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あなただけ
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しおりを挟むそっと目の前に置かれたビールに気づいて目をあげる。
「ごゆっくりどうぞ」
泣き出しそうな顔をしてるだろう私に、若いマスターがにっこりと微笑む。私は小さく頭をさげたあと、グラスに入った麦わら色のビールをぼんやりと見つめた。
程なくして、ひとりの客が店を去る。呼応するように、ひとり、またひとりと帰っていく。気づけば、残るは私だけ。
ようやく、ビールを口に含む。苦味がまったくしなくて、ショックを受ける。思ってる以上に傷ついてるみたい。
もう、啓介はマンションに帰っただろうか。私がいないと知ったら、どうなるだろう。いや、まだ綾と一緒にいるに決まってるか。それすら考えるのは億劫だ。
小さなため息をついたとき、扉の開く音が背後でする。
「いらっしゃいませ」
「あ、連れがいるから」
カウンターの中に立つマスターに話しかける青年の声に覚えがあって、驚いて振り返る。
「啓介……、どうしてここに?」
「やっと、GPSが役に立ったな」
啓介はからりと笑って、スマホを見せる。
「帰ったらさ、祥子がいないから心配したよ」
彼は向かいに腰かけると、私と同じビールを注文する。
綾と飲んでたんじゃないのだろうか。そう思うけど、聞けない。啓介の行動を監視してたなんて知られたくない。
「ごめんね。急に飲みたくなっちゃって」
「考えてみたら、最近、あんまり祥子と外食してないよな。たまには飲みに行ったりしようか」
罪のない彼の笑顔は残酷だ。素直にうなずけなくて、目を伏せる。
啓介にどう接したらいいかわからなくなってる。優しいことを言ってくれたって、心のどこかで、あの子とも遊んでるんでしょって考えてる。
ビールが運ばれてきて、啓介は乾杯しようとしたけど、私がグラスも握らないから、あきらめた様子で、そのまま口もとに運ぶ。
「祥子、あのさ……」
ビールを飲み終えた啓介が、気まずそうに切り出す。
「吉川綾って、知ってる?」
私は思わず、ハッと顔をあげた。これでは、知ってると答えたようなものだ。しかし、そうは言えなくて、うつむく私に彼が手を伸ばしてくる。
「不倫相手だよな?」
ふたたび、顔をあげる。目を合わせると、心配そうに眉を寄せる彼が、大丈夫だよと言うようにうなずく。
おそるおそる、彼の手を握る。温かい手に触れたら、胸がほっとする。指先がすごく冷たくなってたんだって、彼のぬくもりに気付かされる。
「会ったの?」
のどに張り付いて、うまく出てこなかった声を、ようやく吐き出す。
「めちゃくちゃ粘着されててさ」
「粘着?」
ちょっと驚くと、困り顔の啓介は後ろ頭をくしゃくしゃとかき乱す。
「彼女は偶然だって言うんだけど、絶対、偶然じゃないよなって頻度で会うんだよ。仕方ないから、連絡先交換してさ、今日はハンカチだけ返すって呼び出して会ってた。……それは、隠しててごめん」
思わず、逃げ出しそうになる手を彼はしっかりと握ってくる。
「ちゃんと話せなくてごめん。俺さ、きっと怖気づいてたんだ。祥子が俺を利用したんじゃないかって」
「利用なんてしてないよ……」
「わかってるよ。うまく言えないけど、俺が警察官だったから、一緒に暮らせば安心だって、ふたりで暮らす決意をしたのかなぁーとかさ。なんか、そんなふうに落ち込んだりもしてた」
落ち込んでるなんて気づかなかった。ここのところの彼は忙しそうにしてたけど、弱音なんて吐かないし、そんな態度も見せてなかった。
一緒に暮らしてるのに、彼の不安に私は全然気づいてなかったのだ。
「そんなことない。啓介が好きだから、寄り添ってきたつもりだよ」
「俺、自信がなくて、迷走しそうになってたかもしれない」
「自信がないなんて言わないで。私の方こそ、本気で好きになった人に裏切られたら怖いって、心のどこかで思ってたんだと思う。こんな形で一緒に暮らすことになってごめんね」
啓介が落ち込んでるなら、私のせいだ。プラトニックの恋なんて望んだから。啓介は少しもそんな関係、望んでなかったのに。
「謝るなよ。祥子は何も悪くない。綾の言葉に惑わされて、祥子の気持ちを疑った俺が悪い。でも、それはおかしいだろって気づいて、調べてみる気になったんだ」
「綾が何を言ったの?」
「彼女って、嘘つきだよな? でもさ、全部が全部、嘘じゃない。ひとりで上京したこと、そこで男に傷つけられたこと、それは本当の話だった」
啓介に身の上話をして、綾は同情を誘ったのだろうか。そうやって、将司にも近づいたのかもしれない。
「綾をなぐさめたくなった?」
将司がそうしたように、啓介にもそんな気持ちが芽生えただろうか。
「誤解するなよ。だいたい俺、そこまでモテたことないし、彼女さ、やけに祥子の存在を気にするんだよな。もしかしたら、祥子に何か目的があって俺に近づいてきたんじゃないかって思ったんだよ。だから、東京の知人に、祥子の前の勤め先の周辺を調べてもらったんだ」
警察官の勘が働いたと、啓介は得意げな笑みを見せる。
「それで、前の夫との関係を知ったの?」
「知るのは簡単だったよ。彼女、彼の店で大騒ぎしたらしいね。テナントの人たちの間じゃ、有名な話らしい」
「……恥ずかしい話だよね」
今、思い出しても情けない出来事だ。将司に捨てられた彼女は仕事中の彼に泣きついて、警備員を呼ぶ事態になった。将司が降格したのも、あの出来事が大きかっただろう。
「そりゃあ、こっちに帰ってきたくなるよな、祥子も」
「綾も、そうだったのかな。あの人と別れて、こっちに帰ってきたのかも」
「同郷とは皮肉だよな」
「そうだね……」
しょう然とうなずくと、啓介は私をなぐさめるような目で見つめながら、切り出す。
「俺さ、もう少し、彼女のこと調べようと思う」
「まだ何かあるの?」
「何でそんなに祥子に執着してるのか気になるんだよ」
「あの人と別れた腹いせじゃないのかな……」
「本当にそれだけかな」
まだ何か引っかかることがあるのだろうか。啓介はあごをさすると、何か考えごとをするかのように黙り込んだ。
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