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償い
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帰路に着く足は重たかった。啓介の頼みごとを叶えることができなかった申し訳なさと、美里さんの告白の衝撃をいまだに受け止めきれておらず、複雑な感情に押しつぶされそうだった。
玄関ドアの前でひと呼吸する。冷えたほおをぺちぺちと叩くと笑顔を作り、ドアノブをつかむ。玄関に踏み込むと、すっかり馴染んだ我が家の匂いの中に、焼きたてパンのいい香りが漂う。
「おかえり、祥子。なんかすっげぇ、いい匂いだな」
玄関が開いた音に気づいたのか、仕事部屋から啓介が出てくる。彼の笑顔を見たら、やっとの思いで作っていた笑顔が崩れていくのを感じる。
「ごめんね、啓介。美里さん、コモンに行きたくないって」
昨夜、啓介から頼まれたのは、ひとつだった。『健一さんに美里さんを会わせたい』それだけ。
健一さんは、コモンのマスターの門倉健一。彼は河瀬美里の元夫だという。美里さんがバツイチなのは聞いていたけど、まさか、別れた夫がコモンのマスターだとは知らなかった。
啓介はコモンによく立ち入っている。たまたま、私が芹奈とパン教室に通っているという話になったときに、講師の美里さんは別れた妻なのだと健一さんから聞かされて、彼はその事実を知ったらしい。
健一さんは美里さんに会いたがっている。おせっかいかもしれないが、ふたりを引き合わせて、話をさせたい。啓介はそう考えて、美里さんをコモンへ来るよう誘ってほしい、と私に頼んできた。と、私は思っていた。
「そっか。やっぱり、だめだったか。健一さんは未練があるみたいだから、会わせたかったんだけどな」
「それだけ?」
そう言うと、啓介は笑みを消す。
私はいま、どんな顔をしてるだろう。少なくとも、彼から笑顔を奪うほどの苦しい顔をしているに違いない。
「全部、聞いちゃった。コモンのマスターが綾と不倫してたことも、綾の婚約を破談に追い込んだのが美里さんだってことも」
「祥子……」
「啓介は全部、知ってたんだよね? 美里さんをコモンに行かせて、どうするつもりだったの? 綾を呼んで、あの子にしたこと白状させて、謝らせたかった?」
こちらに近づこうとする彼を遠ざけるような、責めた言い方をしてしまう。
「それは違う。違うよ、祥子。俺はただ……」
「ただ、何?」
淡々とした声が出る。どうにも、自分で感情のコントロールができない。啓介を責めたいわけじゃないのに、そうしてるような雰囲気になってしまう。
「……ごめん、祥子。俺、綾が祥子に嫌がらせの手紙を書いたの、知ってるんだ」
彼の口から意外な事実が出てきて、驚いた。
「見たの……?」
あれは、ドレッサーの引き出しに入れてあるはず。
「たまたま見つけた。それは本当にごめん。俺はただ、綾を破談に追い込んだのは祥子じゃないって証明して、もう二度と祥子に近づかないように綾を説得するつもりだっただけなんだ」
その証明こそが、美里さんの復讐を明るみにすることだって、啓介がわからないはずはないのに。
「……私のせいだね」
「何が。祥子は何もしてない。何も悪くないよ」
眉を寄せたまま、啓介はきっぱりと否定するように首を振る。
「美里さん、苦しかったと思うよ。私は謝らせたいとは思わない。だから、コモンに行かないって言ってくれてよかったって思ってる」
「……そうだよな。そう思うよな。祥子にも嫌な思いさせてごめん。ほんとにごめん」
「謝らなくていいよ。私が啓介の計画、つぶしたんだから。私ね、美里さんが本当に健一さんに会いたいのか、聞いてみたかっただけなの。復縁させたくて、美里さんをコモンに連れていくんだって思ってたから」
それだけだったのに、美里さんが綾を破談に追い込んだことまで知ってしまった。
「私、何も聞いてないことにする。綾の味方だけはできないから。啓介はまっすぐだから、美里さんが謝らないのは嫌かもしれないし、それを見て見ぬふりをする私を嫌うかもしれないけど……」
言ってるそばから涙があふれてくる。
私は最低な人間かもしれない。人の不幸を喜ぶ人間にだけはなりたくないと思って生きてきたのに。啓介も巻き込んで、嫌な思いさせて、何やってるんだろう。
「祥子、泣くなよ」
こちらに近づくのをためらっていた啓介が、すぐさま両腕でしっかりと私を抱きしめる。
どうして、彼の腕の中はこんなにも温かくてほっとできるんだろう。このぬくもりを手放したくなくて、背中に回した手でぎゅっとシャツを握りしめる。
綾に出会って、将司は変わってしまった。その将司に傷つけられて、私も自分の中にあった嫌な一面を見つけてしまった。だけど、啓介は綾に出会っても何も変わらないでまっすぐなままでいてくれる。
「ごめんね。ごめんね……。啓介だって、私のためにがんばってくれてるのに」
「だから、謝るなって。祥子は何も悪くないだろ。綾のことは、違う方法を考えるから」
「もういいよ……、啓介」
「そんなこと言うなよ。健一さんには真実を話してみるけど、どうするかはそれから考えるから」
「健一さんは今でも、美里さんを愛してるんでしょ? 自分のせいで、好きな人が復讐したなんて知りたくないと思うよ」
もうやめて。祈るような気持ちで、啓介を見上げる。しかし、彼の目には明確な決意が浮かんでいた。
「俺はさ、祥子が一番大切だから、祥子は嫌がらせなんかしないって、綾にわかってもらえるまであきらめるつもりはないよ」
「そんなことのために、健一さんは知らなくていいことを知るの? それを聞いて幸せになれる? 教えた啓介を恨むかもしれない。私のために啓介が傷つく必要ある?」
「だめだよ。嫌でも乗り越えよう。綾が二度と俺たちの前に姿を見せないようにするんだ」
負の連鎖を断ち切りたい。きっと私と啓介の思いは同じ。だけど、うまく噛み合わない。
「どうしても、コモンに行くの?」
「ああ。今夜、コモンで会う約束してる」
「じゃあ、私も行く。連れてって」
帰路に着く足は重たかった。啓介の頼みごとを叶えることができなかった申し訳なさと、美里さんの告白の衝撃をいまだに受け止めきれておらず、複雑な感情に押しつぶされそうだった。
玄関ドアの前でひと呼吸する。冷えたほおをぺちぺちと叩くと笑顔を作り、ドアノブをつかむ。玄関に踏み込むと、すっかり馴染んだ我が家の匂いの中に、焼きたてパンのいい香りが漂う。
「おかえり、祥子。なんかすっげぇ、いい匂いだな」
玄関が開いた音に気づいたのか、仕事部屋から啓介が出てくる。彼の笑顔を見たら、やっとの思いで作っていた笑顔が崩れていくのを感じる。
「ごめんね、啓介。美里さん、コモンに行きたくないって」
昨夜、啓介から頼まれたのは、ひとつだった。『健一さんに美里さんを会わせたい』それだけ。
健一さんは、コモンのマスターの門倉健一。彼は河瀬美里の元夫だという。美里さんがバツイチなのは聞いていたけど、まさか、別れた夫がコモンのマスターだとは知らなかった。
啓介はコモンによく立ち入っている。たまたま、私が芹奈とパン教室に通っているという話になったときに、講師の美里さんは別れた妻なのだと健一さんから聞かされて、彼はその事実を知ったらしい。
健一さんは美里さんに会いたがっている。おせっかいかもしれないが、ふたりを引き合わせて、話をさせたい。啓介はそう考えて、美里さんをコモンへ来るよう誘ってほしい、と私に頼んできた。と、私は思っていた。
「そっか。やっぱり、だめだったか。健一さんは未練があるみたいだから、会わせたかったんだけどな」
「それだけ?」
そう言うと、啓介は笑みを消す。
私はいま、どんな顔をしてるだろう。少なくとも、彼から笑顔を奪うほどの苦しい顔をしているに違いない。
「全部、聞いちゃった。コモンのマスターが綾と不倫してたことも、綾の婚約を破談に追い込んだのが美里さんだってことも」
「祥子……」
「啓介は全部、知ってたんだよね? 美里さんをコモンに行かせて、どうするつもりだったの? 綾を呼んで、あの子にしたこと白状させて、謝らせたかった?」
こちらに近づこうとする彼を遠ざけるような、責めた言い方をしてしまう。
「それは違う。違うよ、祥子。俺はただ……」
「ただ、何?」
淡々とした声が出る。どうにも、自分で感情のコントロールができない。啓介を責めたいわけじゃないのに、そうしてるような雰囲気になってしまう。
「……ごめん、祥子。俺、綾が祥子に嫌がらせの手紙を書いたの、知ってるんだ」
彼の口から意外な事実が出てきて、驚いた。
「見たの……?」
あれは、ドレッサーの引き出しに入れてあるはず。
「たまたま見つけた。それは本当にごめん。俺はただ、綾を破談に追い込んだのは祥子じゃないって証明して、もう二度と祥子に近づかないように綾を説得するつもりだっただけなんだ」
その証明こそが、美里さんの復讐を明るみにすることだって、啓介がわからないはずはないのに。
「……私のせいだね」
「何が。祥子は何もしてない。何も悪くないよ」
眉を寄せたまま、啓介はきっぱりと否定するように首を振る。
「美里さん、苦しかったと思うよ。私は謝らせたいとは思わない。だから、コモンに行かないって言ってくれてよかったって思ってる」
「……そうだよな。そう思うよな。祥子にも嫌な思いさせてごめん。ほんとにごめん」
「謝らなくていいよ。私が啓介の計画、つぶしたんだから。私ね、美里さんが本当に健一さんに会いたいのか、聞いてみたかっただけなの。復縁させたくて、美里さんをコモンに連れていくんだって思ってたから」
それだけだったのに、美里さんが綾を破談に追い込んだことまで知ってしまった。
「私、何も聞いてないことにする。綾の味方だけはできないから。啓介はまっすぐだから、美里さんが謝らないのは嫌かもしれないし、それを見て見ぬふりをする私を嫌うかもしれないけど……」
言ってるそばから涙があふれてくる。
私は最低な人間かもしれない。人の不幸を喜ぶ人間にだけはなりたくないと思って生きてきたのに。啓介も巻き込んで、嫌な思いさせて、何やってるんだろう。
「祥子、泣くなよ」
こちらに近づくのをためらっていた啓介が、すぐさま両腕でしっかりと私を抱きしめる。
どうして、彼の腕の中はこんなにも温かくてほっとできるんだろう。このぬくもりを手放したくなくて、背中に回した手でぎゅっとシャツを握りしめる。
綾に出会って、将司は変わってしまった。その将司に傷つけられて、私も自分の中にあった嫌な一面を見つけてしまった。だけど、啓介は綾に出会っても何も変わらないでまっすぐなままでいてくれる。
「ごめんね。ごめんね……。啓介だって、私のためにがんばってくれてるのに」
「だから、謝るなって。祥子は何も悪くないだろ。綾のことは、違う方法を考えるから」
「もういいよ……、啓介」
「そんなこと言うなよ。健一さんには真実を話してみるけど、どうするかはそれから考えるから」
「健一さんは今でも、美里さんを愛してるんでしょ? 自分のせいで、好きな人が復讐したなんて知りたくないと思うよ」
もうやめて。祈るような気持ちで、啓介を見上げる。しかし、彼の目には明確な決意が浮かんでいた。
「俺はさ、祥子が一番大切だから、祥子は嫌がらせなんかしないって、綾にわかってもらえるまであきらめるつもりはないよ」
「そんなことのために、健一さんは知らなくていいことを知るの? それを聞いて幸せになれる? 教えた啓介を恨むかもしれない。私のために啓介が傷つく必要ある?」
「だめだよ。嫌でも乗り越えよう。綾が二度と俺たちの前に姿を見せないようにするんだ」
負の連鎖を断ち切りたい。きっと私と啓介の思いは同じ。だけど、うまく噛み合わない。
「どうしても、コモンに行くの?」
「ああ。今夜、コモンで会う約束してる」
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