せめて契約に愛を

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寝室までの距離

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 明日が仕事納めということもあり、珍しく純ちゃんが残業していくという中、私は定時に帰宅した。
 誰もいないマンションに帰り、「ただいま……」と言ってみるけど、いまいち今日からここで暮らすのだという実感がわいてこない。

 帰りにデパートで購入した食材の入った買い物袋をキッチンに置いて、いつも帰宅するとそうしていたように自分の部屋へと向かった。

 リビングに直結した一部屋は湊くんの寝室で、その奥の短い通路の先にあるもう一部屋が私の寝室。

 以前に湊くんから預かっていた部屋の鍵を使ってドアを開けた。部屋の中に入るのは二度目。一度目は昨日のことで、お母さんが荷造りしてくれた着替えなどを、クローゼットに片付けただけ。
 家具はすべてそろっていて、クラシックなデザインの特注品だ。私の趣味に合うかと湊くんは心配してくれたが、その気遣いは無用なものだった。

 一目で部屋を気に入った私に対し、湊くんは「ゆくゆくは俺の書斎にするんだから、あんまり気に入られても困る」などと言っていたけれど、その言葉の真意を追求することを恐れて、それは聞こえないふりをした。

 昨日片付けたばかりの部屋着に着替えて、アップにしていた髪を一旦ほどいてひとまとめにした。コンタクトレンズは外して眼鏡に変えた。それが家にいるいつもの私のスタイル。

 お母さんが手作りしてくれたエプロンをつけてキッチンに戻ると、買い物袋の中身を覗く湊くんの姿があった。

「あ、帰ってたんだね。早かったね」
「やっぱり沙耶か。誰が置いたのかと見てたとこだよ」
「誰って……、他にいるの?」
「いや。沙耶だろうとは思ってたよ。君も変なところで疑うね。ここへ来たことがあるのは沙耶だけだよ」

 湊くんは苦笑いしながらそう言って、キッチンから出てくると私の顔をまじまじと見つめる。

「なに? 変?」
「変ではないよ。そうだな。つまり、新婚だったら、食事よりまずはキスかなと思ってたんだ」
「湊くんの考えてることはよくわからないよ」
「だめ?」

 甘えるように尋ねながら、湊くんはすでにかがんで顔を近づけてくる。

「どちらとも言えないよ……」
「じゃあ、良い意味で受け取ろう」

 湊くんは微笑んで、私のあごを長い指で支えた。そして軽くキスをする。一度、二度とついばむ。そのまましっとりと重ねられた唇は、制御を失ったみたいに深くなる。

「……ん、湊くん」

 びっくりして突き放す。湊くんは唇の端に笑みを浮かべてネクタイをゆるめた。

「なかなか慣れてくれないね。満足はしてないが、さあ俺も着替えてくるよ。今日はハンバーグかな? 沙耶の手料理は楽しみだよ」

 湊くんは笑いながら自分の部屋へと入っていく。その背中を見送りながら、彼は寝室に鍵をかけてないのだと、なんとなく考えていた。



 食事の用意が出来た頃に、湊くんは寝室から出てきた。白シャツの上にグレーのニットカーディガンを羽織り、ベージュのパンツ姿で。部屋着とは思えないほどおしゃれだ。

 湊くんはダイニングテーブルに着くと、「予想通り、ハンバーグだ」と微笑んだ。その満足げな笑みの理由は、予想通りだったからか、ハンバーグが好物だったからかはわからないけれど。

「美味しいかはわからないよ」

 白ごはんを運び、私も席につく。料理は時々作るけれど、両親以外の人に食べてもらうのは初めてのことだ。

「きっと美味しいだろう。問題は俺の口に合うかどうかだ」
「なんだか複雑な物の言い方するんだね」
「物の価値観は人によって違うという話だよ」
「美味しくなかったらごめんね」
「謝ることはないよ。たとえ俺の口に合わなかったとしても、沙耶の手料理なら好きだと思うだろう」
「やっぱりなんだか複雑……」
「まあ、いらない心配だよ。さあ食べようか」
「うん」

 とうなずくと、湊くんは早速ハンバーグを一口食べて、「まあ、うまい」と曖昧に褒めて、食べ進めていく。

「口に合いそう?」
「悪くはないよ。また明日も沙耶の手料理が食べれるのかと思うと楽しみだ」

 一応気に入ってくれたのだろう。彼の反応を素直に受け止めていいのかわからないけれど、美味しいものばかり食べてきた彼がそう言うのだから、きっと喜んでいいのだろう。

「あ、そうだ。明日はね……」
「ん?」
「明日は忘年会があるの」
「会社の?」
「うん。行ってもいい?」

 思ったよりすんなり尋ねることができた。湊くんも、けげんそうにはしない。

「忘年会は仕事のうちだからな。あんまり遅くなるようだったら連絡してくれればいい。迎えに行くよ」
「湊くんが来たら、みんなびっくりしちゃうから大丈夫だよ。でもね、忘年会に行かないなら、純ちゃんが一緒に食べに行こうって言ってて。ここに純ちゃんを呼んでもいいかなって思って」
「純ちゃん?」

 湊くんは純ちゃんのことを覚えていないのか、いぶかしげに眉をあげる。

「同僚だよ。親友なの」
「親友? 親友なんてものが本当にいるのか?」
「純ちゃんは特別だよ」
「ずいぶんと女友達を買いかぶっているんだな。しょせん君が苦しむ姿を見て、ひそかに笑ってるような薄情な友情だろう?」
「湊くんは卑屈だねー」

 ちょっと笑ってしまう。

「そういう家に生まれ育っただけだ。ここには気の許せる人しか入れたくないが、沙耶がどうしてもというなら反対はしない」
「純ちゃんだけだよ。あとは……、円華かな」
「円華か。円華は呼ぶな。どうせ小言を言いにくるだけさ」
「円華が来たいって言ったらまた相談するね。じゃあ、純ちゃんは呼んでもいい?」
「で、純ちゃんってどんな女だ?」
「湊くんも会ったことあるよ。ほら、前に……」

 私の友達で湊くんが会ったことのある女性と言ったら、一人しかいない。だからか、彼はすぐに思い当たったようだ。

「まさか、あの嫌な女か」
「純ちゃんは嫌な人じゃないよ」
「人の元カノを簡単に口にする女だろ。しかも君の前でだ。信じられない女がいると思ったよ」
「純ちゃんも悪気があったわけじゃないし……」
「悪気がなければ何をしてもいいというのか? そのせいで俺は君に……」

 湊くんは苛立ちを見せたが、「まあ、過ぎたことだ」と、急に高ぶりを見せた声を落とした。

「そのせいで、湊くんの申し出を断ったわけじゃないよ」
「つまり、あの時の君にとって俺は何の魅力もなかったというわけだ」
「そういうことじゃなくて」
「別にいいさ。君はもう俺の妻になったんだから。細かいことは気にしない」

 湊くんは一方的なところもあるけど、どこか大らか。だから私も、萎縮しないでいられる。

「なんか、ごめんね。でも、本当に純ちゃんは私の親友だから」
「親友の定義なんてよくわからない。けど、君が信用できると思うなら呼んだらいい。明日の夜は君の手料理が食べれないのかと、残念だけどね」
「純ちゃんを呼ぶ時はまた言うからね。明日は忘年会に行くね」
「ああ、そうしたらいい」

 湊くんは笑顔になってうなずく。忘年会には誰が来るのかとか、彼氏だったら気にしたりするのだろうか。でも、湊くんは忘年会も仕事だからと、特に興味はないみたいだ。
 私に無関心なのか、信用してくれているのかすらわからない。

「湊くんは会社の同僚と飲み会に行ったりするの?」
「ひとなみに」

 短い返事をするだけだから、あまり追求してはいけないのかもしれない。私のことを聞かないのも、もしかしたら自分のことも聞くなという意味かもしれないなんて思えてくる。

「私……、湊くんのこと、信用してるよ」

 彼の気持ちはわからなくても、自分の気持ちは伝えた方がいいと思ってそう言うと、湊くんは意外そうな顔をしただけだった。

「湊くん……」
「まあ、楽しんで来いよ」
「あ、うん」

 もう何も言えなくて、私は美味しそうに食事を続ける湊くんを見つめることしか出来なかった。
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