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(40)かくまい人の幕後②
しおりを挟む「……子供時分も、そなたが私に大福をくれたな」
本所の道場で剣の腕を磨いていた幼少期、左近がこっそりと大福を分けてくれたことがある。
重蔵が人生で一度だけ、父に隠れて食べた菓子だった。
――両親に内緒で食べるのはいけない。
こう、子供ながらに理解していても、嗅いだことのない甘美な香りの誘惑に負けた。
昔を思い出すほど、膝先に出された包みが輝いて見えた。
「かたじけない」
向島名物の桜餅をありがたく受け取ると、左近とひとつずつ分けた。
初めて口に入れた桜餅には、甘みのなかに独特な風味の塩気がある。
一口目を噛むうちに、きめ細かいこし餡がさっと口腔に滲んだ。
美味しいと感じて、ようやく、重蔵は甘いものが好きなのを自覚した。
「あっこら、桜の葉まで食うんじゃねえ」
江戸の桜餅は、葉を剥いて食べる。
左近に葉を除いてもらい、重蔵はようやく二口目にありついた。
「おめぇ、桜餅を食ったことがねえのか」
「私はいつも部屋に籠っていたから、外で物事を楽しむのは、あまり大切にしてこなくて」
「わかんねえなぁ」
「私と熊とでは、正反対だものな」
「俺は遊んで回りたい男だからよ、春の浮ついた雰囲気というのが大好きなのさ。男も女も活気づいて、節句や花見の行事でみんなお祭り気分だから、いちだんと酒もうまい。おまけに、春の岡場所には春仕様の遊女が可愛く着飾って……」
それからも、気に入っている女郎に袖にされたとか、奉行所の事務仕事が怠いとかくだらない話で盛り上がっていた左近だが、
「その・・・・・なんだ、傷は大丈夫か」
話題がなくなってくると、急にバツが悪そうに本題を切り出した。
ふだん、何事も斜に構えている左近が、珍しく真剣に声を落としたので、重蔵は日を丸めずにはいられなかった。
「急にどうした」
「いいや、おめぇの手、ぐちゃぐちゃになっていたろう。それに肩も。もう痛くはねえか」
「帰ってしばらくは痛んだが、今はもう痛みがない。剣も握れる」
重蔵は対座する左近に掌を見せた。
痛々しい裂傷の痕跡こそ残っていたものの、すでに手の傷は皮に覆われて硬化している。
「うん。ならいいさ」
「奇妙だぞ。ぎこちない喋り方になって」
「俺はよ、あんまり真剣に、人を心配する柄じゃねえからよ」
「それなのに、わざわざ私の様子を見にきたのか」
「ええい、おめぇ、人のこたあいいんだよ。おめぇが昔のように喋ってくれるようになってな、調子が狂っただけさ」
左近は無理に話を逸らしたが、心底から重蔵を案じていたであろうことは、語調から伝わってくる。
嫉妬ゆえに左近を突き放していた重蔵の心には、ひそかに後ろめたさが募った。
「……仇討試合の前日、あの盗賊に斬られたそうだな。泰山のことを追ったために」
重蔵は騒動が済んで間もなく、左近の妻であるお宝から彼の無事を知らされた。
兵衛殺しの真相を、左近は危険を冒してまで調査し、斬られたのだ。
「そりゃあ、うちの寅ちゃんから聞いたのか」
「手紙でな。……頭次は、もとはといえば私に恨みのある男だった。私に関わったがために、お前には痛い思いをさせたな」
「後ろめたく思うな。あの賊はこれまでも、店に押し入っては犯し殺し盗み……とんでもない悪党だ。それだけのことをしでかして、打首で済んだだけ、幸運というもんだ」
左近いわく、捕縛された頭次は白洲の場にて裁きを受け、その十日後には鈴ヶ森の処刑場で首を刎ねられたという。
同じ極刑でも、壮絶な苦痛をともなう処刑法があることを考えれば、ひと思いに死ねる打首はまだ良心的なのかもしれない。
『地獄で待っていてやる。てめえらの顔を覚えたからな』
捕縛されてから処刑されるまで、頭次は終始、立ち会った者たちに対して恨み言を残していた。
「全く、おっかねぇ野郎だぜ、あの頭次ってのはよ」
「そこまで言われて、辛くはなかったのか」
「人を守るために手を汚す仕事ってのは、かならず、どこかで恨みを買うもんだ。万人のためになることなんて、そうそうありゃしねえよ」
左近もさんざん毒を吐かれただろうに、本人はどこ吹く風とばかりに平気だった。
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「心の強い男だ。人に恨まれることも、命を脅かされることも、お前は怖くないのだろう」
「俺は自分に素直すぎる男でな。人を助けてえ、手柄が立ててえと思う時は、怖い気持ちなんて忘れるのさ」
「熊にもそのような、立派な志があったのだな」
「ばか、お手当に見合う仕事はしてんだよ。ちゃんとな」
左近は重蔵をたしなめた。
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