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奇妙なアルバイト

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 視聴覚室のドアを開くと、二人の女子生徒が中にいた。私が見回りを始めてから誰かがいたのは初めてのことだ。

「視聴覚室への出入りは禁止ですよ」

 一真が優しく諭すと、女子生徒は「ごめんなさいっ」と言いながらも、二人で顔を見合わせてキャーっと悲鳴をあげて視聴覚室を飛び出していく。
 悲鳴の理由はなんだろう。白夜くんと一真の並ぶ姿を見れば、誰もがそういった悲鳴はあげるのかもしれないが、私には無縁だ。

 女子生徒が腰かけていた椅子を、机に戻す。二人以外にも誰かいたのかもしれない。明らかに人為的に動かされている机を真っ直ぐになるように並べ直していく。
 ここへ来るまで白夜くんはひとことも話さず、今も不機嫌そうに腕を組んで、教室の後方に並ぶパーテーションの前に仁王立ちしている。

「ねぇ、白夜くんも手伝ってくれない?」

 勇気を出して声をかける。白夜くんは眉をぴくりとあげただけで、それ以外は微動だにしない。無視されることはわかっていたが、あからさまにそうされるとやはり傷つく。
 仕方なく一人で机を持ち上げると、ふっと軽くなる。見ると、一真が机の反対側を持ち上げていた。

「手伝ってくれるの? 本来は白夜くんがやることなのに」
「白夜様には他にやるべきことがあるので、それ以外のことは私がやります。これからはなんなりと私にお申し付けください」
「あきれるわ」
「ご理解くださいとは言いません」
「学生として、まして学級委員になったのだったら、時追急行の御曹司だかなんだか知らないけど、任せられたことは自分でやらないと。一真がやってることはただの甘やかしよ」

 憤慨して訴える私の言葉を一真は静かに聞いていたが、すぐにくすりと笑う。私の訴えなどくだらないことなのだ。まるで相手にされていない。

「美鈴様はさすがです」
「何が? 誰だって気づく当たり前のことよ」
「そうですよね。誰だってわかること。それをわからない世界に生きる方もいるのです。しかし、当たり前のことを当たり前なこととして白夜様を導く、美鈴様のような方が必要だと私は感じています」
「……一真の役目ね」
「いいえ、私は守ることが務めですから。叱る役目を果たしてくれる伴侶が見つかれば、安心なのですが」
「伴侶って……」

 思わず、白夜くんへ視線が向く。彼は私と目を合わせると、さらに不機嫌に目をそらす。感じの悪い人。率直に浮かぶのはそんな印象だ。

「それはそうと、美鈴様は橘安哉と婚約されているのですか?」

 唐突にその話を切り出され、ひるんでしまう。名前の呼び方をひどく気にした一真が、安哉くんのことを呼び捨てにしたのは違和感があったが、それよりも戸惑いの方が大きい。

「え……っと」
「気になりましてね。ぜひ詳しくお話し願えないでしょうか」

 ただの興味本位だ。そう言ったに等しいのに、不躾な言葉も一真が言えば、それほど嫌な気はしない。

 一真はためらう私に優しく微笑みかける。何かが瓦解する音が聞こえる。
 霧子も竜生も、限られた自由の中で、したいことをして気ままに生きている。私は与えられたレールの上を歩くことを使命のように感じていて、彼らのように生きようと思ったことはなかった。
 心が揺らぐ。一真ならわかってくれるかもしれない。そんな風に思って顔を上げたら、いつの間にか一真の横に白夜くんが移動してきていて、私を静かに見つめていた。

 胸が騒ぐ。なんだろう。白夜くんを目にすると、私の中の何かが騒ぎ出すのだ。初めての感覚に戸惑いながら、息を吐き出す。それはため息に似たものだ。なぜそんな息を漏らしてしまったのか、私にもわからない。

「話してみろ。誰にだって不都合なことはあるが、話して楽になることもある」

 私は驚く。それを言ったのが、白夜くんだったから。そして、その言葉がまるで呪文のように、私がずっと抑え込んできた頑なな思いをほどいていく。
 彼の強い瞳は私を見下すように冷たいのに、その奥に秘められた光に傲慢さはない。だから、私は話した。何かが変わるような気がして。

「私はずっとそういうものだと言われて、疑うことなく生きてきたの。そうすることが自然なことだから受け入れてる。だから婚約してるのかと聞かれたら、婚約してる、そう答えるしかないわ」

 そう答えたら、またため息が出た。
 私の中に生まれ始めた迷いが隠せなくなっているみたいだ。安哉くんとの結婚を疑うなんて、今まで一度もなかったのに。

「白夜様にもご婚約者はいます。しかし反故にすることができる関係でもあります。実際白夜様はご両親の思いなど考えもせず、お断りになってしまった。ご両親はさぞがっかりされているかとは思いますが、白夜様の決めたことならばと見守っておられる。美鈴様と橘安哉の関係はそのようなものでしょうか?」

 一真がそう言うと、白夜くんは不服そうに眉を寄せた。彼の事情を一真が話すだなんて思っていなかったのだろう。
 今まで話をしたこともなかったのに、こんなに私的な話をしている不可思議さを感じながらも、一真の雰囲気に飲まれていく。

「婚約解消も出来るかと聞いているの?」
「ええ、そうです」

 一真は怖いぐらい爽やかな笑顔で、とんでもないことをさらりと言う。

「……そんなこと、考えたこともないの」
「橘安哉がお好きなのですね?」
「好き、……嫌いじゃないわ。兄弟みたいに育ってきたの」
「それでは、私と白夜様との関係と同じ様なものですね。当たり前のように一緒にいるので、私も白夜様の至らないところは気になりません」
「結婚を迷う相手でないことは確かよ」
「なのに迷っておられる?」
「……わからないわ」

 わからないというより、迷いがある、だなんて言葉にする勇気がない。

「ご婚約はどのようないきさつで? 私の知るところでは、河北家と橘家の間に政略結婚は必要ないと感じますが」
「政略結婚ではないの。しきたり……、みたいなものっていうのか」
「しきたり、ですか。差し支え無ければ伺っても?」

 一真は貪欲に私のことを知ろうとする。

「どうしてそんなに知りたいの?」

 そう問いかけた時、一真はハッと何かに気づいたように視聴覚室のドアを振り返る。

「面倒な人が来そうです。白夜様、美鈴様を連れてパーテーションの奥へ。私が戻るまで動かれないよう」
「パーテーションの奥……?」

 一真は首を傾げる私の背中を押す。白夜くんは不満げだったが、一真に急かされて仕方なさそうにパーテーションに向かう。

「部屋になってるの?」

 壁面に並んでいるだけだと思っていたパーテーションを一真がずらすと、その先に広くはないがスペースが現れる。
 一真は無言で私と白夜くんを中へ押し入れると、外側からパーテーションを閉じた。
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