かくまい重蔵 《第1巻》

麦畑 錬

文字の大きさ
28 / 58

(21)熊沢 左近 ①

しおりを挟む

 ◇

 さて、渦中の熊沢左近はといえば――

「ぶはっ」

 江戸城の御堀から分岐した日本橋川の水流に運ばれ、ついに日本橋・小舟町の河岸へと流れ着いた。

 岸へたどり着いたころには、すでに立ちあがる体力もなかった。

「なんだこりゃあ」

「おい誰か、番所から人呼んで来いッ」

 漂着した左近の背中に広がる血を見て、河岸に船をつけていた漁師たちが大いに騒ぎ立てている。

 急いで呼びつけられた町医者や、番所から駆け付けた役人に囲まれながら、左近はかすむ視界に重蔵の幻を見た。

 幻だからか、都合のよいことに、左近を心底から案じているふうな表情をしている。

 死に際に見るのが重蔵の顔なら、悔いはなかった。

「じゅ……」

 左近はぽつりと呟いたきり、痩繁した体で眠りに落ちた。

 ◇

 左近が昼下がりの日本橋に漂着する、わずか四半刻前。

 浅草をぐるりと周回した左近は、勤め先である北町奉行所へと舞い戻っていた。

 奉行所に常駐している陰味方の同心たちへ、手土産に買ってきたをかりん糖を振舞ってやり、

「五年前、偽薬で捕まる連中が多かったよなあ」

 談笑する中でさりげなく切り出した。

 先日、左近が熱海家で発見した吟味記録は、五年前の書きつけである。

 これを持っていた熱海兵衛が殺されたということは、当時に取り調べをした事件に関係があるとみえる。

 とくに、吟味記録に残されていた下手人の多くが、偽薬の罪であった。

「熊沢さん、どうしたって五年前のことを急に思い出したので?」

 と、吟味方同心。
「駄菓子屋の店先に麻疹絵はしかえ(麻疹の退散を祈願して、鬼神などを描いた絵)が飾ってあってな、昔は為物の薬なんかも買わされたりして、たいそう懐が寒かったって話を聞いたのさ」

 もちろん、これは嘘だった。

「ああ、たしかに五年前はべらぼうに多く捕まえたものです。人が困っているという時に、よくもあのような悪徳を働いたものだと思いましたね」

「それだけの人数を裁いて牢に入れりやあ、江戸の人口も減っちまいそうだ」

「いや、それなんですがね、実際に裁かれた数はそうでもなかったような覚えがあります」

「ほう」

「溢れるほどいる薬犯を捕まえたら、毎日のようにお裁きで、お奉行がぶっ倒れてしまいますから。ちょうどいい加減で見逃していたりしてたそうですよ。薬を見抜かれて、あまり稼げなかった間抜けな薬売りとかね。はは」

 もう過ぎたこととあって、吟味方の連中は愉快げな語調であった。

「釈放した下手人があんまり多いってんで、一時はお奉行から事情の説明を求められたこともあったと聞いています」

「大変だな」

「ええ。こんなことなら、吟味した人数を少なめにつって記録しとくんだった……なんて、あの頃は与力の方々も嘆いておられました」

「町廻り楽さがつくづく身に染みるぜ。こんな菓子でよけりゃ、たんと食ってくれな」

「熊沢さんはよろしいのですか」

「おれは甘いものが好きじゃねえのさ」

 適当に断ると、左近は甘味を楽しむ同心たちを置いて、書物庫へと忍び込んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

処理中です...