言の葉の行方

つづき綴

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ノスタルジックフレーム

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 雑誌を閉じると、凪沙はぽつりとつぶやく。

「雪平くんが恋愛に興味がないって言ってたのは、ご両親が離婚してたからだと思うの。家庭は崩壊してて、おじいさんのすすめで高校に進学したみたい。友人らしい友人もいなくて、ずっとひとりぼっちだったって」
「凪沙は唯一心を許せる存在だったんだな。なんかわかる気がするよ」

 凪沙は信頼できる。そう思わせる安心感がある。それは、高校時代からそうだったのだろう。彼女はどこか浮世離れしていて、どんなに大変な毎日を送っていても、透明感を失わない。強くて美しい女性だ。

「ごめん」

 急に情けなくなって、ため息を吐き出すように謝罪した。

「どうしてあやまるの?」
「凪沙がいなくなったのは、矢田に心変わりしたからかもって誤解してた。そういう、なんでもかんでも恋愛に結びつけられるのを嫌がってたんだろうな、彼は。ごめん」

 人の醜い感情にあてられると、矢田は自身がけがれていくように感じたのだろう。そういう環境に育っていたから。彼自身が、凪沙という清廉なものを求めていた。だからこそ、そこに恋愛感情という欲があってはならなかったのだ。

 凪沙は左右に首を振る。

「謝るのは私の方。私も雪平くんと同じだったかもしれない。この記事を読んで、やっぱり雪平くんと私は似てるんだって思ったの」
「凪沙も、彼の前だと自分らしくいられた?」

 それを彼女が認めるということは、俺と一緒にいるときの彼女が、らしくない自身に苦しんでいた証拠になってしまう。

 俺の前からいなくなったのは、やっぱり離れていこうとしたからか、と不安になる。これまでもずっとそうだったじゃないか。どこか、彼女の心は俺じゃないところに向いているように感じていた。

 こぶしをぎゅっと握ると、凪沙は申し訳なさそうに眉を下げた。

「私ね、結婚はしないと思ってた。俊哉さんに交際を申し込まれたときも、芸術の世界では生きてない俊哉さんに恋愛感情をもたれるのは居心地が悪いような気がしてた」

 わかっていたはずなのに、軽い衝撃を受けた。それが彼女の本心なのだ。俺が一方的に彼女を好きでいた。

 凪沙の生きる世界に土足で踏み込んでいい男じゃなかったのだ、俺は。彼女の世界を理解し、彼女の世界を壊さない、そういう男と結ばれるべきだった。

 その男はやっぱり、矢田雪平だったのだろうか。

「それはわかってたんだ。きっと凪沙に好かれたいなんて気持ちもなかった。ただ付き合いたくて、告白した。俺も必死で、凪沙の気持ちを思いやれてなかった」

 交際を押し切った。そんなつもりもなかったけど、彼女に愛されてる自信もなく、交際を望んだ。

「私がこんな気持ちで付き合ってるから、俊哉さんにきっとさみしい思いさせてた。新居の話も仕事のことも噛み合わなくって、結婚しない方がいいかもって悩んでたの」
「そんな矢先に、彼の訃報を知ったんだな」
「雪平くんなら、何かいいアドバイスをくれるんじゃないかって思ったの。彼の口からはもう聞けないけれど、彼の生きた軌跡をたどったら、何か見つかるかもって」
「見つかったから、電話してくれた?」

 その答えを、俺は受け止める準備ができていない。だけど、拒まないだろう。

 俺は凪沙が好きだ。
 彼女の望みを否定したくない。

「仕事、やめてきちゃった」
「そっか」

 相談してほしかった。そう言ったら、彼女を責めることになる。相談させない雰囲気を作っていたのは俺だったのに。いや、彼女は何度も相談してくれたじゃないか。俺が彼女のためだと、耳を傾けなかっただけで。

「やめたのは、私たちのためだよ」
「凪沙……」
「私ね、俊哉さんとお付き合いしてよかった」

 そう言って、凪沙は俺をまっすぐ見つめ、ふんわりとほほえんだ。

 彼女を抱きしめたい。だが、そうしていいのか迷い、棒立ちになる俺の背中に、彼女の腕が回ってくる。

「俊哉さんを好きになると、いろんなものが見えなくなる気がしてた。でも、別のものが見えるようになったの」
「それは、よかったのか?」

 俺は彼女の幸せを奪ってないか。半信半疑に尋ねると、凪沙は俺の胸にほおをうずめた。

「うん、幸せだよ。幸せになれる人と出会えたって思ってるの」

 それは、矢田に対するアンサーだった。そして、俺に対しても。

「俺も、幸せだ」

 思いの丈を込めて、凪沙を強く抱きしめ返す。

 今日という日も、いつか、切り取られた懐かしい思い出になる。そのとき、俺たちはまた、今が幸せだと微笑み合っているだろう。





【ノスタルジックフレーム 完】
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