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名を刻む儀式

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「昨夜も現れませんでしたねー、夢の女性は」
「ああ、そうだな」

 朝食を終え、自室に戻ってきた俺は、ソファーへ腰を下ろす。足を組み、新聞を開く。その横で、食後の紅茶の用意を始めた一真が、少々落胆したように話す。

「もしかするとですが、私がいる時は現れないのではないでしょうか」
「ん? どういうことだ」

 新聞から顔を上げる。いつもと変わらない休日の始まりかと思っていたが、一真は何か思うところがあるようだ。
 仕方なしに新聞を閉じると、一真はさらに口を開く。

「見えるからですよ、私には。警戒しているのかもしれません。美鈴様に取り憑いた女性も、私がいない時に現れましたでしょう」
「あ、ああ、そうだったな。一真は霊にも嫌われてるのか。いったい誰ならおまえを好いてくれるんだろうな」

 茶化してみるが、一真は意外そうに眉をあげて、嫌味なぐらい美しく微笑む。

「私は白夜様のお側においていただけるだけで幸せですよ」
「おまえはまたそういうことを……。で、それがわかったところでどうするつもりだ?」

 コホンとわざとらしく咳払いし、話をそらす。結局、一真の鼻を明かせない。

 一真の差し出すティーカップを受け取り、一口飲む。ダージリンの強い香りと共に渋みが口の中に広がり、頭をスッキリとさせる。

「一真は紅茶を淹れるのがうまいな」
「お褒めに預かり光栄です。白夜様が淹れてくださる紅茶も美味しいですよ。今度ぜひ美鈴様に淹れてさしあげては?」
「まあ、機会があればな」

 そう言葉を濁すと、一真は思わぬ厳しい声を上げる。

「美鈴様と二人きりになる機会は自ら作らねばなりません」
「……急にどうした。今日は休みだというのに、やけに気合いが入っているな」
「悠長に美鈴様と過ごすのも幸せではありますがね、やはりこのままというわけにもいきません。二人きりになれば、美鈴様に取り憑いた女性、あわよくば、夢の女性も姿を現わすかもしれません」

 昨日は美鈴が来た。何でもない平凡な時間を穏やかに過ごせる相手は大切だと力説したばかりではなかったか。一真はマイペースに俺を振り回すのが得意だ。

「そんなことをして、もし現れたらどうする。解決できるのか? 除霊はできないんだろう?」
「私にはできません」

 しれっと一真は受け流し、話を勝手に進める。

「さて、美鈴様に取り憑いた女性ですが、彼女は白夜様を慕っているようでしたねー。どうでしょう、あの取り憑きを利用されては」
「利用する?」
「ええ。美鈴様は最近、白夜様に好意的だとは思われませんか? それがあの取り憑きのせいだとしたら、祓ってしまっては美鈴様が離れてしまうかもしれません。ですから、その前に確かめるのです」

 何を言い出すのかと、警戒してしまう。

「確かめるって、何をだ」
「美鈴様の気持ちをです。あの取り憑きを呼び起こし、尋ねてみるのです」
「は……、尋ねる? 相手は幽霊だぞ」
「話はできるようでしたよ。美鈴様は容易に自分のお気持ちは話されない方ですからねー。あの取り憑きなら何か知っているかもしれません。白夜様に好意的な彼女のことです、白夜様のためならばと奮闘するはずです」

 唖然とする。一真は美鈴の気持ちを、彼女の取り憑きから知ろうなどと言うのだ。

「そんなことが可能か? 例え出来たとしても、美鈴は心を勝手に覗かれたことを不満に思うはずだ」
「糸口を探すのです。目的はそれだけですよ。橘安哉と結婚したくない。もしそのような思いを抱いているのならば、我々は大いに動くことが出来ます」
「そんなことなら、美鈴に直接聞けばいい」
「はっきりとはおっしゃいませんよ、美鈴様は。それにあの取り憑きはいずれなんとかせねばなりません。度々現れるのでは、美鈴様にとっていい状態ではないでしょうから。呼び出す方法さえわかれば、しかるべき除霊師を呼び、対処しましょう」

 一真は冷淡だ。得たいものを得るためなら、手段を選ばないのだ。しかし、正攻法ではない。そのやり口に俺は抵抗感がある。

「……利用するだけ利用して、最後は除霊するのか。おまえは涼しい顔して、とんでもないことを言い出すな」
「所詮、霊ですよ。彼女も成仏できずに苦しんでいるかもしれません。これは人助けですよ、白夜様。魂はあるべき場所にあるべき形で還るべきなのです」

 そう言い放った一真の言葉を承諾したつもりはなかった。一真にはそういう考えがあるのだと、頭の片隅で気に留めておこう。その程度の会話としてすますつもりだった。

 それなのに、俺はすっかり一真のペースに飲まれ、彼の思うように動いてしまった。後悔なんてものではない。俺は大きな過ちを犯したのだ。
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