三月一日にさようなら

つづき綴

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すべての終わりと始まり

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 手を後ろに組んだまま、薫子ちゃんは机の上をのぞき込んできた。長い黒髪がさらさらと机に落ちてくる。彼女はその髪を、真っ白な指でそっと耳にかきあげた。

 私と、同じ人間なのかな? って思うぐらい、美しいしぐさだった。

「何って、和歌の本」

 どきどきしながら、私は答えた。ちょっとにこっとした彼女が、あまりにもかわいかったから、アイドルを見ているような胸の高鳴りを覚えたんだと思う。

「和歌集? すごいね」

 何がすごいのかわからなかったけど、自分が読まない本を読んでるとなんでもすごく見えるんだろうって思った。

「難しい本じゃないよ。マンガみたいなもん」

 照れ笑いして、私は本を開いて見せた。
 右ページに一句。左ページに和訳。その情景がイラストでちょこっと書かれてるだけの本。

「古文、好きなの?」
「得意じゃないけど……うん、なんとなく好き」

 昔から、顔に似合わず読書家だって言われてる。だからって、国語の成績がいいわけじゃない。

 健康的な小麦色の肌、快活そうなぱっちりとした目鼻立ちをしてるから、運動得意でしょって言われることも多いけど、体育もそれほど。

 見た目のギャップに驚かれることは多々あった。
 たぶん、薫子ちゃんはピアノが弾けて、お料理もできる女の子に見えるのと同じ。実際も、彼女はできそうなんだけど。

「お気に入りの和歌とか、あるの?」

 薫子ちゃんは興味深そうに、和歌集を眺めた。閉じられたそれを触ったりはしない。中身をのぞき見るみたいに、じぃーっと表紙を見つめてる。

「あるにはあるけど……」
「あるけど?」
「ちょっと恥ずかしいかな」
「どうして?」
「恋の歌だし」
「昔の歌って、恋の歌とか多そうだよね。恥ずかしくなんてないよ。あ、好きな人がいたりするの?」
「い、いないよ、いない」

 かぁって赤くなってしまう。恋の話はちょっと苦手。勘違いされちゃうかもって思ったけど、薫子ちゃんはからかったりしなかった。

 いないって否定して、その慌てようはいるんでしょ? みたいな不毛な会話、好きじゃないのかもしれない。

 私たちは見た目も性格も全然違うだろうけど、ものの考え方はどこか似てるかもしれない。ちょっと親近感が湧いた。

「どんな歌?」

 尋ねられて、教えてもいいかなって魔がさした。薫子ちゃんになら、ちょっとだけ。

 和歌集を手に取り、何度も開いたそのページを彼女に見せた。

「わが命……」

 首を傾けて、和歌集をのぞき込み、つぶやく薫子ちゃんに代わって、私が読み上げる。

「わが命のまたけむかぎり忘れめやいや日にには思ひすとも」
「どんな意味なの?」

 すぐにそう尋ねてくるから、私は隣のページに書かれた和訳も読み上げる。

「私の命が続く限り、日ごとに想いが増す事はあったとしても、あなたのことは忘れないでしょう。……好きな人はいないんだけど、こんなふうに一途に思えたらいいなって思って」

 それは、あこがれみたいなものだった。
 恋に興味はあっても、大学受験に向けての勉強に追われる日々に、リアルな恋は無縁だったし、どこか他人事だった。

「そう思える人に出会えたらいいなって感じ? なんか、わかる気がする」

 薫子ちゃんはばかにしたりしないで、同調してくれた。

「ありがとう。あの……、内緒ね」
「もちろん。音羽ちゃんと私だけの、ね」

 指切りするみたいに、私たちは目配せした。友情が芽生えるときってこんな感じなのかなって、どきどきした。

「ごめんね。ちょっと行きたいところがあるの」

 掛け時計を確認して、私はそう言った。そろそろ下校時間になる。強制的に校舎から出されてしまうだろう。

「行きたいところ?」
「うん、屋上に」
「文化祭の何か?」
「そんな感じ」

 ほんとは違うけど、さすがに、私が感じてる既視感を話すわけにはいかなかった。

 薫子ちゃんには気が許せる。そう思ったけど、気を許したらいけないって気持ちもまた、同時に抱えていた。

「じゃあ、また明日ね」

 和歌集を学生かばんにしまって、私はそう言った。

「私も帰るね。またね」

 薫子ちゃんは小さく手を振った。

 私も一緒に屋上に行く、なんて言い出したらどうしようって思ったけど、そんなの杞憂だった。

 私は彼女より先に教室を出ると、中央階段へと向かった。
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