せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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「どうしてって、君を訪ねてきたのに、君はすっかり眠っていたから」
「亮治さん、湊くんがいるの。本当に夢じゃ……」

 振り返ると、すでに亮治さんの姿はなく。

「沙耶、君はいつも俺を前にしながら、他の男のことを考え過ぎてるよ」

 湊くんに視線を戻した時には、私の目の前まで彼は来ていて。

「ずっと会いたかったよ、沙耶。もっと早く会いに来たら良かった。君が迷惑に感じるんじゃないかと、俺らしくないことを悩んでた」

 湊くんはそう笑って、私の髪を撫でる。そして私が現実のものであるか確認するかのように両手で私の頬を包み込む。

 その温かな手や、大きな手の感触に涙がこぼれそうになる。忘れていない。ついさっき、この感触を私は覚えたばかりだ。

「湊くん……、湊くんなの?」
「ああ、そうだよ、沙耶。もう、俺を突き放したりしないよな、沙耶」

 近づく湊くんの顔は涙でにじむ。そっと重なった唇を私は素直に受け止めた。

 今は言葉はいらなくて。離れていた時間を埋めるように、私たちはお互いを抱きしめ合った。

「湊くん、いつからいたの?」
「少し前だよ。訪ねてきたら、彼に出迎えられて驚いた」
「彼って、亮治さん? いつもお母さんがいない時とか、お父さんとお仕事の話がある時はうちに来るの。だから驚かなくても大丈夫だよ」

 湊くんはちょっと首を振って、苦笑いしながら私の頬をなでる。

「いや、まさかすんなり沙耶に会わせてもらえるとは思ってなくて驚いたんだ。応接間で待たされてさ、沙耶は寝てるからまた明日来いなんて彼が言うから、こっそりそこに隠れたんだよ」

 湊くんは隠れていたカーテンを指差す。よく見たら、誰かがそこにいたらすぐにわかるような場所だ。とにかく慌てて身を隠したというところなんだろう。

「こっそり隠れるなんておかしい。湊くんらしくないね」
「明日会えるなんて保証はないからね。どうしても今、会いたかったんだ」
「湊くんのお父さんはきっとまだ反対してるんだよね。でもね、前に一度、うちに来てくれたの」
「父さんが来た?」
「うん。ベビーベッド、湊くんのお父さんが買ってくれたんだよ。七海もだっこしてくれて……。初めてお父さんの笑った顔見たけど、湊くんはお父さん似なんだね。よく似てた」
「なんだよ、それ」

 湊くんは拍子抜けしたように肩を落とす。

「湊くんのことは何も言わなかったから、きっと反対してるんだろうなって、ずっと思ってた」
「そんなことしておいて、反対してるもないだろう」
「本当? 湊くんに会うこと、許してくれるのかな」
「許すも何もないよ。反対されても、俺は沙耶に何度も会いに来るよ」
「また……来てくれるの?」

 湊くんはふと視線をさげて、シャツをつかむ私の両手を見て笑う。

「これからまた仕事に戻るんだけどな。シワシワになる」
「だって、離したらもう会えないんじゃないかと思って……」
「沙耶、心配いらないよ」
「でもわからないよ。明日会えるなんて確証、どこにもないよ」
「沙耶……」

 湊くんの腕は優しく私を包み込む。

 こんな風に抱きしめられる毎日が当たり前だったあの日でも、私はこの腕の中に戻ることを許されなかったのだ。それは唐突で、心がまえさえ出来ずに別れはやってきたのだ。

「君が帰って来なくなった日のことはよく覚えてる。あの日は君にも、俺にとっても大切な日になるはずだった」
「私も……、帰りたかったよ……」
「君を追い詰めたのは俺だったんだ。君の苦しみにもっと早く気付けたら、こんな風に君を悲しませることもなかった」

 自分を責める湊くんを見てるのはつらい。私は精一杯首を横に振る。

「もう……、いいの。またこうやって湊くんに会えたから、それで十分だよ」
「十分だなんてことはないよ、沙耶。君はもっと幸せになれる」
「また湊くんが会いに来てくれたら嬉しいよ。私、ずっと湊くんのことだけ考えてるから。だからまた会いに来てくれるの?」
「少し違うよ」
「違う?」

 もう会えないの?と不安になる私を離し、湊くんはポケットに手を差し込んだ。

「湊くん?」
「あの日……君が帰って来なくなったあの日、渡したいものがあるって言ったの覚えてるか?」
「渡したいもの?」
「覚えてない? もうすぐホワイトデーだったから、君はお返しだと勘違いしたかもしれないけど」
「お返しなんて気にしなくて良かったのに」

 そう言葉を口にして、私はふと思い出す。

 朔くんから花束をもらって、湊くんにも言えるだろうかと思った言葉を、今、口にした自分に気づく。

 あれから一年が経つのだ。ここにたどり着くまでに私たちが離れていた時間は一緒にいた時間よりも長く。

「湊くん……私、もっと一緒にいたいよ。そんな風に思ったらダメ?」
「ダメじゃないさ、沙耶」

 ポケットから引き抜かれた彼の手のひらには小さな箱が握られていて。

「一年前に渡そうと思ってた」

 湊くんはそう言って、私の前で箱を開く。

「君はすぐに遠慮するけど、受け取ってくれるよね? これからもきっと君は苦労するだろう。それでも俺は君を手放せないから、許してくれるなら受け取って欲しい」
「湊くん……だって」
「結婚しよう、沙耶。俺は最初から、ずっと君が好きだった。叶うなら、これからもずっと君を好きでいさせて欲しい」
「湊くん……」

 伸ばした手は湊くんにつかまって。

「また一緒に暮らそう。そのための努力ならいくらでもするから」
「いいの? 湊くん……」

 湊くんの手によって箱から取り出された指輪は、私の指にするりとおさまる。

 優しく微笑む彼と、指に輝く指輪。そして、私が待ち望んでいた彼と過ごすかけがえのない時間。そのすべてが愛しい。

「沙耶、返事して」

 湊くんの胸に顔をうずめたまま、流れる涙も止められず。

 私の返事を聞こうと身をかがめる彼と目を合わせたら、私の唇は震えて。

「……はい」

 ようやく言えた言葉を受け止める彼の笑顔がにじむ。

「帰ろう、沙耶。七海と一緒に」

 彼と過ごした時間が止まったままの、あの部屋へ。
 もう一度やり直そう、出会ったあの日に帰って。

「帰りたい……。湊くんと、帰りたい」

 涙に濡れた頬を胸に寄せ、彼を抱きしめる。

 婚姻届という契約書にサインをする時は、せめて愛があればと思っていたけれど、そんな心配はもういらない。
 だって私たちは、こんなにも愛し合っているのだから。




【完】
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