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第三話 誠さんは奔放な恋がお好き
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「千鶴さん、ちょっと横になりますか?」
座布団を敷いた畳の上へ、座椅子にもたれかかる千鶴さんをいざなう。
青ざめる彼女は座布団へ移動する前に、俺のひざの上にほおを寄せて目を閉じてしまう。
コートを肩にかけてやりながら、そのまま小さな背中をさする。
ぐったりとする千鶴さんを眺めていると、わずかに後悔が浮かぶ。
旅行などと言って天目から連れ出さなければよかっただろうか。平凡な毎日を送ることすら難しい彼女が、知らない土地へ出かけるのはやはり、リスクが大きい。
白いほおにかかる髪をそっとはらうと、パチリと千鶴さんの目が開く。
「大丈夫ですか?」
尋ねると、彼女は上体を起こしつつ、俺の胸に身を寄せてくる。キュッと胸元をつかんでくる小さな手すら愛らしい。彼女には俺が必要だ。そんな風に感じる瞬間が、夫婦である喜びを覚える瞬間でもある。
「あったかい、胸……」
甘えるように、千鶴さんが胸にほおをすりつけてくる。珍しい。いまだに肌を合わせるときには恥ずかしくてたまらないというようにはにかむ彼女が、明るいうちから俺に甘えることはほとんどと言っていいほどない。
千鶴さんの手が胸の上を這い上がる。俺を見上げる彼女の瞳が情熱的に潤んでいる。「あ……」と薄く開いた赤い唇が、俺の唇をゆっくりと塞いでいく。
どうしたことだろう。こんな大胆な千鶴さんは今までにない。
彼女の脇をつかみ、引き離そうとしたが、あまりに心地良いキスに理性が失われていく。
後ろ頭を支え、応えるようにキスを深くする。
このまま押し倒してしまいたい。そんな衝動にかられながらも、彼女の指がセーターの中に忍びこんでくるのに気づくと、されるがままでいるのも悪くない、なんて思いが湧いた。
千鶴さんの指が巧みに素肌の上を這う。その指使いが情熱的になればなるほど浮かぶのは違和感なのに、止まる思考がその感覚をすぐに忘れさせていく。
こんな日も悪くない。
そればかり考える俺の耳が、次の瞬間にはびくりとなる。
「あー、さむー」
春樹が帰ってきたようだ。隣の部屋でゴトゴトと音がする。
それでも千鶴さんの動きはやまない。
思わず彼女の肩をつかみ、上体を起こす。
同時に、引き戸をノックする音がする。
「兄貴、悪い。スマホの充電器忘れたー」
「ああ、待ってろ」
ほんの少しうらめしそうな目をする千鶴さんを離して立ち上がる。
旅行バッグの上に乗る充電器をつかみ、部屋を出るなり春樹に突き出す。
どうも気持ちが高ぶっているらしい。
「ちょっと出てくる」
ぶっきらぼうに言ってしまう。
「あ? ああ」
首をひねりながら充電器をつかむ春樹に背を向け、頭を冷やそうと俺はそのまま部屋を出た。
廊下の突き当たりにある自動販売機の前に立ち、ポケットから財布を取り出す。
明らかに千鶴さんはおかしかった。それでも彼女を拒むことなく受け入れていたなんて。理性がきかないとは愚かしい、と苦笑いしながらペットボトルのお茶を購入し、すぐに部屋へと向かう。
部屋のドアを開けた瞬間、冷水を浴びたように俺は立ち尽くす。
春樹と抱き合う千鶴さんが目に飛び込んでくる。眉をひそめる。おかしい。それは気づいているのに、またもや理性は崩壊していく。
「春樹っ!」
ペットボトルを投げ捨て、春樹の肩口をつかむ。恐ろしい顔をしているのだろう。春樹は真っ青になり、パッと千鶴さんを離す。
「ち、違うっ、兄貴」
「何が」
低い声を発する俺の前で、千鶴さんは春樹に手を伸ばす。そのまま春樹の首に腕を絡めるから、彼はますますあわてる。
「ほら、ほら見ろ、兄貴。千鶴ちゃん、なんか変なんだよ。兄貴が出ていったらいきなり抱きついてきてキス……」
「キスしたのか」
「あー、違うぜ。キスしようとするからダメだっていさめてさ、でも離れてくれねぇし、あんまりかわいいからつい抱きしめたくなるだろー」
「は」
千鶴さんの腰にさりげなく回る春樹の腕を払い落とす。すると、彼の首にしがみついたままの彼女がゆるりと俺を見上げる。
そのなまめかしい視線にハッとする。目の前にいる千鶴さんは俺の妻である千鶴さんではない。
何者かに取り憑かれている。
はっきりと自覚したのは、彼女の手が春樹に触れたまま俺のほおに伸ばされたからだ。
「誠さんも一緒にスル?」
「へ、一緒に?」
間の抜けた声をあげたのは春樹だ。何を想像したのか、垂れるほおをはたいて、彼はぶんぶんと首をふる。
「さすがにそれはまずい。まずいよ、千鶴ちゃん。兄貴とは無理だ」
「俺とじゃなきゃいいみたいな言い方はするな」
千鶴さんを春樹から引き離し、抱き寄せる。すると彼女はしっかりと俺に抱きついてくる。
「誰でもいいみたいだなー。男好きの霊でも取り憑いたみたいだ」
彼女が離れたことで急に冷静になったのか、春樹がそう言う。
「あながち的外れな話じゃなさそうだ」
困りながら千鶴さんの髪をなでていると、彼女は俺の胸に顔をうずめて肩を揺らす。
泣いている。
それに気づいたとき、彼女は足元に崩れ落ちて両手で顔を覆った。
「啓司に会いたい、会いたい……」
そう言って、泣いた。
「千鶴さん、ちょっと横になりますか?」
座布団を敷いた畳の上へ、座椅子にもたれかかる千鶴さんをいざなう。
青ざめる彼女は座布団へ移動する前に、俺のひざの上にほおを寄せて目を閉じてしまう。
コートを肩にかけてやりながら、そのまま小さな背中をさする。
ぐったりとする千鶴さんを眺めていると、わずかに後悔が浮かぶ。
旅行などと言って天目から連れ出さなければよかっただろうか。平凡な毎日を送ることすら難しい彼女が、知らない土地へ出かけるのはやはり、リスクが大きい。
白いほおにかかる髪をそっとはらうと、パチリと千鶴さんの目が開く。
「大丈夫ですか?」
尋ねると、彼女は上体を起こしつつ、俺の胸に身を寄せてくる。キュッと胸元をつかんでくる小さな手すら愛らしい。彼女には俺が必要だ。そんな風に感じる瞬間が、夫婦である喜びを覚える瞬間でもある。
「あったかい、胸……」
甘えるように、千鶴さんが胸にほおをすりつけてくる。珍しい。いまだに肌を合わせるときには恥ずかしくてたまらないというようにはにかむ彼女が、明るいうちから俺に甘えることはほとんどと言っていいほどない。
千鶴さんの手が胸の上を這い上がる。俺を見上げる彼女の瞳が情熱的に潤んでいる。「あ……」と薄く開いた赤い唇が、俺の唇をゆっくりと塞いでいく。
どうしたことだろう。こんな大胆な千鶴さんは今までにない。
彼女の脇をつかみ、引き離そうとしたが、あまりに心地良いキスに理性が失われていく。
後ろ頭を支え、応えるようにキスを深くする。
このまま押し倒してしまいたい。そんな衝動にかられながらも、彼女の指がセーターの中に忍びこんでくるのに気づくと、されるがままでいるのも悪くない、なんて思いが湧いた。
千鶴さんの指が巧みに素肌の上を這う。その指使いが情熱的になればなるほど浮かぶのは違和感なのに、止まる思考がその感覚をすぐに忘れさせていく。
こんな日も悪くない。
そればかり考える俺の耳が、次の瞬間にはびくりとなる。
「あー、さむー」
春樹が帰ってきたようだ。隣の部屋でゴトゴトと音がする。
それでも千鶴さんの動きはやまない。
思わず彼女の肩をつかみ、上体を起こす。
同時に、引き戸をノックする音がする。
「兄貴、悪い。スマホの充電器忘れたー」
「ああ、待ってろ」
ほんの少しうらめしそうな目をする千鶴さんを離して立ち上がる。
旅行バッグの上に乗る充電器をつかみ、部屋を出るなり春樹に突き出す。
どうも気持ちが高ぶっているらしい。
「ちょっと出てくる」
ぶっきらぼうに言ってしまう。
「あ? ああ」
首をひねりながら充電器をつかむ春樹に背を向け、頭を冷やそうと俺はそのまま部屋を出た。
廊下の突き当たりにある自動販売機の前に立ち、ポケットから財布を取り出す。
明らかに千鶴さんはおかしかった。それでも彼女を拒むことなく受け入れていたなんて。理性がきかないとは愚かしい、と苦笑いしながらペットボトルのお茶を購入し、すぐに部屋へと向かう。
部屋のドアを開けた瞬間、冷水を浴びたように俺は立ち尽くす。
春樹と抱き合う千鶴さんが目に飛び込んでくる。眉をひそめる。おかしい。それは気づいているのに、またもや理性は崩壊していく。
「春樹っ!」
ペットボトルを投げ捨て、春樹の肩口をつかむ。恐ろしい顔をしているのだろう。春樹は真っ青になり、パッと千鶴さんを離す。
「ち、違うっ、兄貴」
「何が」
低い声を発する俺の前で、千鶴さんは春樹に手を伸ばす。そのまま春樹の首に腕を絡めるから、彼はますますあわてる。
「ほら、ほら見ろ、兄貴。千鶴ちゃん、なんか変なんだよ。兄貴が出ていったらいきなり抱きついてきてキス……」
「キスしたのか」
「あー、違うぜ。キスしようとするからダメだっていさめてさ、でも離れてくれねぇし、あんまりかわいいからつい抱きしめたくなるだろー」
「は」
千鶴さんの腰にさりげなく回る春樹の腕を払い落とす。すると、彼の首にしがみついたままの彼女がゆるりと俺を見上げる。
そのなまめかしい視線にハッとする。目の前にいる千鶴さんは俺の妻である千鶴さんではない。
何者かに取り憑かれている。
はっきりと自覚したのは、彼女の手が春樹に触れたまま俺のほおに伸ばされたからだ。
「誠さんも一緒にスル?」
「へ、一緒に?」
間の抜けた声をあげたのは春樹だ。何を想像したのか、垂れるほおをはたいて、彼はぶんぶんと首をふる。
「さすがにそれはまずい。まずいよ、千鶴ちゃん。兄貴とは無理だ」
「俺とじゃなきゃいいみたいな言い方はするな」
千鶴さんを春樹から引き離し、抱き寄せる。すると彼女はしっかりと俺に抱きついてくる。
「誰でもいいみたいだなー。男好きの霊でも取り憑いたみたいだ」
彼女が離れたことで急に冷静になったのか、春樹がそう言う。
「あながち的外れな話じゃなさそうだ」
困りながら千鶴さんの髪をなでていると、彼女は俺の胸に顔をうずめて肩を揺らす。
泣いている。
それに気づいたとき、彼女は足元に崩れ落ちて両手で顔を覆った。
「啓司に会いたい、会いたい……」
そう言って、泣いた。
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