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しきたりと願い

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 美鈴を見送りに出た一真は、程なくして戻ってきた。
 お茶会をしようなんて提案してきた一真には手を焼いたが、実際美鈴と過ごした時間は心地よく、彼女の帰った後の庭園はどこか殺風景になる。
 彼女はそこにいるだけで目を惹く美しさがある。それは決して華美なものではないのに、存在感のある清潔感に満ちた美で。俺はつい彼女を見つめることを躊躇してしまうのだ。

「もっといて欲しかったですねー」

 一真はひどく残念そうに言いながら、テーブルの上を片付けようとする。

「たまには一真も飲んだらどうだ?」

 一真に椅子を勧める。彼は俺のお目付役だが、それは強制されたものであってはならないはずだ。

「よろしいのですか? では、お言葉に甘えまして」

 嬉々とした一真は紅茶を淹れ直すと、卒のない仕草でその香りを楽しむ。
 ここに美鈴がいなくて良かったなどと安堵する自分がいる。一真は美鈴が好きそうな潔癖感のある優雅な男だ。ライバルになりえるとしたら、一真だけだ。そんな風に考えてしまう自分がおかしくもあるが。

「美鈴はアルバイト代、受け取ったか?」
「ええ、かなり迷っておられましたが、受け取らないと私が叱られると言いましたら、渋々受け取られました」
「ある種の脅しだな」
「話をしているだけですからねー。そう思うのは美鈴様の優しい人柄でしょう。しかし、そういう名目があった方が、後々面倒が起きなくていいのではありませんか?」
「安哉か。確かに、面倒そうだな」

 思わず苦笑いしてしまう。美鈴が毎週俺に会いに来てるなどと知ったら、安哉の怒りは想像を絶するものになるだろう。

「しかし、今日は実のある話は出来なかったな」
「そうでしょうか。美鈴様はずいぶんと白夜様の生い立ちに深い感銘を受けられていたように感じました。もちろん、同情ではありませんよ。白夜様は自由を与えられているように感じたのかもしれません。その感情を表すとしたら、憧れでしょうか」
「憧れるような人生ではないけどな」

 内心、苦笑いしてしまう。

「美鈴様はしきたりで結婚を。橘安哉は同じ立場であり、友人の彩斗美様もまたあれほど歴史ある大きな神社の跡取りですからねー、決して自由ある身ではございません。そのような事情を抱えた者たちが多い学校であることは否めませんから、白夜様が閉鎖的と感じるのもわかります。彼らからしたら、白夜様はやはり自由を得ているのだと思いますよ」
「なるほど。一真も呼結で育ったその一人だな。あいつらの気持ちを俺よりは理解できるんだろう」

 一真が堀内家に仕えることになった経緯は、父親の知人として縁のある名門家の生まれであったからに他ならない。幼少の頃から彼は俺の遊び相手だったし、良き相談相手でもあった。
 だから、一真と同じ高校に行くと決めた時は、それなりに高校生活を楽しみにしていたのだ。

「一真はどうだっただろう」
「何がです?」
「俺に仕えることを違和感なく受け入れたなんて、本当は信じ難いんだ。一年を棒に振ることになって、さぞかし悔しい思いをしたんじゃないか?」
「白夜様は一つだけ思い違いをされています。確かに白夜様のお父様にもう一年を高校で過ごすように言われはしましたが、それは強制ではありませんでしたよ? 私が自ら望んで選んだ道です。大学へは白夜様と共に参ります。それが私の生きる道ですから」

 一真はやけに胸を張る。自信に満ちた男だ。

「それを判断するにはまだ早いだろう」
「いいえ、その点においては一点の曇りもない私の決意です。信じてついて参りますから、白夜様も私を信じてください」
「そのかたくなな決意がどこから現れたのか不思議だが、まあ、俺はずっと一真のことは親友だと思ってるよ」

 そう言うと、一真はひどく嬉しそうににこにこと微笑む。

 気に入られていることに悪い気はしないが、彼の期待に応えなければならないプレッシャーも同時に感じる。
 計算づくの笑顔だろうか、などと、うがった見方をしてしまうこともあるが、やはり行き着く先は俺も一真を信頼しているのだという思いだ。
 だから安易に俺は一真に聞ける。誤解されるはずもない心を見せることができる。

「美鈴は明日も来るのか?」
「おや、楽しみにしておられるのですね。残念ですが、明日は時間がないようです。何かあったのかもしれませんね」

 一真のからかうような眼差しにも慣れた。否定も肯定も必要がないぐらい、彼は俺の心を理解している。

「マドレーヌをやけに気に入っていたからな、また作ってもらえるように頼もうかと考えていただけだ」
「手土産はお渡ししましたよ。妹様と弟様が喜ぶだろうと、嬉しそうにしておられました」
「そうか、一真は用意がいいな」
「次回はまた別のお菓子をリクエストされては? 甘いものがお好きなようでしたから」
「そうだな」

 素直にうなずくと、一真はそっと笑う。

「何がおかしい?」
「おかしいのではありませんよ。微笑ましく思っているのです。これはまるでデートですね」
「デートかどうかは相手の考え方次第だと美鈴も言ってただろう。彼女はそんな風に思ってここへ来てるわけじゃないさ」
「どうであれ、有意義なひとときでした」

 一真は満足げにそう言うが、俺の中には気にかかることもある。

「あれから美鈴はどうなんだろう。美鈴に取り憑いた妙な女の話は聞けなかったな」
「さあ、どうでしょう。このところ白夜様の身にも何も起こりませんね。しかし、それは黙っておいた方が良いかもしれません。美鈴様がここへ来る目的を失ってはいけませんから」

 不純な目的を一真は掲げていた気はするが、と苦々しく思う。

「騙してるみたいだな」
「騙してなどいませんよ。事が起こらないだけで、解決したわけではありませんから。今日はそういった話に縛られず、穏やかに過ごせたことが収穫でした。長く暮らしていくためには、こういった何でもない時間を穏やかに過ごせる相手でなければなりませんからね」
「長くってな……」

 俺たちの気持ちを置き去りにした戦略には、あきれてしまう。

「白夜様も思い切ってプロポーズされたらどうです? お付き合いされたら、やはりそれは意識しなくてはなりません」
「勝手なことばかり言うな。それじゃ、安哉と変わらないだろ」
「お優しいですね、白夜様は。そんなところが好きですよ、私は」
「だから好き、とか簡単に言うな。何度も言わせるなよ」
「美鈴様にでしたら、何度言われても怒らないのでしょうねー。ああ、うらやましい限りです」
「一真っ!」

 怒鳴りつけるが、一真は素知らぬふりでティーカップを口元へ運び、「良い日でしたねー」と遠い目で空を見上げる。俺はその横顔を見ながら、知らずため息をついた。
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