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しきたりと願い
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そう声をかけると、美鈴は待たされたことを責めるでもなく、安堵した様子で俺の方へとやってくる。
「ソファーに座ってろ。すぐに淹れる」
「白夜くんでもそういうことするのね」
意外そうな表情をする美鈴に苦笑いする。
一真がいる時は、飲み物の用意は好んで世話を焼く彼に任せている。しかし、普段は自分で用意しているのだ。
「……ムスク。香水の匂い、すっかり消えたのね」
美鈴はソファーへ腰を静かに下ろすと、辺りを見回して言う。
「ああ」と俺は短い返事をして、彼女に背を向けたまま紅茶を注ぐ。
「あの香り、好きだったの。だって、あなたの香りだったもの。あの香を焚き染めて私に会いに来てくれるの、ずっと楽しみに待っていたのよ」
「美鈴?」
彼女の言葉をいぶかしく思いながら振り返る。美鈴は変わらずソファーに座っていた。姿も声もいつもと何一つ変わらない。しかし、様子が変だ。
その違和感が何であるかは、彼女の瞳を見つめて気づく。美鈴はこんなに艶やかな眼差しで俺を見つめたりしない。
「どうして心変わりしたの? 私はずっとあなたを、あなただけをお慕いしていたのに……」
「何の話だ」
「あなたは全てを忘れて幸せな人生を繰り返して来たのね。だから、私のことなんて忘れてしまえる……」
美鈴に近づき、手を伸ばす。彼女は微動だにせず、俺を見つめ返す。
さらさらとした綺麗な黒髪に指を通す。彼女はそっとまぶたを落とし、長いまつ毛を揺らす。そして、俺の手のひらに身をゆだねるようにほおをすり寄せてくる。
美鈴なら驚いて逃げ出すだろう。彼女は俺に触れられることを好まない。しかし、今の美鈴は俺の手を受け入れている。
「美鈴じゃ、ないな」
手を引こうとした。しかし、俺の腕をつかんだ彼女によってそれは妨げられる。
「この身体は私のものよ。それは、あなたのものでもあることを意味しているの」
眉をひそめる。美鈴であり、美鈴ではない彼女の意識の中に、美鈴がいない気がした。
「美鈴は、どうした」
焦燥感が生まれる。俺と一真は誤った道を選んだんじゃないのかと。
「私は美鈴よ。でも……、そうね。あなたの知ってる私は今は眠っているの。かつての私を知ってるあなたが、あなたの中で眠っているように」
「かつての美鈴とは何だ。それを知ってる俺とは」
「もう千年も経つそうよ……。私、千年もあなたに会えずにいたの。私が奇子だった頃、あなたは私を愛していたのよ。それはとてもとても深く……情熱的に……」
「奇子……? そんな女は知らない」
「記憶がないだけよ。忘れているだけ。あんなに愛し合っていたのに、忘れてしまうのは簡単ね……」
ソファーの前でひざをつく俺の首に、奇子は両手を伸ばす。
「もう治ったのね」
細い指先で鎖骨の上をそっと撫でていく。
「おまえか。おまえが首を……」
「私じゃないわ」
奇子は強く首を振り、否定する。
「いつも心配だったの。あなたが苦しい思いをしているんじゃないかって心配していたの。だから、何度もここを訪れたのに、中へは入れなくて……。あなたに会うことも叶わなかった……」
「何度も来た?」
「そうよ。めいいっぱいのおしゃれをして来たのに……」
奇子は俺の首に両腕を回して抱きついてくる。落ち着ける匂いに包まれる。これは香水ではなく、美鈴の香り。
突き放さなければ。そう思うのに、彼女の背中に回した手は行き場を失う。
「ずっとあなたを愛してるの。あなたの裏切りを憎んではいない。だから、お願い。私を愛して……」
甘い吐息が吐き出されると共に、奇子の唇がそっと俺の首筋に這う。
どくりと心臓が音を立てる。
これは美鈴ではない。そうわかっているのに、俺はまだ突き放すことが出来ない。
「奇子……」
「ああ……、嬉しい……」
奇子は俺の両頬に指を這わせ、目を細める。愛しげに俺を見つめる。俺が名を呼んだ。たったそれだけのことが、彼女にとって大きな喜びだと知る。
「私は奇子よ。美鈴は眠るの。不完全だった私たちはようやく一つになり、思いを遂げるのよ」
「……何を」
「あなたの顔も好きよ。愛せるわ……」
奇子が俺の顔を引き寄せる。そのまま顔を近づけてくる。
俺を見つめる、ほおを上気させた彼女が可愛らしくて、愛おしい気持ちが膨らむ。
美鈴が慈しむ眼差しで俺を見つめてくれたら、俺を好きだと言ってくれるなら、俺がその思いを拒む理由などなく。
「あ……、だめだ……」
「白夜、愛してるわ……」
近づく彼女のほおを押さえる。突き放そうとするのに力が入らない。
「あなたは今でも私を愛しているのよ」
そうだ。俺は美鈴を愛している。一目惚れだった。独占したい気持ちを抑えながら生きてきた。
美鈴は俺と関わることなく生きていく女だ。その直感だけが、俺を制御していた。
「いいのよ。抱いて……、白夜。かつてそうしていたように、私を強く抱いて……」
奇子の身体が傾く。ソファーへと仰向けになり、俺の腕を引く。扇状に広がる髪や、俺をうっとりと見上げる瞳が艶かしくて、彼女への情熱を抑えることは無理に思えた。
美鈴……と、心の中で彼女の名を呼ぶ。目覚めてくれ、でないと俺は……。
奇子の両腕が俺の背中を引き寄せる。やっとの思いで抑制している理性が壊れていきそうだ。そして俺は、導かれるままに彼女の上へと被さった。
「ソファーに座ってろ。すぐに淹れる」
「白夜くんでもそういうことするのね」
意外そうな表情をする美鈴に苦笑いする。
一真がいる時は、飲み物の用意は好んで世話を焼く彼に任せている。しかし、普段は自分で用意しているのだ。
「……ムスク。香水の匂い、すっかり消えたのね」
美鈴はソファーへ腰を静かに下ろすと、辺りを見回して言う。
「ああ」と俺は短い返事をして、彼女に背を向けたまま紅茶を注ぐ。
「あの香り、好きだったの。だって、あなたの香りだったもの。あの香を焚き染めて私に会いに来てくれるの、ずっと楽しみに待っていたのよ」
「美鈴?」
彼女の言葉をいぶかしく思いながら振り返る。美鈴は変わらずソファーに座っていた。姿も声もいつもと何一つ変わらない。しかし、様子が変だ。
その違和感が何であるかは、彼女の瞳を見つめて気づく。美鈴はこんなに艶やかな眼差しで俺を見つめたりしない。
「どうして心変わりしたの? 私はずっとあなたを、あなただけをお慕いしていたのに……」
「何の話だ」
「あなたは全てを忘れて幸せな人生を繰り返して来たのね。だから、私のことなんて忘れてしまえる……」
美鈴に近づき、手を伸ばす。彼女は微動だにせず、俺を見つめ返す。
さらさらとした綺麗な黒髪に指を通す。彼女はそっとまぶたを落とし、長いまつ毛を揺らす。そして、俺の手のひらに身をゆだねるようにほおをすり寄せてくる。
美鈴なら驚いて逃げ出すだろう。彼女は俺に触れられることを好まない。しかし、今の美鈴は俺の手を受け入れている。
「美鈴じゃ、ないな」
手を引こうとした。しかし、俺の腕をつかんだ彼女によってそれは妨げられる。
「この身体は私のものよ。それは、あなたのものでもあることを意味しているの」
眉をひそめる。美鈴であり、美鈴ではない彼女の意識の中に、美鈴がいない気がした。
「美鈴は、どうした」
焦燥感が生まれる。俺と一真は誤った道を選んだんじゃないのかと。
「私は美鈴よ。でも……、そうね。あなたの知ってる私は今は眠っているの。かつての私を知ってるあなたが、あなたの中で眠っているように」
「かつての美鈴とは何だ。それを知ってる俺とは」
「もう千年も経つそうよ……。私、千年もあなたに会えずにいたの。私が奇子だった頃、あなたは私を愛していたのよ。それはとてもとても深く……情熱的に……」
「奇子……? そんな女は知らない」
「記憶がないだけよ。忘れているだけ。あんなに愛し合っていたのに、忘れてしまうのは簡単ね……」
ソファーの前でひざをつく俺の首に、奇子は両手を伸ばす。
「もう治ったのね」
細い指先で鎖骨の上をそっと撫でていく。
「おまえか。おまえが首を……」
「私じゃないわ」
奇子は強く首を振り、否定する。
「いつも心配だったの。あなたが苦しい思いをしているんじゃないかって心配していたの。だから、何度もここを訪れたのに、中へは入れなくて……。あなたに会うことも叶わなかった……」
「何度も来た?」
「そうよ。めいいっぱいのおしゃれをして来たのに……」
奇子は俺の首に両腕を回して抱きついてくる。落ち着ける匂いに包まれる。これは香水ではなく、美鈴の香り。
突き放さなければ。そう思うのに、彼女の背中に回した手は行き場を失う。
「ずっとあなたを愛してるの。あなたの裏切りを憎んではいない。だから、お願い。私を愛して……」
甘い吐息が吐き出されると共に、奇子の唇がそっと俺の首筋に這う。
どくりと心臓が音を立てる。
これは美鈴ではない。そうわかっているのに、俺はまだ突き放すことが出来ない。
「奇子……」
「ああ……、嬉しい……」
奇子は俺の両頬に指を這わせ、目を細める。愛しげに俺を見つめる。俺が名を呼んだ。たったそれだけのことが、彼女にとって大きな喜びだと知る。
「私は奇子よ。美鈴は眠るの。不完全だった私たちはようやく一つになり、思いを遂げるのよ」
「……何を」
「あなたの顔も好きよ。愛せるわ……」
奇子が俺の顔を引き寄せる。そのまま顔を近づけてくる。
俺を見つめる、ほおを上気させた彼女が可愛らしくて、愛おしい気持ちが膨らむ。
美鈴が慈しむ眼差しで俺を見つめてくれたら、俺を好きだと言ってくれるなら、俺がその思いを拒む理由などなく。
「あ……、だめだ……」
「白夜、愛してるわ……」
近づく彼女のほおを押さえる。突き放そうとするのに力が入らない。
「あなたは今でも私を愛しているのよ」
そうだ。俺は美鈴を愛している。一目惚れだった。独占したい気持ちを抑えながら生きてきた。
美鈴は俺と関わることなく生きていく女だ。その直感だけが、俺を制御していた。
「いいのよ。抱いて……、白夜。かつてそうしていたように、私を強く抱いて……」
奇子の身体が傾く。ソファーへと仰向けになり、俺の腕を引く。扇状に広がる髪や、俺をうっとりと見上げる瞳が艶かしくて、彼女への情熱を抑えることは無理に思えた。
美鈴……と、心の中で彼女の名を呼ぶ。目覚めてくれ、でないと俺は……。
奇子の両腕が俺の背中を引き寄せる。やっとの思いで抑制している理性が壊れていきそうだ。そして俺は、導かれるままに彼女の上へと被さった。
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