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真実と終わる恋

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 俺の心に付け入ろうとする奇子は、隙を見逃さない。心なしか、卯乃の声が大きくなる。まるで奇子に囚われそうになる俺の心を呼び戻すかのように。

「いいのよ、好きにして……。お互いが求めるものをどうして拒む必要があるの」

 それは橘白夜への思いか。お互いに惹かれながらも、その立場ゆえに結ばれなかった。しかし、奇子は口先では納得していても、心の底から納得できた日などなかったのだろう。

「あの日に戻りましょう。今からでも遅くはないの。だって私はこの身体を手に入れることが出来たのだから」

 奇子が俺の手に触れようとする。俺が触れたくて、触れたくてたまらなかった繊細な指で。しかし、俺はその手をはねのける。

「俺は、求めてなどいない」
「白夜……」
「俺が求めているのは……、美鈴だけだ」

 奇子の表情が悲しみに歪む。奇子であり奇子ではない美鈴は、彼女にとって他の女だ。

「美鈴の身体は諦めろ。おまえを愛した橘白夜はもうこの世にはいない。探し求めるだけ無駄だ。橘白夜は奇子を捨てた」
「いや……、やめて。聞きたくない……」

 奇子は耳に手を当て取り乱す。だだをこねる子供のように身体を揺する。

「奇子は知らないことがある」
「やめて……」
「聞け、奇子。そうしなければいけなかったからだ。そうしなければ、……どちらにしろ、二人で命を落としたかもしれない」

 拒絶する彼女の肩をつかむ。目を合わせる。涙に濡れる瞳は美鈴のもの。俺もいつかこうして美鈴を泣かせる日が来るのだろうか。
 いや、そんな日は来ない。断言する。だから俺は言う。

「橘白夜は奇子を愛していた。死ぬその時まで、奇子を忘れたことは一度もない。無念だったのは橘白夜も同じだ。だが、彼はどこにも思いを残さず逝った。彼は幸せだったんだ。奇子を想い、死んでいけることが幸せだったはずだ」

 それを許した妻がいた。橘白夜はどれほど幸せだっただろう。

「俺は橘白夜とは違う。二人の女を愛することは出来ない。だから俺に返してくれ。俺が愛するのは、美鈴ただ一人だ」

 ばかもの。卯乃がそうつぶやいたように聞こえたが、奇子は俺の胸に伏し、さめざめと泣いていた。

「もう十分苦しんだんだ。許してやれ……自分も、橘白夜も」

 奇子を抱きしめる。これが最後だ。美鈴の身体を奇子として抱きしめるのは……。

 次第に奇子の涙も枯れていく。気づいてくれただろうか。奇子の愛した橘白夜も、奇子を愛する橘白夜ももうここにはいないということに。

「力を貸してくれ、奇子。奇子が千年前に置いてきた魂に、橘白夜の想いを届けたい」

 奇子は目元に指を当て、涙をぬぐう。そうして顔を上げた時には、凛とした眼差しに変わっていた。その視線は俺を通り過ぎ、卯乃に向けられる。

「卯乃、……いいえ、伊予。あなたには悲しい思いをさせたわ。でもね、あなたがいたから白夜に会えたのよ。私はいつでも美鈴と共にいる。伊予の知る私はもういないけれど、美鈴に私の面影を見るのよ。私を忘れないで……ねぇ、卯乃」

 卯乃はゆっくり立ち上がり、奇子の前へと進み出る。

「いつでも、いつでもそうしておりましたよ」
「ええ、そうね。あなたは神社では私を自由にしてくれた。それももう終わりにするわ。だってもう、白夜を苦しめたくないもの」
「そうだの、お別れだ」
「卯乃……」

 奇子は卯乃の手を取る。そっと重ねる手から互いを思う心が溢れるようだ。

「逃げては……いけなかったわね……」
「愚かなことをした。それがわかっておるなら、もう良い」
「次は幸せになれるかしら……。美鈴は責任感が強いから……」
「奇子様によく似て一途だ。ただ間違いはせぬよ。何も心配はいらぬ」
「そうね……、白夜が好きになった娘なんだもの。少し複雑よ。美鈴は私だけど、私ではないんだもの」
「だからこそ生まれてきたことに意味がある。あまりいたずらが過ぎぬよう、美鈴の人生を見守るのだ。さあ、始めようかの。白夜を救うは奇子様の力」
「私にしかできないことがあったわ」

 奇子は喜ぶように微笑んだ後、卯乃から離れる。彼女が両手を広げると、周囲は緊張感に満たされていく。
 奇子はそっと胸の前で手を組み、スゥーっと深く息を吸い込む。

「神よ」

 静かだが、凛とした張りのある声が奇子の口から漏れる。そして、俺の中に念じる声が響いてくる。

___神よ、白夜に苦痛を与える奇子の霊体を大いなる光に導きたまえ。

 奇子はゆっくりとまぶたを閉じたきり、微動だにしない。

 俺は見守るしか出来ない。しかし、見守ることが許されているのだと思えば、美鈴の無事を強く祈ることが出来る。
 空気が変わったのを俺はいつしか感じていた。周囲が明るくなる。しかし同時に奇子の気配が去っていくのも感じていた。

「奇子……」

 つぶやいた途端、緊張の糸が切れたかのように美鈴の体が揺らぐ。

「美鈴っ!」

 俺は叫び、美鈴へと腕を突き出す。ひとたび彼女に触れたら、もう二度と離すことはないだろう。
 指先が美鈴に触れる。彼女の身体はそのまま、腕の中へ吸い込まれるように崩れ落ちてきた。
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