彼女はさらっと好意を見せる。

 俺の顔をじっと見つめる瞳は、まるくてかわいらしい。誘われたら、断らない男は多いだろうなと思うぐらいにはかわいい。

「いつもあの時間に出歩いてるの?」
「あの日はたまたまです。でも、マンションの前はよく通るから、いつか会えるかなって思ってたんです」
「ああ、そう。とりあえずさ、ハンカチ、取りに行ってくるよ。ちょっと待っててくれないか?」

 立ち上がろうとすると、彼女は通路に腕を伸ばして、とおせんぼする。

「また会えたときでいいです」
「またってさ……」

 あきれるが、彼女はめげない様子で、スマホの画面を俺に見せる。

「連絡先、交換しませんか?」
「いや、困るよ」
「どうしてですか?」
「彼女がいるからさ、こういうのは困るんだよ」
「彼女さんって、嫉妬深い人なんですか?」
「そうじゃなくて、俺が嫌なんだよ」
「別に連絡先ぐらい交換してもいいじゃないですか? すごくいい人なんですね。私もあなたみたいな彼氏が欲しかったな。いつもハズレばっかり」

 ため息をついて、彼女はさみしそうな顔を見せる。

 なんて声をかけたらいいかわからず、黙っていると、彼女は急に立ち上がって、俺の隣へやってくる。そして、触れ合うほどに近づいてくる。

 体のラインがわかるニットなだけに、ダイレクトに胸の感触が腕に伝わってきて、気まずい。さりげなく離れると、彼女はふふっと笑う。俺の反応を見て楽しんでいるのだろう。

「私、吉川綾って言います。あなたは?」
「……小寺啓介だけど」

 仕方なく、名乗る。話を合わせつつ、さっさと食事を済ませて、店を出ればいいだろう。

 いや、ハンカチは返したい。勝手には捨てられない。けれど、マンションに連れていきたくもない。どうしたらいいだろう。

「啓介さんっていうんですね。彼女さんとは一緒に暮らしてるんですか?」
「どうして?」
「だって、あのマンション、一人暮らしするようなマンションじゃないから」
「ああ、そうか」
「結婚の予定があるんですか?」
「まあね」

 うなずくと、綾は小さなため息をつく。

「実は私も、婚約してたんです」
「過去形で言うんだな」
「彼が浮気して、ダメになっちゃって」
「それは……大変だったね」

 わずかに同情する。どうしてこうも、浮気や不倫をする男がたくさんいるのだろう。同じ男として情けないし、理解できない。

「本当に好きだったんです。運命を感じたっていうか……、今まで付き合ってきた人たちは全員、軽薄な人だったんだって気づかせてくれるような人で、運命的な恋だったんです」

 そんな相手がいたのに、道ですれ違った程度の出会いの俺にまとわりついてくるのか。

「もしかして、俺、その彼氏に似てる?」
「えっ、違いますよ。啓介さんとは違うタイプです。でも、啓介さんは出会った瞬間に、好きだなって……思って」

 綾はほんのりほおを染める。つまり、運命の恋よりも運命を感じたとか、そんなことを言いたいんだろうか。

「俺は思ってるような男じゃないと思うよ」
「そんなことないですよ。彼女さんのこと、大切にしてるの伝わってきますし。別れた彼は、全然、私を守ってくれなかったんです」
「守るって?」
「浮気相手の女が私に嫌がらせしてきたのに守ってくれなかったんです。元警察官なのに」
「へえ、彼は警察官だったんだ?」

 俺と同じか。やっぱり、元彼とどこか似たところを俺に感じてるんだろうか。

「そうなんです。浮気がわかる少し前に、私たち、同棲を始めたんです。そのあと、あの女が嫌がらせしてきて……。怖いって相談したら、彼、なんて言ったと思います?」
「全然、わからないけど……」
「彼女を悪く言うなって。そんなことする女じゃない。嫌がらせしてるのは、おまえにほかの男がいて、そいつがやってるんじゃないのかって」
「それは、ひどいな」
「ですよね。私が一緒に暮らしたいって言い出したのは、ほかの男とうまく別れられなかったから、警察官だった俺をボディーガードとして利用したんじゃないのかって……そんなことまで言われて」

 泣き出しそうな顔をする綾を見ていると、複雑な気持ちになる。

 もしかして、祥子もそうなんだろうか。俺が結婚を迫ったから、彼女は俺の気持ちに寄り添ってくれたんだと思っていたが、そうじゃなかったのだろうか。

 同棲を決意する前から彼女は転居を考えていた。あの脅迫文から身を守るために引っ越しを急いでいたのだったとしたら、元警察官である俺は好都合な存在だっただろう。だから、俺を利用することにしたのか……?

 だとしたら、俺は一生、祥子を抱けないし、事実婚さえできない。気のあるそぶりを見せてくれる彼女から離れられないまま、今の生活を続けていくことになるのか……。

「啓介さん?」

 考え込む俺の腕に、綾が手をかけてくる。

「それで、破談に?」

 ハッとして、身を引きながら尋ねる。

「一方的に捨てられました。だから、次は優しい人と付き合いたいなって思ってて」
「優しい人はたくさんいると思うよ」
「でも、啓介さんはダメなんですよね?」
「そうだね」
「彼女さんと別れてくださいって言ってもダメですか?」
「悪いけど」

 何度も断るが、綾はどんどん俺に迫ってくる。本当に困った。

「でも、また会ってほしいです。こうやってお話するだけでいいですから」
「誤解されるようなことはしたくないから」
「じゃあ、また偶然に会えたら、お話してください。何度も偶然が重なったら、私たちはお互いに運命の人かもしれないですよね」

 綾は祈るような目でそう言うと、カフェオレには手をつけず、カフェを飛び出していった。
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