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那波と輝を繋ぐ悲憤
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保健室に養護教諭はおらず、芽依はカーテンの引かれたベッドに横たえていた。
熱があると一目でわかるほど頬は赤いが、安らかな寝顔を見せている。
ベッドの側にある椅子に腰かけ、芽依の手を握る。
シーツに広がるアッシュブラウンの柔らかな髪に包まれる、きめの細かい綺麗な頬は上気し、小さな手は熱を帯びていつもより熱い。
それでも綺麗な寝顔だ。
私は彼女の身体をうとむこともあったのだろうが、今は違う。はっきりとした強い思いがわき起こる。
芽依はうっすらと目を開けた。母親と同じシナモンの瞳が私を映す。
大きな瞳は何度かまばたきを繰り返し、病人とは思えない笑顔が愛らしい口元に浮かぶ。
「那波……、来てくれたのね」
「あまり無理するからよ」
「大丈夫だと思ったの。明日は大事なお仕事があるから早く元気にならなきゃ」
「無理したらいけないわ」
「珍しい、那波が私の心配するなんて。何かあった?」
くすりと芽依は笑って、私の黒髪をそっと撫でる。
慈しむような目で見つめられ、優しく触れられるだけで泣きそうになる。
だが、涙は流れることはなく、痛みだけが胸をチクチクとむしばむ。
「話してみて、那波。何を悲しむの?」
「芽依にはわからないわ……」
「聞いてみなきゃわからないじゃない。決めつけたらダメ」
「わからないに決まってる……」
芽依は誰かを焦がれて苦しい思いをしたことなどないだろう。それに、初めて覚えた感情を上手に説明できる自信もない。
「凪のこと? それとも、樋野先輩?」
「どうしてそう思うの?」
「だって他にないじゃない。那波の世界は小さいもの」
芽依の言う通りだ。
凪に出会ったのはつい最近のことだけど、私の生きる世界が狭すぎて、彼の存在はとても大きく、そして深い。
「今日は樋野先輩と過ごしたのよね?」
凪から聞いたのだろう。
彼は私が輝に抱きしめられたことも知っていて、気持ちのないものなら怒っていいのだと、私の代わりに心を痛めてくれた。
優しい彼は、私のことを芽依に相談したりするのだ。
「楽しかった?」
「わからないわ。でもきっと、話をすることは嫌ではなかったの」
「話をすることは?」
「体に……、触れられるのは、嫌だと思ったの」
「那波……」
芽依は上半身を起こすと、そっと私の背中に腕を回し、優しく優しく抱きしめてくれた。
「怖かったのよね? 那波」
「輝を怖いとは思わなかったわ。でもそういうのは嫌。違うって思ったの」
凪になら触れられてもかまわない。そう思ったことは告げられない。
「樋野先輩とはお友だちとして仲良くしたいのね」
小さくうなずくと、芽依はため息を吐き出す。
「大丈夫よ。樋野先輩のことは私に任せて」
「芽依……」
芽依は両手で私の頬を包み込み、頼りない私の目を優しく見つめる。
「それだけ? 那波」
「それだけって……?」
瞳が揺れたのは私の方。芽依はいつになく、はぐらかすことを良しとしない真剣な目をする。
「来たでしょう? 渡り廊下に。どうして逃げ出したりしたの? どうして、あんなに傷ついた顔をしていたの?」
「……芽依、それは」
気づかれていた。
あの時見えたのは凪の背中で、彼の腕に抱きしめられていた芽依が私に気づいていたとは思っていなかった。
「凪が私に触れていたから?」
「……ちがう」
「うそ。那波は嘘が下手ね。好きなのね、凪のこと」
「違うわ。芽依から何も奪ったりしない」
ふるふると、首を横に振る。
「何を言ってるの? 誤解してる。私は凪のこと好きだけど好きじゃないの。そうね、恋愛対象として好きにはなれないっていう意味。凪だけじゃないわ。これから先もずっと、男の人を好きになることはないの。だから安心して。私はちゃんとこの身体を守るから」
「……芽依」
「だってそうでしょう? この身体は私だけのものじゃないもの」
「芽依……、それじゃ、あなたが……」
芽依の腕をつかむ私に、彼女は優しく微笑みかける。私にはできない、優しい笑み。
「心配しないで、私はいま、十分に幸せよ。だってパパもママも、友だちだってたくさんいるもの。今までずっと那波は苦しんできたのだから、次に幸せになるのはあなたよ、那波」
「私、どうしたらいいの?」
「那波はどうしたいの?」
その問いの答えはもう出ている。
でも、それを望むことは私たちを破滅させるかもしれない。いや、そもそも私の願いが叶う確証もない。
「言ってみて、那波。私はあなたのためならなんでもする。昔あなたが私を守ってくれたように、次は私があなたを守るから」
「芽依……」
「もう一度聞くわ。あなたはどうしたいの?」
お互いに目が離せず、私たちは見つめ合う。
芽依は芽依。
私は私。
だけど、凪は芽依が好きなのだ。だとしたら、私が望むことはたった一つ。
「私、芽依になりたい……。芽依になりたいの。昔みたいに戻りたい……」
「それがあなたの願いなのね。ちょうど私も同じことを考えていたところ」
「同じこと?」
「凪は真実を知りたがってる。そろそろ真実を明るみにしてもいいと思うの。このまま生きていくには不便すぎるから。もう別々の道を歩いていくのは難しいかなって」
「木梨くんがみちしるべになったの?」
「そうよ。凪はやっぱり私たちの救世主ね。ね、那波」
芽依はクスッと笑い、涙の浮かぶ瞳でぎゅっと私を抱きしめた。
「那波と意見があってホッとしてる。私たち、似てるみたい。……当たり前、ね」
保健室に養護教諭はおらず、芽依はカーテンの引かれたベッドに横たえていた。
熱があると一目でわかるほど頬は赤いが、安らかな寝顔を見せている。
ベッドの側にある椅子に腰かけ、芽依の手を握る。
シーツに広がるアッシュブラウンの柔らかな髪に包まれる、きめの細かい綺麗な頬は上気し、小さな手は熱を帯びていつもより熱い。
それでも綺麗な寝顔だ。
私は彼女の身体をうとむこともあったのだろうが、今は違う。はっきりとした強い思いがわき起こる。
芽依はうっすらと目を開けた。母親と同じシナモンの瞳が私を映す。
大きな瞳は何度かまばたきを繰り返し、病人とは思えない笑顔が愛らしい口元に浮かぶ。
「那波……、来てくれたのね」
「あまり無理するからよ」
「大丈夫だと思ったの。明日は大事なお仕事があるから早く元気にならなきゃ」
「無理したらいけないわ」
「珍しい、那波が私の心配するなんて。何かあった?」
くすりと芽依は笑って、私の黒髪をそっと撫でる。
慈しむような目で見つめられ、優しく触れられるだけで泣きそうになる。
だが、涙は流れることはなく、痛みだけが胸をチクチクとむしばむ。
「話してみて、那波。何を悲しむの?」
「芽依にはわからないわ……」
「聞いてみなきゃわからないじゃない。決めつけたらダメ」
「わからないに決まってる……」
芽依は誰かを焦がれて苦しい思いをしたことなどないだろう。それに、初めて覚えた感情を上手に説明できる自信もない。
「凪のこと? それとも、樋野先輩?」
「どうしてそう思うの?」
「だって他にないじゃない。那波の世界は小さいもの」
芽依の言う通りだ。
凪に出会ったのはつい最近のことだけど、私の生きる世界が狭すぎて、彼の存在はとても大きく、そして深い。
「今日は樋野先輩と過ごしたのよね?」
凪から聞いたのだろう。
彼は私が輝に抱きしめられたことも知っていて、気持ちのないものなら怒っていいのだと、私の代わりに心を痛めてくれた。
優しい彼は、私のことを芽依に相談したりするのだ。
「楽しかった?」
「わからないわ。でもきっと、話をすることは嫌ではなかったの」
「話をすることは?」
「体に……、触れられるのは、嫌だと思ったの」
「那波……」
芽依は上半身を起こすと、そっと私の背中に腕を回し、優しく優しく抱きしめてくれた。
「怖かったのよね? 那波」
「輝を怖いとは思わなかったわ。でもそういうのは嫌。違うって思ったの」
凪になら触れられてもかまわない。そう思ったことは告げられない。
「樋野先輩とはお友だちとして仲良くしたいのね」
小さくうなずくと、芽依はため息を吐き出す。
「大丈夫よ。樋野先輩のことは私に任せて」
「芽依……」
芽依は両手で私の頬を包み込み、頼りない私の目を優しく見つめる。
「それだけ? 那波」
「それだけって……?」
瞳が揺れたのは私の方。芽依はいつになく、はぐらかすことを良しとしない真剣な目をする。
「来たでしょう? 渡り廊下に。どうして逃げ出したりしたの? どうして、あんなに傷ついた顔をしていたの?」
「……芽依、それは」
気づかれていた。
あの時見えたのは凪の背中で、彼の腕に抱きしめられていた芽依が私に気づいていたとは思っていなかった。
「凪が私に触れていたから?」
「……ちがう」
「うそ。那波は嘘が下手ね。好きなのね、凪のこと」
「違うわ。芽依から何も奪ったりしない」
ふるふると、首を横に振る。
「何を言ってるの? 誤解してる。私は凪のこと好きだけど好きじゃないの。そうね、恋愛対象として好きにはなれないっていう意味。凪だけじゃないわ。これから先もずっと、男の人を好きになることはないの。だから安心して。私はちゃんとこの身体を守るから」
「……芽依」
「だってそうでしょう? この身体は私だけのものじゃないもの」
「芽依……、それじゃ、あなたが……」
芽依の腕をつかむ私に、彼女は優しく微笑みかける。私にはできない、優しい笑み。
「心配しないで、私はいま、十分に幸せよ。だってパパもママも、友だちだってたくさんいるもの。今までずっと那波は苦しんできたのだから、次に幸せになるのはあなたよ、那波」
「私、どうしたらいいの?」
「那波はどうしたいの?」
その問いの答えはもう出ている。
でも、それを望むことは私たちを破滅させるかもしれない。いや、そもそも私の願いが叶う確証もない。
「言ってみて、那波。私はあなたのためならなんでもする。昔あなたが私を守ってくれたように、次は私があなたを守るから」
「芽依……」
「もう一度聞くわ。あなたはどうしたいの?」
お互いに目が離せず、私たちは見つめ合う。
芽依は芽依。
私は私。
だけど、凪は芽依が好きなのだ。だとしたら、私が望むことはたった一つ。
「私、芽依になりたい……。芽依になりたいの。昔みたいに戻りたい……」
「それがあなたの願いなのね。ちょうど私も同じことを考えていたところ」
「同じこと?」
「凪は真実を知りたがってる。そろそろ真実を明るみにしてもいいと思うの。このまま生きていくには不便すぎるから。もう別々の道を歩いていくのは難しいかなって」
「木梨くんがみちしるべになったの?」
「そうよ。凪はやっぱり私たちの救世主ね。ね、那波」
芽依はクスッと笑い、涙の浮かぶ瞳でぎゅっと私を抱きしめた。
「那波と意見があってホッとしてる。私たち、似てるみたい。……当たり前、ね」
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