かくまい重蔵 《第1巻》

麦畑 錬

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(最終話)かくまい人・囲重蔵

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 ◇

 浅草・浅草寺から伸びる道には、先日の雨に落とされた桜が隙間なく敷かれている。

 花見の時期には、桜木のそばへ集まっていた屋台商人や大道芸人などが、いまでは灌仏会に乗じて寺の周辺に集合している。

 そのためか、寺の内外では屋台が羅列し、商人が客寄せに精を出している。

「お釈迦さま、今日でいくつになる?」

 浅草寺の出入口では、幼子が手を握る父に問いかけた。

 仏の年など考えたこともなく、単純に祭りを楽しみに来た父親は答えに詰まった。

「権現さまと同じくらい、じゃねえかな」

 最終的に、こう濁した。

 仏の誕生を祝う灌仏会は、花見に並んで毎年の春を盛り上げる一大行事である。

 この灌仏会が催される四月八日になると、各寺では甘茶を張った器を境内に準備し、そこへ花堂を設ける。

 花御堂の中には小さな仏像があり、参拝者はその頭へ甘茶をかけて仏を祝うのだ。

 そして、祝うついでにたくさん遊び、たくさん食べ、祭りを満喫する。

 祭り好きの江戸っ子にとって、賑やかな行事は年にいくつあっても嬉しいものだった。

 にわかに人の少ない雷門の脇から、小柄な老獪がひとり、ひしめく人影の間を混さがらに潜り抜けていく。

 老獪が流麗な足取りで進む先には、寺社の見廻りに復帰した勝之進の姿があった。

「間島さま、こちらでございます」

 参拝客の壁に行く手を阻まれる勝之進を連れ、老獪は露店の間に身を隠した。

 ようやく一息ついて、勝之進は老獪の姿に表情を明るくした。

「沢庵どの、お久しぶりです」

 勝之進は老獪、もとい阿母寺の住職・沢庵へ勲に頭を下げた。

「これは凄まじい盛況ぶりにございますな。阿母寺の静けさが嘘のように」

「ええ、しかも今から稚児行列が始まりますから、見物人がどっと押し寄せてきているようで……」

「間島さまも、行列の見物でございますかな」

「いえ。こういう祭りの時ほど、人々の気分は浮かれますし、人ごみで揉みくちゃにされますから、スリに気が付きにくいんです」

「なるほど」

「だから、いっそう目を光らせるように、上から言いつけられているのですが、人が多いと思うように進めないものですね」

 勝之進は苦笑した。

「無理もございませんな。下町では誰もが、厳かでつまらぬ仏事より、祭りのような騒ぎを楽しみたいものでございます。これだけ世が活気に満ち溢れておれば、お釈迦さまも文句は言いますまい」

 大黒天と見紛う細い眼孔の奥から、沢庵の視線が慈しみをもって本堂を眺めた。

 玲瓏な鈴の音が、ひとつ、ふたつと本堂から上がった。

 ついに稚児行列が行進を始めたらしい。

 浅草寺ほどの大寺にもなれば、行事ごとの規模も盛大である。

 本堂から雷門にかけて露店が立ち並ぶ道を、灌仏会のしきたりに倣って、張り子細工の白い象と、稚児の行列が練り歩く。

 花御堂へ飾る際に落ちたらしい花弁を、稚児の周辺を囲む寺坊主たちが高々と天へ撒いている。

 桜に菊、牡丹に百合。血とりどりの花弁が、散りざまに温風で舞い上げられ、人々に虹の吹雪を魅せた。

「さすがは浅草寺の灌仏会、花を撒くとは豪気なものでございますな。これほどの催しとなれば、泥棒も見惚れて仕事になりますまい。どれ、間島さま。ここは羽休めを兼ねて、ともに参拝に参ってはいかがでしょう」

「もちろん。ちょうど暇を見つけて、本堂へ参りたいと思っていたところです」

「それはよかった。して、なにを祈願なされましょう。尼除けにございますかな」

「よ、よしてくださいよ、もう事はこりごりです」

 仏討試合で斬られた背中の古傷が、ひりりと痒くなってきた。

 禍福かふくあざなえる縄の如し。

 人生は不幸ばかりでも、幸福ばかりでもないという教訓
があるが、実際は禍も福も交互に来てはくれない。

 不幸な時に、さらなる災いが折り重なることもあるのだ。

 勝之進は仇としての罪を着せられたうえ、家にも帰れず、許嫁まで人質に取られた、まさに人生の下り坂ともいうべき苦難の記憶を連想した。

(やっぱり、お願いだけはしておこう)

 念には念を入れて、本堂では家内安全と厄災の退散を祈った。

 合掌を終えた勝之進の尻目には、本堂へ置かれた花堂の仏像に甘茶をかけるため、列に並ぶ人々がいる。

 今までは、祭りのしきたりとして、深く考えないまま甘茶をかけていた。

 しかし、客観的に見ると、なぜ仏像の頭に甘茶をかけるのが、祝福の証になるのか理解できない。

 少なくとも、人の頭に茶をかける行為は完全に意地悪である。

「お釈迦さまは、お茶なんかかけられて嬉しいのでしょうか」

 勝之進は何気なく問いかけた。

「おそらく、故事に倣っておるのでしょうな。お釈迦さまがお生まれになった時、天に九頭竜が昇って甘露の雨を降らせたのが由来だそうで」

 と、沢庵。

「甘露の雨ですか。甘いものが好きな子供たちにとっては、夢のような話ですね」

「お釈迦さまが生まれた時くらい昔にもなれば、我らでは想像もつかぬ摩訶不思議があったのでございましょう。甘露の雨に打たれながら、お釈迦さまは『天上天下我独尊』と唱えられました」

 仏門にそれほど通じていない勝之進は、生まれたばかりの赤子が流暢に説法を説く絵面を想像した。

「天上天下唯我独尊、とは、自分が世界で一番偉い、という態度のことですか」

「そういう意味でも、間違いではございません。しかし、仏教では少々ちがう意味で使われておりまして」

「具体的には?」

「すべての生き物は生まれながらにして、その存在自体が尊い、という意味でございます。家柄や容姿や思想、すべてを抜きにして、その人のあるがまま、心がままにいることが尊いのだと、お釈迦さまは説きたかったのでございましょう」

「心のままに、自分らしく……」

 心のままに、とはいえ、人の社会では階級が命以上の価値を持っている。

 自分より偉い相手には、我を隠さねばならぬこともある。

 真っ当な教えではあるが、自分らしく生きるのはなかなか難しいことだ。

「とはいえ、今の我らにはかなりの難題にございますな。なにしろ、正直者が馬鹿を見る、などと言われるご時世にございますから」

 僧侶にしては、沢庵の見解はあまりにも現実的だった。

「驚きました、沢庵どの。ふつう、お坊さまといえば、もう少し聞こえの良いことをおっしゃると思ったのですが」

「嘘や綺麗ごとは、それが必要な相手にのみ、言うものでよろしいのでございます。もっとも、間島さまは気の良いお方ゆえ、思うたままのことを話しやすい、それだけにござりますれば」

「そんな、気が良いなどと」

「今の言葉、素直に受け取りなさいまし。素直でいる時が、人間、楽に生きられるものにございます」

「では……ありがとうございます」

 慇懃に、されど、ぎこちなく礼を述べた。

 誉め言葉を肯定すると、むずむずと腹の底が熱くうずいた。

 その直後、

「おうい、重の字」

 どこからか、軽い調子の呼び声が、心当たりのある名で呼んだ。

 この声の主は、熊沢左近で間違いない。

 勝之進は振り向きざまに、いそがしく行き交う雑踏から、重蔵の姿を探した。

 これほど人で溢れかえっているのに、不思議と重蔵の姿だけはすぐ目についた。

 本堂と水舎の狭間に横たわる、石畳の大通り――そこに、重蔵がいる。

 すれ違う者が皆、その美貌に思わず二度見をする。

 その瞬間だけは足が止まるので、重蔵の周辺だけは人の流れが遅くなった。

 重蔵の頭を隠すほっかむりが緩み、風になびく。

 ほっかむりの影から覗いた碧眼が、物珍しげに周囲を眺め回していた。

 不意に、稚児行列のほうから流れてきた花吹雪が、重蔵の全貌を霞ませる。

 花吹雪に攫われそうな美貌でありながら、重蔵の体から伸びる足が、どっしりと地についている。

 重蔵の唇が上下した。

『これが灌仏会……やっと、ここに来られたよ』

 深く、深く実感した声が、疾風に流れて勝之進の耳まで届いた。

 樹齢を重ねた大木のように、春風のなかでそびえ立つ重蔵は、やがて、一歩を噛み締めるように本堂への階段に足をかけた。

「沢庵どの、少し離れてもよろしいですか」

 重蔵から目を離さぬよう、勝之進は沢庵へそう声をかけた。

「ええ、何用で?」

「重蔵どのに、礼を言わねば」

 言い残すや、勝之進は細波をおこす人々の群れへ身を投じた。

 賑やかな祭り囃子が、勝之進の足音を呑み込んでゆく。

【了】
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