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週末になると、涼也の言っていた通り、久子さんが工場を訪ねてきた。
案の定、再婚を考えてもいいんじゃないかとすすめられた。
奈々子さんでは若すぎると話はしたが、今どき、18歳差なんて珍しくない、気にしなくていい、と押し切られた。
それなりに覚悟を決めていた俺は、奈々子さんに連絡先を伝えてもらうよう頼み、その場をしのいだ。
奈々子さんが乗り気な以上、もう一度きちんと会って話さないと、久子さんのおせっかいが続く気がしたのだ。
奈々子さんから電話があったのは、二日後の夜だった。丸一日悩んで、次の日も仕事が手につかないから、勇気を出して電話をした、と話してくれた。
そんなに俺を慕ってくれてるのか、と思うと悪い気はしなくて、デートしようと誘った。
彼女は電話口で、うれしいです、と笑った。泣き出しそうな声だった。感極まるというのだろうか。
好きな人に会えるとき、こんなにもうれしいものなのだろうか。恋とは無縁なまま涼也を授かった俺には、経験のない感情だった。
週末になり、奈々子さんの自宅まで車で迎えに行くと、かわいらしいワンピースに身を包んだ彼女が玄関の前で待っていた。
「すみません、いつも小さい車で」
助手席のドアを開けながら謝ると、彼女は気にしてないと微笑んでくれた。
商用車では味気ないから、別の車を選んだが、軽自動車だった。
若い女の子なら嫌がるだろうに、嫌な顔ひとつ見せない。本当にいい子だ。俺なんかで大丈夫だろうかと不安になるほど。
まあ、そのうち、急に目が覚めてふられるかもしれない。どちらかというと、俺はそういう役回りで生きてきた。今さら、失うものなど何もない。
「どこか、行きたいところはありますか?」
なければ、公園へ行こうと思っていた。近くに国営公園があり、ちょうどバラが見ごろになっていると、夕方のニュースで見たのだ。
「哲也さんは?」
「特になければ、バラ園に行きませんか? 満開だそうです」
「はい。私、バラが好きなんです」
「それはよかった」
気をつかって喜んでくれたのだろうか。本当のところはわからないが、笑顔の奈々子さんを見ていると、胸が躍るのを感じる。
俺だって一応、まだ男だ。若い女の子に好かれたらうれしいもんだ。
奈々子さんはこちらに身体を向けて、にこりとしている。
それにしても、かわいい子だ。本当にこんなにかわいい子が俺を好きなんだろうか。彼女が好意を見せてくれたら、やましい気持ちを隠せなくなるかもしれない。
いやいや、そんな短絡的でどうする。だから、失敗したんじゃないのか。涼也はかわいいが、恋愛は失敗だった。同じ過ちは繰り返せない。
「遅くならないうちに帰りますから」
帰宅時間を提示して、車を発進させた。それは、自分に言い聞かせるつもりもあったかもしれない。
国営公園は、程よく混み合っていた。あまり混雑していても、人いきれに疲れてしまうが、閑散としていても雰囲気がなくて楽しくない。
デートコースのチョイスとしては上々だったんじゃないかとあんどしながら、園内を散策した。
バラ園のある一角は、思ったより人が集まっていた。広くない石橋の先で、多くの人が足を止めてバラを眺めている。
「珍しいバラでもあるのかな」
「なんでも、皇室の女性の名前がついた、プリンセスローズがあるみたい」
右側を歩く奈々子さんは、パンフレットを眺めながら、そう言う。
「それは珍しそうだ」
人垣の方へ目を向ける。向かい側から、子連れの親子が何組か歩いてくるのが見えた。
石橋は人がすれ違えるぐらいの幅で、あっちへこっちへと歩き回る子どもが危なっかしく、左通行の道では、右側は歩きにくいだろうと、彼女の右側へ移動した。
奈々子さんを守るように、触れない程度にそっと背中へ腕を回すと、彼女は「大丈夫です」とつぶやいて、そそくさと前を歩いていった。
なんだ。やっぱり、俺に触れられるのは嫌なんじゃないか。
心の中で苦笑して、石橋を渡り終えると、奈々子さんはふたたび、俺の右側へとやってきた。
「皇后陛下のお名前がついたバラ、きれいですね。気品があります。イングリッシュローズだそうですよ」
イングリッシュローズが何かも知らない俺は、淡いピンクのバラを惚れ惚れと眺める彼女を見つめる。
高貴なバラには、人心をつかむ魅力があるのだろう。ここへ来た甲斐があったと感じるような、幸福な笑みを浮かべている。
「苗の販売があるようですね」
特別展の開催期間中は、プリンセスローズの苗が購入できると、パンフレットに小さく書いてある。
「苗が買えるんですか? でも、きっと売れちゃってますね」
奈々子さんは目を輝かせたが、すぐにそう言う。
「ほしいですか?」
「あっ、そんなつもりじゃ。おばあちゃんのバラ好きが高じて、うちにたくさんバラはありますし」
「じゃあ、ほしいですよね。聞くだけ聞いてみましょう」
祖母の影響だろうが、バラ好きなのは本当だったのだ。
「本当に、大丈夫ですよ」
「俺がプレゼントしたいんです」
「え……、プレゼント?」
「そう。だから、気にしないでください」
みるみるうちに、奈々子さんのほおは赤らんだ。どんなバラよりも美しく赤らむのだと思う。
なんだか照れくさくなって、バラ園の中を黙って進むと、彼女も無言でついてきた。
少し腕が引っ張られる感じがして視線を落とすと、奈々子さんがシャツの袖をひかえめにつかんでいた。
いつの間にか増えた人波にまぎれ込まないようにしてるんだろう。手首をつかんで引き離すと、そのまま手を握った。
彼女の指先がピンと伸びる。びっくりしたようだったけど、それも束の間で、うつむいたまま握り返してきた。
歩くたび、人の視線が気になった。
年齢より落ち着いてみえる奈々子さんとはいえ、明らかに若い女性が、40代の男と一緒にいるのだ。
しかも、親子ほどには年が離れていない。親戚のおじさんにしては、手をつないでるなんておかしい。じゃあ、不倫か。疑いの目を向けられても仕方ない年齢差だ。
俺はどうかしてる。俺たちがつり合ってないのはわかっているのに、どうして手を握ってしまったのだろう。
超えてはいけない一線を超えたら、歯止めがきかなくなりそうだ。それを奈々子さんが望んでいるなら、なおさら。
花の苗の販売所へ着くと、自然と手がはなれた。店員をつかまえ、プリンセスローズの苗はないか尋ねた。案の定、売り切れてしまったのだと言われた。
「ないそうです。残念ですが、仕方ありませんね」
買ってあげるなどと期待させてしまって申し訳ない。
あやまると、彼女は恐縮した。
「いいんです。哲也さんのお気持ちだけで」
「疲れましたよね。何か食べて、帰りましょうか」
「はい。今日は少し暑いですね」
赤らんだほおをごまかすように、奈々子さんは手のひらで顔をあおいだ。
ブラウスの長い袖がひらひらと揺れる。彼女のしぐさ一つ一つがきらめいているように見える。年下の女の子はこんなにもかわいいのだ。
涼也の母親は年上で、俺は年上が好きなのかと思っていたが、恋愛に年齢は関係ないのだろうとも思う。
「あっ、お客さまー、まだいらしたっ。いま、お取り置きのキャンセルが出たんですけど、ご覧になりますか?」
販売所を出ると、女性の声に呼び止められた。振り返ると、販売所のエプロンをつけた店員があわてて駆け寄ってくる。
プリンセスローズのキャンセルが出たらしい。俺たちはすぐに販売所の中へ戻り、即決して苗を購入した。
奈々子さんは本当にうれしそうにほほえんで、大事に育てますと言ってくれた。
園内のレストランで食事をした後、車に戻り、彼女の自宅へ向かった。
助手席で、大切そうに苗をかかえる彼女が愛おしかった。プレゼントをこんなにも喜んでくれるなんて、涼也の母親にはない姿だった。
週末になると、涼也の言っていた通り、久子さんが工場を訪ねてきた。
案の定、再婚を考えてもいいんじゃないかとすすめられた。
奈々子さんでは若すぎると話はしたが、今どき、18歳差なんて珍しくない、気にしなくていい、と押し切られた。
それなりに覚悟を決めていた俺は、奈々子さんに連絡先を伝えてもらうよう頼み、その場をしのいだ。
奈々子さんが乗り気な以上、もう一度きちんと会って話さないと、久子さんのおせっかいが続く気がしたのだ。
奈々子さんから電話があったのは、二日後の夜だった。丸一日悩んで、次の日も仕事が手につかないから、勇気を出して電話をした、と話してくれた。
そんなに俺を慕ってくれてるのか、と思うと悪い気はしなくて、デートしようと誘った。
彼女は電話口で、うれしいです、と笑った。泣き出しそうな声だった。感極まるというのだろうか。
好きな人に会えるとき、こんなにもうれしいものなのだろうか。恋とは無縁なまま涼也を授かった俺には、経験のない感情だった。
週末になり、奈々子さんの自宅まで車で迎えに行くと、かわいらしいワンピースに身を包んだ彼女が玄関の前で待っていた。
「すみません、いつも小さい車で」
助手席のドアを開けながら謝ると、彼女は気にしてないと微笑んでくれた。
商用車では味気ないから、別の車を選んだが、軽自動車だった。
若い女の子なら嫌がるだろうに、嫌な顔ひとつ見せない。本当にいい子だ。俺なんかで大丈夫だろうかと不安になるほど。
まあ、そのうち、急に目が覚めてふられるかもしれない。どちらかというと、俺はそういう役回りで生きてきた。今さら、失うものなど何もない。
「どこか、行きたいところはありますか?」
なければ、公園へ行こうと思っていた。近くに国営公園があり、ちょうどバラが見ごろになっていると、夕方のニュースで見たのだ。
「哲也さんは?」
「特になければ、バラ園に行きませんか? 満開だそうです」
「はい。私、バラが好きなんです」
「それはよかった」
気をつかって喜んでくれたのだろうか。本当のところはわからないが、笑顔の奈々子さんを見ていると、胸が躍るのを感じる。
俺だって一応、まだ男だ。若い女の子に好かれたらうれしいもんだ。
奈々子さんはこちらに身体を向けて、にこりとしている。
それにしても、かわいい子だ。本当にこんなにかわいい子が俺を好きなんだろうか。彼女が好意を見せてくれたら、やましい気持ちを隠せなくなるかもしれない。
いやいや、そんな短絡的でどうする。だから、失敗したんじゃないのか。涼也はかわいいが、恋愛は失敗だった。同じ過ちは繰り返せない。
「遅くならないうちに帰りますから」
帰宅時間を提示して、車を発進させた。それは、自分に言い聞かせるつもりもあったかもしれない。
国営公園は、程よく混み合っていた。あまり混雑していても、人いきれに疲れてしまうが、閑散としていても雰囲気がなくて楽しくない。
デートコースのチョイスとしては上々だったんじゃないかとあんどしながら、園内を散策した。
バラ園のある一角は、思ったより人が集まっていた。広くない石橋の先で、多くの人が足を止めてバラを眺めている。
「珍しいバラでもあるのかな」
「なんでも、皇室の女性の名前がついた、プリンセスローズがあるみたい」
右側を歩く奈々子さんは、パンフレットを眺めながら、そう言う。
「それは珍しそうだ」
人垣の方へ目を向ける。向かい側から、子連れの親子が何組か歩いてくるのが見えた。
石橋は人がすれ違えるぐらいの幅で、あっちへこっちへと歩き回る子どもが危なっかしく、左通行の道では、右側は歩きにくいだろうと、彼女の右側へ移動した。
奈々子さんを守るように、触れない程度にそっと背中へ腕を回すと、彼女は「大丈夫です」とつぶやいて、そそくさと前を歩いていった。
なんだ。やっぱり、俺に触れられるのは嫌なんじゃないか。
心の中で苦笑して、石橋を渡り終えると、奈々子さんはふたたび、俺の右側へとやってきた。
「皇后陛下のお名前がついたバラ、きれいですね。気品があります。イングリッシュローズだそうですよ」
イングリッシュローズが何かも知らない俺は、淡いピンクのバラを惚れ惚れと眺める彼女を見つめる。
高貴なバラには、人心をつかむ魅力があるのだろう。ここへ来た甲斐があったと感じるような、幸福な笑みを浮かべている。
「苗の販売があるようですね」
特別展の開催期間中は、プリンセスローズの苗が購入できると、パンフレットに小さく書いてある。
「苗が買えるんですか? でも、きっと売れちゃってますね」
奈々子さんは目を輝かせたが、すぐにそう言う。
「ほしいですか?」
「あっ、そんなつもりじゃ。おばあちゃんのバラ好きが高じて、うちにたくさんバラはありますし」
「じゃあ、ほしいですよね。聞くだけ聞いてみましょう」
祖母の影響だろうが、バラ好きなのは本当だったのだ。
「本当に、大丈夫ですよ」
「俺がプレゼントしたいんです」
「え……、プレゼント?」
「そう。だから、気にしないでください」
みるみるうちに、奈々子さんのほおは赤らんだ。どんなバラよりも美しく赤らむのだと思う。
なんだか照れくさくなって、バラ園の中を黙って進むと、彼女も無言でついてきた。
少し腕が引っ張られる感じがして視線を落とすと、奈々子さんがシャツの袖をひかえめにつかんでいた。
いつの間にか増えた人波にまぎれ込まないようにしてるんだろう。手首をつかんで引き離すと、そのまま手を握った。
彼女の指先がピンと伸びる。びっくりしたようだったけど、それも束の間で、うつむいたまま握り返してきた。
歩くたび、人の視線が気になった。
年齢より落ち着いてみえる奈々子さんとはいえ、明らかに若い女性が、40代の男と一緒にいるのだ。
しかも、親子ほどには年が離れていない。親戚のおじさんにしては、手をつないでるなんておかしい。じゃあ、不倫か。疑いの目を向けられても仕方ない年齢差だ。
俺はどうかしてる。俺たちがつり合ってないのはわかっているのに、どうして手を握ってしまったのだろう。
超えてはいけない一線を超えたら、歯止めがきかなくなりそうだ。それを奈々子さんが望んでいるなら、なおさら。
花の苗の販売所へ着くと、自然と手がはなれた。店員をつかまえ、プリンセスローズの苗はないか尋ねた。案の定、売り切れてしまったのだと言われた。
「ないそうです。残念ですが、仕方ありませんね」
買ってあげるなどと期待させてしまって申し訳ない。
あやまると、彼女は恐縮した。
「いいんです。哲也さんのお気持ちだけで」
「疲れましたよね。何か食べて、帰りましょうか」
「はい。今日は少し暑いですね」
赤らんだほおをごまかすように、奈々子さんは手のひらで顔をあおいだ。
ブラウスの長い袖がひらひらと揺れる。彼女のしぐさ一つ一つがきらめいているように見える。年下の女の子はこんなにもかわいいのだ。
涼也の母親は年上で、俺は年上が好きなのかと思っていたが、恋愛に年齢は関係ないのだろうとも思う。
「あっ、お客さまー、まだいらしたっ。いま、お取り置きのキャンセルが出たんですけど、ご覧になりますか?」
販売所を出ると、女性の声に呼び止められた。振り返ると、販売所のエプロンをつけた店員があわてて駆け寄ってくる。
プリンセスローズのキャンセルが出たらしい。俺たちはすぐに販売所の中へ戻り、即決して苗を購入した。
奈々子さんは本当にうれしそうにほほえんで、大事に育てますと言ってくれた。
園内のレストランで食事をした後、車に戻り、彼女の自宅へ向かった。
助手席で、大切そうに苗をかかえる彼女が愛おしかった。プレゼントをこんなにも喜んでくれるなんて、涼也の母親にはない姿だった。
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