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 奈々子さんの家に着き、すぐさま助手席に回り、ドアを開ける。苗を受け取ると、彼女が言う。

「よかったら、お茶でも飲んでいきませんか?」
「あ、それは……」

 お茶を飲むぐらい、どうってことないだろう。そう思いながらも、遠慮するべきだ、と、もう一人の俺が脳内で騒いでいる。ふたりきりで部屋にいたら、どうなっても責任取らないぞ、と言ってるみたいに。

「あっ、いいんです。お礼がしたくて、と思っただけなんです。……あの、昨日、クッキーを焼いたんです。よかったら、持って帰ってください」

 つまり、最初から俺を部屋に呼ぶつもりで、クッキーを焼いて準備していた、と言ったのだろう。

 うぬぼれる俺から逃げるように、奈々子さんは玄関に駆け寄った。

「バラ、この辺りに置きますね」

 玄関前の邪魔にならない場所に鉢を下ろす。その時だった。ガシャンッと鳴る音とともに何かがずり落ちる音がした。

 驚いて振り返ると、ガラス張りの引き戸にもたれるようにして、奈々子さんがしゃがみ込んでいた。

「奈々子さんっ!」

 あわてて駆け寄り、彼女の肩を支えるようにつかむ。

 ひどい汗だ。ひたいに浮かぶ汗が、気候のせいじゃないことぐらいは、容易に想像がついた。

「ごめんなさい。大丈夫です……」

 弱々しい声で、彼女は右耳を押さえていた。

「痛いんですか? 耳が」
「ち、違うんです。耳鳴りがちょっと……」
「耳鳴り? ほかに痛いところは?」
「少しめまいがして……、それで耳鳴りが……。よくあるので、大丈夫なんです」
「よくあるって」

 疲れたんだろうか。あまり無理をさせたつもりもなかったが、彼女はずっと緊張していたようだったし、見た目以上に気を張っていただろう。

「とりあえず、中へ入った方がいいですよね? 立てますか?」
「はい……、大丈夫です」

 立ちあがろうとする奈々子さんを抱き上げる。お姫さまだっこしたら、彼女は恥ずかしそうに首に抱きついてきた。

 薄いシャツ越しに、肌が密着する。甘い香水の香りにクラッとした。早鐘を打つ心音と、じんわりと浮かぶ汗が、よこしまな過去を思い出させる。

 涼也の母親とは、デートらしいデートをしなかった。会えば、肌を重ねるだけ。それだけの関係だったのに、ねっとりと絡みつく肌に好奇心を駆り立てられ、あの女に甘えていた俺は、あまりに無責任な行為におぼれた。

 奈々子さんとは、ああいう関係にはならないだろう。彼女はあまりにも、涼也の母親とは違いすぎる。

 玄関をあがると、右手にリビングが見えた。左に進むと、ソファーの置かれた和室がある。

 ソファーに彼女をそっと寝かせて、ポケットから取り出したハンカチで汗をぬぐった。ずいぶん、顔色が良くなっている。

「水、持ってきます。キッチン、入っていいですか?」
「あ、ありがとうございます。リビングの入り口に、ミネラルウォーターがあるので……」

 ずうずうしくお願いしてしまったと恥じ入る彼女のひたいに触れ、うなずく。

「わかりました。横になっててください」

 部屋を出ると、すぐにペットボトルに入ったミネラルウォーターは見つかった。ダンボール箱から一本つかんで戻ると、寝てていいというのに、彼女は上体を起こしてソファーにもたれていた。

 隣に座り、キャップを外したペットボトルを渡す。ひと口飲んで、奈々子さんはわずかにほほえんだ。

「だいぶ、よくなりました。哲也さんがいてくださって助かりました」

 礼を言うが、俺がいるからこんなことになったのではないかと思う。

「やっぱり私、哲也さんと一緒にいたいです」

 不意打ちで告白した奈々子さんは、俺の腕に寄りかかる。

 赤らむほお。物憂げな表情。まだ回復途中の彼女は妖艶だった。

 熱でもあるんじゃないか。気になってひたいに触れてみるが、さっきと変わらない。熱はないようだ。

「ご迷惑、ですよね?」

 上目遣いで言われたら、背筋にぶわっと鳥肌が立った。

 18歳も年下とは思えない誘惑顔をするのだ。心がぐらぐらと揺れる。

 奈々子さんは苦しいのか、薄く唇を開いたまま、まぶたを落とした。

 キスをねだってるんだろうか。

 そんなはずないか。しかし、俺の手を握ってくる彼女を、どう受け止めたらいい。

 涼也の母親はどうだっただろう。思い出そうとした。同じ過ちは犯したくなかった。

 涼也の母親、明奈あきなは、6歳年上の実兄、俊樹としきの友人だった。

 俺が高校2年生のとき、兄の計画した夏キャンプで出会った。

 夏休みになっても、いつもと変わらず、部屋でゴロゴロしていた俺を、兄はあきれてキャンプに誘った。

 興味はなかったが行くことにした。夏休みのひまつぶしにはなるか、という感覚だった。

 兄はフルタ工場を継ぐ気はなく、システムエンジニアとしてそこそこの大企業に就職していた。

 兄の友人に会うのは初めてだった。キャンプ参加者は全員社会人で、俺には場違いなキャンプだった。

 結局、家にいるのと変わらず、コテージでゴロゴロしていた。俺は兄と同じ部屋を割り当てられていたが、夜になると、明奈が部屋へやってきた。

 明奈の親友と兄がデキていて、ほかのメンバーに内緒で、部屋を交換しようと兄が提案したとのことだった。

 明奈は高校生の俺をかわいいと言ってからかってきた。正直、バカにされてるみたいで嫌だったが、そのうちに彼女が、「お姉さんが教えてあげようか」と言い出した。

 いいも悪いもなく、明奈にベッドに押し倒され、ヤってしまった。はじめてのわりに上手じゃない、と言われて、いい気になったりもした。

 キャンプから帰ってくると、明奈に呼び出された。三日に一度、彼女の暮らすアパートに出かけてやっていた。兄はそれを知っていただろうが、面白いと思っていたのか、何も言わなかった。

 夏休みが終わると、明奈からの連絡はなくなった。ひと夏の冒険が終わったんだと思った。

 そして、翌年のゴールデンウィーク、兄が赤子を抱いて帰ってきた。

「明奈と哲也の子だよ。明奈は育てたくないらしい。手続きは俺が全部やっておくから、あとは頼む」

 そう言って、兄は赤子を俺の腕に押し付けた。

 初めて見る、小さなかたまりに戸惑った。今でも、あのときの感触は忘れていない。ほんの少しずっしりと感じた重みは、命の重さだった。

 俺たちがただただ快楽におぼれた末に生まれた子に、どうしよう、という気持ちがふくらんだ。

 寝耳に水だった俺は、すぐに明奈に電話をかけた。つながらないかと思ったが、あっさりと彼女は電話に出てくれた。

「哲也くんさ、絶対モテないと思うんだよね。もし、あの子を堕したら、哲也くんに家族ができる最後のチャンスを奪うのかもって思ったら、産みたくなったの。でも、ごめんねー。私は哲也くんとはダメだから」

 彼女の言い分にあぜんとした。

「愛着がわくと嫌だから、名前は考えてない。哲也くんがつけてあげて」

 明奈はそう言って、電話を切った。

 俺は両親にさんざん説教なんていうものじゃないぐらいの叱咤を受けながら、一生懸命、名前を考えた。

 そして、俺を見ると笑う赤子に、涼也、と名付けた。

 あのときは知らなかったが、涼也が笑っているように見えたのは、眠っているときに笑う、新生児微笑というものだったらしい。決して、俺に向かって笑いかけていたわけじゃないのに、俺はきっとかわいく思ったのだと思う。

 高校は卒業させてもらい、フルタ工場を継いで、必死に働いた。ひとりで涼也を育てたなんて立派なことは言わないが、俺なりにせいいっぱいやってきた。

 恋をする時間なんてなかったし、明奈の言う通り、俺はずっとモテない男だった。

 苦労はたくさんあったが、涼也がいてくれてよかったと思うことの方が多かった。

 涼也が小学校にあがる年、明奈が会いに来て、おまもりを置いていった。

 明奈はますます綺麗になっていた。涼也を見ると、やっぱり母親の表情を見せて、俺に礼を言った。私だったら育てられなかった、ありがとう、と。

 涼也のランドセルに、明奈の持ってきた交通安全のおまもりをつけた。母親からのプレゼントと知らず、彼はおまもりを大切にしていた。

 中学生になり、通学かばんが変わると、おまもりもつけかえた。高校生になる頃には、おまもりはなくなっていた。

 風のうわさで、明奈は大手企業の役員と結婚し、海外で暮らしていると聞いた。子どももいて、セレブ生活を謳歌している、と。

 おまもりが自然となくなったのは、涼也と明奈がもう二度と会うことはないという暗示だと思った。

 きっとあのとき、俺と明奈も終わっていたのだ。

 まばたきをすると、キャップの開いたペットボトルが目に飛び込んできた。

 奈々子さんの手からそれを取り上げ、キャップをしめると、足もとに置いた。その手の行き場を持て余し、彼女のほおに触れた。

 キスを待っているのかはわからないが、愛らしい唇に引き寄せられるように顔を寄せた。

 奈々子さんがまぶたをあげた。驚いて拒むかと思ったのに、ふたたび、目を閉じ、赤らんだ。

 だから、そのまま唇を重ねた。真夏の明奈がフラッシュバックした。しかし、すぐに柔らかな唇が現実に引き戻してくれた。

 キスの仕方も知らない唇は、明奈のそれとはあきらかに違った。

 あまりに柔らかい唇を、優しく食んだ。唇が離れるたびに甘い息がもれて、愛おしさが増す。

 奈々子さんのふんわりとした雰囲気そのものを形どった唇に、何度も唇を重ねた。

 俺でいいのか。
 こんなに若い女の子が、俺なんかで。

 申し訳ないと思う気持ちと、奈々子さんを手放したくない思いが交錯したが、離れられなかった。

「哲也さん……」

 甘えるように俺の名前を呼ぶ奈々子さんを抱き寄せた。

「俺でいいんですか?」

 腕の中でうなずく彼女の髪に、やましさのあふれる手を伸ばした。

「どうして、俺が好きなんですか?」

 尋ねながら、髪をなでた。その毛先にある胸もとへ指を落としていく。

 女に飢えた指先が、ブラウスのボタンに触れた瞬間、奈々子さんは恥ずかしそうに身をよじる。

「それは……」

 彼女が言いかけたそのとき、玄関の方からスマートフォンの鳴る音がした。

「あっ、バッグ……」

 奈々子さんのバッグは、玄関前に落ちたままだったのだろう。

 彼女はすぐさま立ち上がる。少しふらついたが、そのまま部屋を出ていった。

 だいぶ、良さそうだ。あんどしつつ、スマートフォンが鳴らなかったら大変な所業に身を染めていたと反省し、俺も立ち上がった。

 すぐに部屋へ戻ってきた彼女は、「おばあちゃんの具合が良くないそうで、病院に行ってきます」と言った。

 俺は車に彼女を乗せると病院まで送った。

 彼女は不安そうで、病室までついてきてほしそうな顔をしたが、遠慮した。

 ここで離れなければ、必ず、俺は彼女を傷つける。

 その傷は、彼女が望むものなのか。
 もう一度、一人になって考えるべきだ。

 そう、42歳の俺が脳内でささやいていた。
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