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番外編:有村七江は覗かれたい(3)
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「……あはは、ごめんね、暗い顔をしちゃって」
食欲は失せていたが、無理矢理にでもお弁当を口の中に押し込んだ。
落ち込んでいるせいか自然と思考が暗い方向に流れてしまう。
「ママに心配を掛けちゃってだめだね。でも、わたしは……この寂しさをずっと忘れたくないよ。ママが居ないのが当たり前になるなんて嫌だもん」
もう二度と立ち直れないのではないかと思っていた。
でも平気な顔をして学校に通えるようになって、ママのことを思い浮かべても泣くことがなくなった。
心の中からママの存在がどんどん希薄になっていく。
必死に抱え込んでも思い出が零れ落ちていく。
そしてふとした瞬間、心の底から笑えるようになった自分に気付く。
「ずっと嫌だと思ってたのにね」
わたしは潤んだ目元を拭う。
隣に居る人を思い浮かべると、それがママから佐藤くんに入れ替わっていた。
どれだけ思い出にしがみついていても時間は流れていく。
変えたくないものも変わってしまう。それは人の心も同じだった。
「実はね、中学で友達になった麻美ちゃんと荒谷くんが付き合い始めたんだ。麻美ちゃんはずっと片思いだったんだって。わたしも荒谷くんと仲が良かったからきっとたくさん不安にさせちゃったと思うんだ……ママにはこういう話をするのは初めてだよね。えっと、秘密にしていたんじゃなくて、誰かを好きになるってわたしには本当に分からなかったの。ううん、怖かったのかも」
好きな人ができてようやくパパの気持ちを少しだけ分かった気がする。
もう二度と会えない人を想い続けるのは余りにも苦しくて、心の隙間を埋めてくれる人に縋りたくなってしまう。
それにあの人が自分の気持ちに嘘を吐けず、パパと再婚を望んだのも今ならどうしようもないことなんだって分かる。もちろん気持ちの整理がついたかどうかは別だけど、心無い悍ましい侵略者には見えなくなった。
「誰かを好きになると物凄い力が湧いてきて、そのせいで傷付けたり、傷付けられたり……そんな姿を見てきたから、臆病になってたんだ」
これまで何度か告白を受けた経験はあったけど、恋人という関係を想像できなくて断ってきた。
友達と一緒に過ごすのと何が違うのだろう。
将来の結婚を誓うこと? えっちなことをすること?
手段なのか、目的なのか、そんなふうに難しく考え過ぎていたのかもしれない。
だって佐藤くんのことを気になり出したら、もう何もかも吹き飛んでしまったから。
「これから話すのは、本当に秘密にしていたこと。ママに話したら……わたしの中でママよりも大きくなるのが怖くて……でも、もう大丈夫」
わたしは暗い記憶から抜け出して、自然と笑顔を浮かべられた。
「好きな人ができたの」
あれはまだ銀杏の木が美しく黄葉していた頃の出来事だった――
*
その日の放課後は美化委員の活動があった。
本来は単位不足の生徒や問題を起こした生徒に対する罰として与えられる作業であり、美化委員のメンバーも任意参加なのだが、放課後の時間を持て余していたわたしは、伊藤先輩に誘われて定期的に参加していた。
あの人と顔を合わせるのが気不味くて、家に帰るのをできる限り遅らせたいわたしにとっては、まさしく渡りに船だった。
先輩には家庭の事情を少し打ち明けていたので、もしかしたらわたしの気持ちを察して誘ってくれたのかもしれない。
冗談ばかり口にしてひょうひょうと振る舞っているけれど、こういう時はさり気なく気遣ってくれる優しい先輩だ。
「そんな面倒な仕事バックレちまえよ」
教室を出ようとした時、荒谷くんと麻美ちゃんに呼び止められた。
「うーん、そうはいかないよ」
麻美ちゃんが荒谷くんにジト目を向けた。
「なにー? 荒谷くんもナナちゃんと一緒に働きたいの?」
「そうだったの? 人手不足だからいつでも歓迎だよー?」
麻美ちゃんと一緒になって悪戯な笑みを浮かべると、荒谷くんをうげーっと舌を出した。
「嫌だね、さっさと帰らせてもらうぜ。でもまあ有村も、マジでだるいなら俺から先輩に言ってやるぞ」
「ふーん、随分と優しいじゃん」
「……おい、遠藤はなんでそんな突っ掛かってくるんだよ」
「あはは、二人共、気を付けて帰ってね」
「ナナちゃんも遅くなるなら気を付けてね」
「うん、また明日ー!」
麻美ちゃんと荒谷くんが昇降口に向かうのを手を振って見送った。
二人に背を向けて廊下を正反対に進む。
ちらりと振り返ってみたが、もう二人の姿は見えなくなっていた。
「なんだかちょっと寂しいな」
麻美ちゃんと荒谷くんは中学の頃に比べて派手になった。
こっそりピアスを付けたり長期休暇に髪を染めたり、遊ぶ場所や遊び方も少しずつ大人に近付いて、わたしは付いて行けないことがある。
今でも大切な友達だけど、どうしても一緒に居るとズレを感じてしまう。
だから放課後の時間潰しに友達と遊ぶのではなくて、委員会の活動を選ぶようになってしまった。
「あっ……体操着を忘れてた」
教室を出る時にロッカーから体操着を取り出すつもりだったが、途中で荒谷くんに呼び止められてすっかり抜け落ちてしまった。
慌てて廊下を引き返して教室に戻る。
教室には誰も残っていなかった。
「最後に出たのは誰だろう? 電気が付けっぱなしになってる」
スイッチに手を伸ばしたところで、机の上に鞄が置かれているのに気付いた。
「確かあの席は……あれ?」
教室前のベランダにまだ誰かが残っているの見付ける。
窓を開いて身を乗り出して、ベランダに居たクラスメイト――佐藤くんに呼び掛けた。
「佐藤くん、教室の電気、消しちゃって大丈夫?」
肩が揺れたので聞こえている筈なのだが、まるでそこだけ時間の流れがゆっくりになっているように、佐藤くんはなかなかこちらを向いてくれなかった。
ようやく目が合っても、ぼんやりとした表情からは感情を読み取れなかった。
「ああー……うん、大丈夫」
「分かった! それじゃあ消しとくね!」
「ありがとう」
返事を聞いてすぐに教室を後にしようと思ったが、これは佐藤くんと話す良い機会だと思い直す。
一年の頃からクラスメイトとしてずっと同じ教室で過ごしてきたのだが、佐藤くんのことをほとんど知らなかった。
孤高というほど存在感はなく、孤立と言うにはクラスに馴染んでいる。
いじめを受けている様子はないし、コミュニケーションを拒否している雰囲気もない。
それでもただいつも一人だった。
昔からクラスをまとめる立場によくなっていたので、なんとなく佐藤くんからは距離感を調整している気配を感じ取れた。
意識して付かず離れず目立たないポジションを維持しているようだった。
その行動にどんな意味があるのかは分からないけど、誰かの中にしか自分を見付けられないわたしにとって、一人で居るのに確かな自分を持っている佐藤くんの存在はずっと気になっていた。
でも目立ちたくないという気持ちが伝わってくるのに、それを無視して佐藤くんに声を掛けるなんて無神経な真似はできなかった――それもこれまでの話だ。
(……佐藤くんはどうしてわたしを見るようになったの?)
わたしが何も言わずに立ち去らないので、佐藤くんは気不味くなったのか目を逸らした。
これまでずっと一人を貫いていたのに、何があってわたしに興味を持ったのだろうか。
学校に居る時、ふとした瞬間、佐藤くんの視線が感じられるのだ。
他の男子が向けてくる邪な視線と同じような意図も含んではいるけど、それ以上に警戒や監視の意図を感じる鋭い視線だった。
――ここから佐藤くんとわたしの“覗き合い”が始まったのだ。
食欲は失せていたが、無理矢理にでもお弁当を口の中に押し込んだ。
落ち込んでいるせいか自然と思考が暗い方向に流れてしまう。
「ママに心配を掛けちゃってだめだね。でも、わたしは……この寂しさをずっと忘れたくないよ。ママが居ないのが当たり前になるなんて嫌だもん」
もう二度と立ち直れないのではないかと思っていた。
でも平気な顔をして学校に通えるようになって、ママのことを思い浮かべても泣くことがなくなった。
心の中からママの存在がどんどん希薄になっていく。
必死に抱え込んでも思い出が零れ落ちていく。
そしてふとした瞬間、心の底から笑えるようになった自分に気付く。
「ずっと嫌だと思ってたのにね」
わたしは潤んだ目元を拭う。
隣に居る人を思い浮かべると、それがママから佐藤くんに入れ替わっていた。
どれだけ思い出にしがみついていても時間は流れていく。
変えたくないものも変わってしまう。それは人の心も同じだった。
「実はね、中学で友達になった麻美ちゃんと荒谷くんが付き合い始めたんだ。麻美ちゃんはずっと片思いだったんだって。わたしも荒谷くんと仲が良かったからきっとたくさん不安にさせちゃったと思うんだ……ママにはこういう話をするのは初めてだよね。えっと、秘密にしていたんじゃなくて、誰かを好きになるってわたしには本当に分からなかったの。ううん、怖かったのかも」
好きな人ができてようやくパパの気持ちを少しだけ分かった気がする。
もう二度と会えない人を想い続けるのは余りにも苦しくて、心の隙間を埋めてくれる人に縋りたくなってしまう。
それにあの人が自分の気持ちに嘘を吐けず、パパと再婚を望んだのも今ならどうしようもないことなんだって分かる。もちろん気持ちの整理がついたかどうかは別だけど、心無い悍ましい侵略者には見えなくなった。
「誰かを好きになると物凄い力が湧いてきて、そのせいで傷付けたり、傷付けられたり……そんな姿を見てきたから、臆病になってたんだ」
これまで何度か告白を受けた経験はあったけど、恋人という関係を想像できなくて断ってきた。
友達と一緒に過ごすのと何が違うのだろう。
将来の結婚を誓うこと? えっちなことをすること?
手段なのか、目的なのか、そんなふうに難しく考え過ぎていたのかもしれない。
だって佐藤くんのことを気になり出したら、もう何もかも吹き飛んでしまったから。
「これから話すのは、本当に秘密にしていたこと。ママに話したら……わたしの中でママよりも大きくなるのが怖くて……でも、もう大丈夫」
わたしは暗い記憶から抜け出して、自然と笑顔を浮かべられた。
「好きな人ができたの」
あれはまだ銀杏の木が美しく黄葉していた頃の出来事だった――
*
その日の放課後は美化委員の活動があった。
本来は単位不足の生徒や問題を起こした生徒に対する罰として与えられる作業であり、美化委員のメンバーも任意参加なのだが、放課後の時間を持て余していたわたしは、伊藤先輩に誘われて定期的に参加していた。
あの人と顔を合わせるのが気不味くて、家に帰るのをできる限り遅らせたいわたしにとっては、まさしく渡りに船だった。
先輩には家庭の事情を少し打ち明けていたので、もしかしたらわたしの気持ちを察して誘ってくれたのかもしれない。
冗談ばかり口にしてひょうひょうと振る舞っているけれど、こういう時はさり気なく気遣ってくれる優しい先輩だ。
「そんな面倒な仕事バックレちまえよ」
教室を出ようとした時、荒谷くんと麻美ちゃんに呼び止められた。
「うーん、そうはいかないよ」
麻美ちゃんが荒谷くんにジト目を向けた。
「なにー? 荒谷くんもナナちゃんと一緒に働きたいの?」
「そうだったの? 人手不足だからいつでも歓迎だよー?」
麻美ちゃんと一緒になって悪戯な笑みを浮かべると、荒谷くんをうげーっと舌を出した。
「嫌だね、さっさと帰らせてもらうぜ。でもまあ有村も、マジでだるいなら俺から先輩に言ってやるぞ」
「ふーん、随分と優しいじゃん」
「……おい、遠藤はなんでそんな突っ掛かってくるんだよ」
「あはは、二人共、気を付けて帰ってね」
「ナナちゃんも遅くなるなら気を付けてね」
「うん、また明日ー!」
麻美ちゃんと荒谷くんが昇降口に向かうのを手を振って見送った。
二人に背を向けて廊下を正反対に進む。
ちらりと振り返ってみたが、もう二人の姿は見えなくなっていた。
「なんだかちょっと寂しいな」
麻美ちゃんと荒谷くんは中学の頃に比べて派手になった。
こっそりピアスを付けたり長期休暇に髪を染めたり、遊ぶ場所や遊び方も少しずつ大人に近付いて、わたしは付いて行けないことがある。
今でも大切な友達だけど、どうしても一緒に居るとズレを感じてしまう。
だから放課後の時間潰しに友達と遊ぶのではなくて、委員会の活動を選ぶようになってしまった。
「あっ……体操着を忘れてた」
教室を出る時にロッカーから体操着を取り出すつもりだったが、途中で荒谷くんに呼び止められてすっかり抜け落ちてしまった。
慌てて廊下を引き返して教室に戻る。
教室には誰も残っていなかった。
「最後に出たのは誰だろう? 電気が付けっぱなしになってる」
スイッチに手を伸ばしたところで、机の上に鞄が置かれているのに気付いた。
「確かあの席は……あれ?」
教室前のベランダにまだ誰かが残っているの見付ける。
窓を開いて身を乗り出して、ベランダに居たクラスメイト――佐藤くんに呼び掛けた。
「佐藤くん、教室の電気、消しちゃって大丈夫?」
肩が揺れたので聞こえている筈なのだが、まるでそこだけ時間の流れがゆっくりになっているように、佐藤くんはなかなかこちらを向いてくれなかった。
ようやく目が合っても、ぼんやりとした表情からは感情を読み取れなかった。
「ああー……うん、大丈夫」
「分かった! それじゃあ消しとくね!」
「ありがとう」
返事を聞いてすぐに教室を後にしようと思ったが、これは佐藤くんと話す良い機会だと思い直す。
一年の頃からクラスメイトとしてずっと同じ教室で過ごしてきたのだが、佐藤くんのことをほとんど知らなかった。
孤高というほど存在感はなく、孤立と言うにはクラスに馴染んでいる。
いじめを受けている様子はないし、コミュニケーションを拒否している雰囲気もない。
それでもただいつも一人だった。
昔からクラスをまとめる立場によくなっていたので、なんとなく佐藤くんからは距離感を調整している気配を感じ取れた。
意識して付かず離れず目立たないポジションを維持しているようだった。
その行動にどんな意味があるのかは分からないけど、誰かの中にしか自分を見付けられないわたしにとって、一人で居るのに確かな自分を持っている佐藤くんの存在はずっと気になっていた。
でも目立ちたくないという気持ちが伝わってくるのに、それを無視して佐藤くんに声を掛けるなんて無神経な真似はできなかった――それもこれまでの話だ。
(……佐藤くんはどうしてわたしを見るようになったの?)
わたしが何も言わずに立ち去らないので、佐藤くんは気不味くなったのか目を逸らした。
これまでずっと一人を貫いていたのに、何があってわたしに興味を持ったのだろうか。
学校に居る時、ふとした瞬間、佐藤くんの視線が感じられるのだ。
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