太陽と傀儡のマドンナ

水城ひさぎ

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那波の生まれた場所

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***


 気づくと那波の姿がなかった。練習を始めた頃にはいたように思っていたが、いつからいなかったのだろう。

 射場に立つ俺を見つめるのは、脇正面に座る芽依だけだ。
 入り口を振り返り、辺りを見回しても、どこにも那波の姿を見つけることができない。

「那波ならだいぶ前に出ていったわ。あの子、すぐ一人になりたがるの」

 芽依はタオルを持って俺に近づきながら言う。
 ひどく汗をかいているわけではないが、不意に伸びた彼女の手が、額の汗をぬぐってくれる。

 ふんわりとしたタオルの感触が心地よい。
 思わずされるままになっていたが、急にざわついた入り口に驚いて芽依から体を離す。

 それでも、カラカラと静かに開いた引き戸の奥に現われた那波と輝には、芽依と俺が親密にしていたように見えたかもしれない。

 後ろめたいことなどないのに、まばたき一つしない那波と視線を合わせるのは気まずくて目をそらす。
 間が悪い。だからといって、誤解なんだと言ったらますます疑われてしまうだろう。

 抗っても仕方のないことに一人抗おうとしている八方塞がりの俺の前に、袴姿の輝が真っ直ぐ近づいてくる。
 すると彼は、「タイミングは大事だ」などと薄笑いを浮かべ、首をぐるりと回した。

「なれないものは着るものじゃないな、肩が凝る」
「樋野先輩、袴は初めて? 上手に着れてるわ」

 芽依は物珍しげに輝を見上げる。
 彼女は常に好奇心に満ちているから、怖いもの知らずで何にでも向かうようだ。

「ああ、那波に着せてもらった。なかなかいい時間だったよ。この後が楽しみだ」

 ご満悦の表情で輝は俺を挑発する。すっかり俺の心は見透かされているようだ。

「勝負はまだ決まってないですよ。俺が勝ったら、もう飛流さんに付きまとわないって約束、守ってもらいますから」
「生憎だが負けるつもりはない。今日は那波にふさわしい男が誰かはっきりさせようじゃないか」
「それは飛流さんが決めることで、俺が望むこととは違う」
「へえ。あんたは何もわかってないな。その程度の気持ちじゃ、到底俺には勝てねぇよ」
「俺は飛流さんを悲しませたくないだけだよ」
「まあ、あんたの信じる道だ。好きにすればいい」

 輝はそう言うと、おもむろに辺りを見回し、弓立てに立てられた数本の弓の中から無造作に一張を手に取る。

「この弓を使えばいいのか?」
「何張か用意したから、樋野先輩の使いやすいものを使って」

 芽依が言うと、輝は手に取った弓を見上げた。

「これでいい。さあ、始めようか」

 輝は射場に立ち、的を眺める。練習もなく、いきなり矢を打つ気のようだ。

「凪、勝負はどうやって決めるの?」
「先に的に当てた方が勝ちでいいと思う」

 芽依の問いに答えた俺を振り返り、輝が横槍を入れる。

「的には確実に当てられる。中央の白円に近い的を射抜いた方を勝ちにしよう」

 かなりの自信家だ。矢を射るどころか、弓を持つのも初めてなはずなのに。

「凪、それでいいの?」
「かまわないよ。100パーセント的に当てられるっていうなら、それしか方法はないよ」
「那波は?」

 芽依は那波に確認する。

 俺には確実に的に当てるなんて無理だ。そう言えば、那波はどう思うだろう。もしかしたらそれも想定内だと彼女なら許してくれるかもしれない。だが俺は、自分を許せないだろう。

 不安になる俺に視線を移した那波は、ちょっとだけ口元をあげて微笑む。

「木梨くん、あなたなら大丈夫よ。あなたの信じる弓道をしたらいいわ」
「飛流さん……」

 那波が微笑むのは、俺を安心させるためだ。たとえそれが彼女の作り笑顔だったのだとしても、どんな笑顔よりも心のある笑顔だ。

 気弱になっていた自分を恥じる。俺は那波を守るためにここへ来た。どんなに不利な勝負であろうと、俺には勝つしか道はないのだ。

 俺は力強くうなずいた。

「必ず勝つから、見てて、飛流さん」

 那波は小さく「ええ」とうなずくだけだが、どことなく嬉しそうで、俺の活力となる。

 今日の那波は制服姿の時とは違う綺麗さがある。
 素直に可愛いと言ってあげられない俺の弱さがうらめしいが、清くて純粋な彼女を前にすると、その心が欲しいと思う。
 勝負が済んだら、どんな結果になろうとも俺の想いを告げよう。それが今の俺にできる精一杯のことだ。

「勝負は早く済ませたい。二本でどうだ?」

 見つめ合う俺と那波の間に割り込むように輝が言う。

「かまわない」

 俺がそう答えると、那波は矢を持つ輝に声をかけた。

「輝、一度、射形を木梨くんに見てもらったらどうかしら。けがをするといけないわ」
「必要ないな、イメージは出来ている」
「でも右目だけでは合わせづらいでしょう?」

 輝を傷つけまいとためらいがちに那波が言うのに、彼は至って飄々とした態度で笑った。

「俺に負けて欲しいと思ってるとは思えない発言だな。まあ、助言と受け止めて、俺も誠意を見せようか」

 輝はおもむろに長い左の前髪をかきあげると、ピンのようなもので止め、眼帯に手をかけた。

「別にこのままでも左目が見えないわけじゃない。だがまあ、これはない方がやりやすいな」

 そう言って、輝は躊躇なく眼帯を外した。

 俺は、あっ、っと声にならない声を上げた。
 そんな俺を見て輝は不敵に笑う。彼の目を見た者は俺と同様の反応をしてきたのかもしれない。

「まぶしくてな」

 眼帯をしている理由だろうか。
 輝はそうつぶやくと、三度まばたきを繰り返し、その色素の薄い瞳を那波に向ける。
 彼女は無表情でただ彼を見つめ返すが、痛みや苦しみを覚えたのか胸に手を当てる。

 彼の苦しみを理解できるのが那波であることに俺は複雑な思いを抱えるが、飛流姉妹と輝をつなぐ彼の目に視線を戻す。

 以前、那波は輝の左目には、怒りがあるのだと言った。
 怒り。
 目には見えない感情というものが、そこにあることに奇妙な不可思議さを感じる。
 そして、彼の瞳には怒りとはチグハグな印象を覚えるのだ。

「綺麗……」

 芽依がぽつりと言う。

 そうだ。怒りの感情というものはこんなにも純粋で綺麗なものなのか。そう思うほど、輝の左目はまばゆく輝いている。

「綺麗? ははっ、そんなことを言った女も初めてだな。あんたたち姉妹は変わってる」

 輝は愉快げに肩を揺らして笑うと、強い光を宿す金の瞳にそっと手を当てた。
 その表情は憂いていて、初めて彼が俺に弱さを見せた瞬間だったかもしれない。

「一本射ってみようか」

 何も言えないでいる俺の前で、輝は的の正面へと向かう。
 彼を不安そうに見守る那波は、芽依に手を引かれて脇正面へと移動した。

 的を見据える輝の目は真剣だ。両足を開いて足踏みをし、しっかりと足に力を入れると、弓に両手を添える。
 スーッと弓を持ち上げ、矢をかけぬままゆっくりと開いていく。

 お手本通りの動きをマスターしてきたのだろうか。それほど無駄のない、見事なまでに美しい所作だ。

 長い伸合いのあと放たれた見えない矢が、張り詰めた空気を裂きながらまっすぐ的に向かって飛んでいく。
 的のど真ん中に矢が突き刺さる。そんなイメージが脳裏に浮かぶ。

 悔しいぐらい、輝は完璧な美しさを見せつけた。

 俺が言えることは何もない。彼はすでにこの勝負のためだけの自分の弓道を身につけているのだ。

「まあ、こんなものだ」
「身体能力はきっと高いんですね」
「その点はあまり苦労したことないな。俺も凡人じゃないんだろう」

 ため息を吐き出すように言う。それは自慢ではないようだった。切なそうに的を見つめる輝は、俺には到底理解できない苦労をしてきたのかもしれない。

「さあ、勝負しよう。あんたからやるか?」
「どちらでも」
「じゃあ先にやれよ。あんたはプレッシャーに弱そうだ」
「……まあ、何も言わないよ」
「それが得策だな。勝つためなら、どんなに格好悪くても条件のいいものを取りに行くべきだ」
「樋野先輩は?」
「俺? 俺はどんな条件でも勝てるさ。あんたに心配してもらうことは何もない」
「先輩を見てると迷いが生まれる気がします」

 輝には、凛とした強さがある。
 那波を守れる男はこういう男だろうと思うのだ。
 俺にはそれがない。今日は覚悟してここへ来たつもりなのに、まだ迷うなんて情けなさすぎる。

「あんたにはほんの少しの勇気が足りないだけだ。あんたの存在に救われてる女がいるなら、全力を尽くせ。あんたが今すべきことはそれだけだろう」

 不安げな那波の目は、今は俺に向けられている。

「……そうだよな」

 俺が負けたら、那波が泣く。それだけは阻止したい。今後彼女を守れるかどうかは、今悩むことではないのだ。

「先輩の言葉に救われるなんて、変だな」
「まあ、負けない自信があるから言えるだけだ」
「俺だって負けませんよ。にわか仕込みのやり方に負けたら、俺の今までの努力が報われない」
「実を結ばない努力なんてゴロゴロあるさ。あんたはただ恥じることなく、思い切りやればいい」
「そうさせてもらいます」

 俺は那波を見つめた。
 彼女の祈るように胸の前で組み合わされた手が頼りない。
 しかし、俺がうなずきかけると、その手を強く握り締めた彼女もまた、信じている、といった目でうなずいた。
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