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たとえ一緒になれなくても
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*
新天地の部署は、新ビルが多く立ち並ぶオフィス街にあった。
室田設計事務所の看板を横目に、オフィスまで歩いていける場所にあるアパートへ向かう。
今暮らしているアパートより狭くはなるが、利便性を考えて選んだ。
同年代の独身スタッフが多いから、同じアパートに同僚が暮らすかもしれないとも聞いた。
新しい環境で知り合いがいるのは心強いから、それでもいいと思って契約した。
アパートに到着すると、101号室の引越しが行われていた。私の部屋はその上の201号室。
同じ会社の社員だろうかと、引越し作業に追われる青年に近づく。
青年は私をちらりと見て、何やらハッとすると、101号室へ駆け込んでいった。
なんだろう。知ってる人のようには見えなかったけれど……と思っていると、101号室のドアが内側から勢いよく開き、さっきとは別の青年が姿を見せた。
青年は私を見つけると、「やあ」とひどく落ち着いた笑顔を見せて私に向かって歩いてくる。
私の胸は、苦しいぐらい跳ね上がった。
憎らしい人。
そう思いながら、私もまた彼に近づいていく。
「茉莉、きっと来ると思ってた」
「郁さんがいるなんて思ってませんでした」
ほぼ同時に私たちは言った。
郁さんは数ヶ月前と変わらず、爽やかにほほえむ。私との間にあったことなんて忘れてるみたいに。
「もしかして、新しい部署の部長って郁さんですか?」
「あれ? 辞令は出てるけどね、知らなかった?」
「全然聞いてません」
ふるふると首を左右にふると、郁さんはあごをなでる。
「妙な気をつかった誰かがいるのかもしれないね」
「たしかに私も、新部長は誰? とは聞きませんでしたけど」
「誰の下でもがむしゃらに働く君らしいね。まあでも、知ってたら君のことだ。内示を拒否したかもしれないからね。幸いな話だね」
「郁さんだって知ったら拒否すると思ったんですか」
ずっと郁さんに会いたかった。
きっと彼はそんなこと知らないのだ。
「そうだね。多少は気弱になるね。君が別れたいなんて言うと思ってなかったから」
「でも別れてよかったって思ってます」
あれから夏也とたった一度だけ連絡を取った。
五年の付き合いに終止符が打てたのは郁さんとの別れがあったからだと思う。
「別れてよかったか……」
君は本当に素っ気なさすぎる。と、郁さんは笑う。
「茉莉は変わらないね」
「郁さんも」
「でも心は変わった?」
頼りなく眉を下げる彼と見つめ合い、首を振る。
「そんなに簡単に変わるわけないじゃないですか」
すごく愛した人よりも愛した人を忘れるはずはなくて。
「そう」
郁さんは短くうなずいて、私にさらに近づくと、ポケットに手を入れる。
「俺はずっと後悔してた。君の思いを受け入れることが責任の取り方だとずっと思ってた」
「責任とか、やめてください」
「ああ、そうだね。俺は君が好きだった。彼氏から奪ってでもほしいと思った。それだけが真実だよ。だから君が別れたいと言っても別れるんじゃなかった」
「今でもその気持ちがあるんですか?」
「茉莉にもある?」
あるに決まってる。でもそれは言葉にならなかった。
郁さんがポケットから出した手に、小さな箱が見えたから。
「郁さん……」
「君へのプレゼントだよ。いつ渡そうか、ずっと考えてた。そうしたら君の異動が決まってね。これはチャンスだと思った」
「チャンスって」
涙を浮かべながら笑ってしまう。どこまでも郁さんらしい言い方で。
郁さんは私の前に立ち、髪をゆるりとなでて言う。
「君の言葉を借りるならね、たとえ一緒になれなくても、今すぐ結婚する心づもりはあるよ」
なんて郁さんは笑って、私の目の前で小箱を開く。
そこには綺麗なプラチナの指輪がキラキラと光っていた。
【完】
新天地の部署は、新ビルが多く立ち並ぶオフィス街にあった。
室田設計事務所の看板を横目に、オフィスまで歩いていける場所にあるアパートへ向かう。
今暮らしているアパートより狭くはなるが、利便性を考えて選んだ。
同年代の独身スタッフが多いから、同じアパートに同僚が暮らすかもしれないとも聞いた。
新しい環境で知り合いがいるのは心強いから、それでもいいと思って契約した。
アパートに到着すると、101号室の引越しが行われていた。私の部屋はその上の201号室。
同じ会社の社員だろうかと、引越し作業に追われる青年に近づく。
青年は私をちらりと見て、何やらハッとすると、101号室へ駆け込んでいった。
なんだろう。知ってる人のようには見えなかったけれど……と思っていると、101号室のドアが内側から勢いよく開き、さっきとは別の青年が姿を見せた。
青年は私を見つけると、「やあ」とひどく落ち着いた笑顔を見せて私に向かって歩いてくる。
私の胸は、苦しいぐらい跳ね上がった。
憎らしい人。
そう思いながら、私もまた彼に近づいていく。
「茉莉、きっと来ると思ってた」
「郁さんがいるなんて思ってませんでした」
ほぼ同時に私たちは言った。
郁さんは数ヶ月前と変わらず、爽やかにほほえむ。私との間にあったことなんて忘れてるみたいに。
「もしかして、新しい部署の部長って郁さんですか?」
「あれ? 辞令は出てるけどね、知らなかった?」
「全然聞いてません」
ふるふると首を左右にふると、郁さんはあごをなでる。
「妙な気をつかった誰かがいるのかもしれないね」
「たしかに私も、新部長は誰? とは聞きませんでしたけど」
「誰の下でもがむしゃらに働く君らしいね。まあでも、知ってたら君のことだ。内示を拒否したかもしれないからね。幸いな話だね」
「郁さんだって知ったら拒否すると思ったんですか」
ずっと郁さんに会いたかった。
きっと彼はそんなこと知らないのだ。
「そうだね。多少は気弱になるね。君が別れたいなんて言うと思ってなかったから」
「でも別れてよかったって思ってます」
あれから夏也とたった一度だけ連絡を取った。
五年の付き合いに終止符が打てたのは郁さんとの別れがあったからだと思う。
「別れてよかったか……」
君は本当に素っ気なさすぎる。と、郁さんは笑う。
「茉莉は変わらないね」
「郁さんも」
「でも心は変わった?」
頼りなく眉を下げる彼と見つめ合い、首を振る。
「そんなに簡単に変わるわけないじゃないですか」
すごく愛した人よりも愛した人を忘れるはずはなくて。
「そう」
郁さんは短くうなずいて、私にさらに近づくと、ポケットに手を入れる。
「俺はずっと後悔してた。君の思いを受け入れることが責任の取り方だとずっと思ってた」
「責任とか、やめてください」
「ああ、そうだね。俺は君が好きだった。彼氏から奪ってでもほしいと思った。それだけが真実だよ。だから君が別れたいと言っても別れるんじゃなかった」
「今でもその気持ちがあるんですか?」
「茉莉にもある?」
あるに決まってる。でもそれは言葉にならなかった。
郁さんがポケットから出した手に、小さな箱が見えたから。
「郁さん……」
「君へのプレゼントだよ。いつ渡そうか、ずっと考えてた。そうしたら君の異動が決まってね。これはチャンスだと思った」
「チャンスって」
涙を浮かべながら笑ってしまう。どこまでも郁さんらしい言い方で。
郁さんは私の前に立ち、髪をゆるりとなでて言う。
「君の言葉を借りるならね、たとえ一緒になれなくても、今すぐ結婚する心づもりはあるよ」
なんて郁さんは笑って、私の目の前で小箱を開く。
そこには綺麗なプラチナの指輪がキラキラと光っていた。
【完】
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