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償い
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しおりを挟むドレッサーの引き出しを開くと、綾の手紙はまだそこにあった。啓介がいつ、この手紙の存在に気づいたのかはわからない。
綾が啓介に近づき、彼はそれを不審に感じていた。綾の目的は私なんじゃないか。そう疑って調べてくれていたけど、あのときにはもう、この手紙の存在を知っていたのだろうか。
啓介は肝心なことをよく黙っている。それは私を傷つけないためだけど、私だって守られてるばかりではいけないと思う。
引き出しから白い封筒を取り出すと、バッグにしまい、玄関で待つ啓介のもとへ向かう。
「準備できた?」
「うん。行こっか」
どちらからともなく手をつなぎ、歩き出す。
ふたりでコモンへ行くのは初めてのことだ。月曜日の今日は定休日だが、美里さんを呼ぶからという理由で、健一さんは店を開けて待ってくれているという。
「どうして、綾の不倫相手が健一さんだって気づいたの?」
エントランスを出たところで、私がそう尋ねると、啓介はすんなりと答える。
「綾にハンカチを返した日、あっただろ? コモンに呼び出したら、違う店がいいって言われてさ。あの時は、お気に入りの店があるからそっちがいいって言ってるだけかと思ったんだけど、あのあとも綾は俺をよく待ち伏せしてきたのに、コモンにだけは絶対来ないから変だなって気づいたんだよ」
「だから、誠也さんと会うときはいつもコモンにしてたの?」
綾には絶対に会わない場所だから?
「そうだよ。健一さんの前で、綾の名前出しても平然としてたから、もしかしたら違うかもって思ったりはしたんだけどさ、誠也さんが健一さんの過去を調べてくれて、確信に変わったよ」
コモンへ着くと、啓介は慣れた様子で扉を押し開く。定休日だからか、店内は薄暗く、カウンターの周囲だけが明かりに照らされている。
そのカウンターの奥に、長めの髪を後ろで一つに束ねる男の人が立っている。啓介は迷うことなく彼へと向かう。
彼が門倉健一のようだ。美里さんより、少し年上だろうか。ふたりが並ぶ姿を想像すると、お似合いのような気がする。
しかし、彼は最愛の妻を裏切った人なのだ。そう思うと複雑だ。気の迷いだったとしても、私はそれを許せとは言えない。私は将司によって心を傷つけられた。美里さんがどれほど傷ついて泣いたのか、容易に想像がつく。いや、想像以上に傷ついた可能性だってある。
「そちらが、祥子さん?」
「はじめまして」
頭をさげると、健一さんは目尻にしわを寄せて、啓介に話しかける。
「聞いてた以上に、お綺麗な方だね。よくお似合いで羨ましい」
「俺にはもったいないって前なら思ってたけど、そういうのも良くないなって思うんで、素直に喜んでおきます」
照れくさそうに啓介は笑うと、カウンター席に私を案内してくれる。ふたりで並んで座ると、「何がいい?」と健一さんが聞いてくる。
「定休日なのに、いいんですか?」
「今日は特別な日だからね」
啓介の尋ねに、彼はそう答えた。
「健一さん、それなんですが……すみません、河瀬美里さんは来れなくて」
「一緒に来てない時点で、そうかなって思ったよ。美里が俺を許すはずないからね」
「本当にすみません」
「いや、俺が悪いんだよ。美里を裏切ったのは俺なんだから。あの時はどうかしてた。それ以外にないんだけど、言い訳にもならないよね」
わずかに苦笑しながら話す健一さんに、私は淡々と尋ねる。
「後悔してますか?」
「それはね、するよね。よりを戻せるなら戻したい。何度もそう思った。でもそれはもう無理かもしれないって思うよ。だったらせめて、美里の人生をめちゃくちゃにした俺が幸せにならずに生きていくのが罪滅ぼしかなともね」
「再婚は考えてないんですね」
「するなら、美里とだけだね」
健一さんは穏やかにそう答えると、ジントニックをふたつカウンターの上に乗せる。
「どうぞ。今日は全部、俺のサービス」
私は小さく頭を下げると、グラスを手に取り、ひと口飲む。あまり味がしない。きっと緊張してるからだろう。
私は今から、人を傷つける。わかっていてそれをするのは怖い。だけど、私がやらなきゃ啓介がやる。それも避けたかった。
グラスを戻すと、バッグを開いて、白い封筒を取り出す。
「見てもらってもいいですか?」
白い便せんを開いて、カウンターの上に乗せる。健一さんは首を傾げながら、そこに目を落とす。
「怖い手紙だね。これは、祥子さん宛?」
「はい。前の夫の不倫相手が書いたものです。彼女、婚約が破談になって、私を恨んでいます」
「どうして?」
思っていたより、彼は落ち着いている。私も冷静になれる。
「婚約者に不倫の事実を知られて、破談になったからです。知らせたのは私だろうって、思ってるんです」
「もちろん、違うんだよね?」
「勘違いされてます。知らせたのは、別の人です。7年前、彼女と不倫した人の元奥さんです。ご本人がそう言ってました」
「7年……か」
健一さんが目をそらすから、私は手紙をさらにカウンターの奥へと押し出す。
「この文字に、見覚えはありますか?」
眉を寄せたあと、彼はゆっくりとうなずく。
「綾の文字だね。特徴的だから、よくわかるよ」
「吉川綾ですね? あなたの不倫相手の」
ほんの少し、声がうわずった。
事実を突きつけ、相手を傷つけることに罪悪感がある。将司に不倫の事実を問い詰めたとき、私は怒りの感情に支配されていた。自分が醜いものになっていくようで悔しくて悲しくて震えた。あのときの感情が戻ってくるようで、苦しい。
「全部わかってて、今日は来てるんだね。啓介くんたちがよく綾の話をしてたから、もうずいぶん前のこととはいえ、いつか、知られるんだろうとは覚悟してたよ」
「もうずいぶん前って……、終わった過去の話をしてるみたいですね。不倫された側からしたら、何十年経とうが忘れられないと思います。こんな手紙を送りつけてくる相手なら、なおさら」
「まずい相手に手を出したね。当時の友人にそう言われたよ。出会ったときはただ人なつこい、かわいい女の子だと思ってたんだけどね。友人の忠告も聞かずに、そんな女の子じゃないって言ってた俺は、本当に愚かだったね」
ため息をつく健一さんが被害者ぶってるように見えて、唇が震える。見かねた啓介が私の背中をさすり、口を開く。
「祥子は何もしないつもりですが、俺は吉川綾に事実を伝えるつもりです。やってもないことで恨まれて、祥子がおびえて暮らすなんておかしいですから」
「美里はまだ、綾を恨んでるんだね」
「復讐するぐらいですから」
「綾に事実を伝えたら、今度は美里に嫌がらせするだろうね」
「俺は祥子を守れるなら、結果がどうなろうと話します」
「勇ましいね。でも、それが正常だよ。好きな人を守るのは当然だ」
健一さんは手紙を手に取ると、啓介に尋ねる。
「綾に会わせてもらえるかい?」
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