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第一章
1話
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「お嬢様、ご注文は以上でよろしいでしょうか」
いつものように、丁寧な所作と穏やかな声色を意識する。
客の目に映るのは、礼儀正しく、柔らかな物腰を纏った"執事"――それだけでいい。
「はひ……」
微かに頷いた声に、俺はふわりと微笑み、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
踵を返すと同時に、張りつめていた背中の力を、ほんの少しだけ抜いた。
この店では“執事”という看板を背負っている以上、素を出すわけにはいかない。
常に気を張り、執事らしくあらねばならない。
とはいえ――慣れてしまえば、働き始めた頃よりずっと楽だ。
「オーダー入りました。5番テーブル、ケーキセット2つ。ドリンクはアールグレイとジャスミンティー。どちらもホットでお願いします。」
キッチンへ伝票を渡し、カウンターに戻ると、タイミングを見計らったように声がかかる。
「シキくんお疲れ様~!休憩入っていいよ~!」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
ぺこりと頭を下げ、バックヤードへと足を向ける。
ようやく、一息つける――そう思った、ちょうどその時。
――カラン。
入り口のベルが軽く鳴った。
「「お帰りなさいませ」」
ホールスタッフの声がかかるが、それ以降足音が聞こえない。何をしているのかと、足を止め、ちらりと入口の方に目を向ける。
他の執事たちは運悪く他のお客様の対応に追われているようだった。
「あー……俺、案内してから休憩行きますね」
「助かる!ありがとう!」
――本当は、さっさと休憩に入りたかった。
けれど、仕方ない。席へ案内するだけだ、そんなに時間はかからない。さっさと済ませて、さっさと引き上げよう。
そんなことを思いつつ、足早に入り口の客のもとへ向かう。
少し近づいたところで、視界に入ったのは、黒のパーカーに色落ちしたデニム。
その人物とバチっと目が合った瞬間、彼の顔に、ぱぁっと笑顔が咲いた。
ぶんぶんと手を振りながら、そいつは嬉しそうに声を張り上げる。
「あ、シキ様~~っ!」
(……あぁ、こいつか)
喉の奥でため息がくすぶるも、表情に出さないように気持ちを切り替える。
「おかえりなさいませ、ご主人様。お出迎えが遅れてしまい申し訳ございません。ただいまお席へご案内いたします。」
軽く一礼してから、すっと手を差し出す。「こちらへ」と席へ案内し始めると、後ろから無駄に明るい声が飛んでくる。
「シキ様が直々に案内してくれるなんて、レアですね!うわぁ、めっちゃ嬉しいんですけど!」
「……ご主人様、お静かにお願いします。他のご主人様方のご迷惑になりますので」
ピシャリと抑えた声で返すと、イオリはまるで堪えた様子もなく口角を上げた。
「シキ様が言ってくれる“ご主人様”、最高に耳が幸せです……今日も格好良すぎて罪……」
こっちが何を言ってもまるで響いていないようで、そんな図太い神経が時々羨ましくすらある。
にまにまと笑いながら、「シキ様、シキ様」と懲りもせずまとわりついてくる――こいつの名前は、イオリ。 この名が本名かどうかも知らないが、この男がここの常連になってもう半年以上が経とうとしていた。
俺は、本当はこの様呼びをやめさせないといけない立場にある。なんてったって、この場所ではお客様は"ご主人様"で、キャストはご主人様に仕える"執事"だからだ。でも俺には、それができない理由があった。
イオリがここに来るようになったのは、今年に入ってからだ。
そして、こいつが俺にまとわりつき始めたのは、とある事件が起こってからだった。
その日は、お花見イベントの真っ最中で、しかもリーダーのアサヒさんの誕生日も重なっていたせいか、店内は普段以上に慌ただしく、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
それはもちろん、俺も例外じゃなかった。仕事にはだいぶ慣れてきていたが、イベントとバースデーが重なるのは初めてで、周囲に目を配る余裕なんてまるでなかった。
――だから、ご主人様同士が揉めてるなんて、最初は夢にも思わなかった。
俺がそれに気づいたのは、注文を取りに向かったときだ。店の奥のテーブル席で、最近よく見かける常連――イオリが、新規のお嬢様と向かい合って立っている姿が目に入った。
どうやら、立ち上がったイオリをお嬢様が呼び止めたようだった。
最初は、何気ない会話かと思った。けれど、次の瞬間、そのお嬢様の声が急に跳ね上がった。
「だからぁっ!連絡先だけでいいって言ってんじゃん! お兄さんキャストじゃないんでしょ? 別に教えてくれてもよくない?」
「俺はそれが嫌だって言ってるんだけど。……てか、そこどいてくんない?俺トイレ行きたいんだよね」
「なんで!?私、可愛いでしょ!?何がダメなのよ!」
「えぇ……顔?」
半笑いで答えたイオリの言葉に、店内の空気がびしりと凍りついたのがわかった。
ざわ、と周囲のテーブルから視線が集まる。
(……は? 今、“顔”って言った?)
お嬢様は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようで、呆然と目を瞬かせていた。
けれど、頬がみるみる赤く染まり、その瞳に怒りの色が宿る。
「……っなに、それ……!」
上ずった声が、ピリついた空気を裂く。彼女の唇はわなわなと震え、両肩が怒りに揺れている。目元は引き攣り、爪がぎゅっと指に食い込むほど拳を握りしめられていた。
(マズい)
胸の奥がざわつき、考えるより先に体が動いた。俺は自然を装って、静かにそのテーブルへと歩み寄る。けれど、内心では明らかな焦りがあった。
空気がピンと張り詰め、皆が様子を伺っている。周囲の話し声が遠のき、妙な緊張が場を支配していた。
その静けさを打ち破ったのは――
渦中の彼女の叫びだった。
「……っふざけんな、アンタ、なによ……!」
彼女の声が震えながらも怒気を孕み始める。視線の刃は、まっすぐにイオリを貫いている。イオリはその視線にも気づかぬように、彼女に背を向け立ち去ろうとしていた。
俺は声を掛けるタイミングを計りながら、テーブルへと近づいた。
その時、彼女の視線がテーブル脇のコーヒーカップに落ちる。
淹れたてのコーヒー。立ちのぼる湯気さえ、今は妙にくっきり見える気がした。
嫌な予感が、喉元までせり上がる。
(……ッ、やばい)
俺は駆け寄るように、彼女とイオリの間へ滑り込み、声をかける。
「お嬢様、落ち着いてくださ――」
その瞬間、バシャッと、鈍く湿った音が響いた。
頬に当たった液体が、首筋を伝ってシャツの襟を濡らす。
思ったよりも熱い。けれどそれ以上に、胸の奥が凍えるように冷えた。
「……っ、」
水ならまだよかった。
でもこれは……コーヒーだ。しかも淹れたて。
これはもう、“お客様同士の口論”なんてレベルじゃない。
空気がざわついた。周囲のテーブルから、小さな囁き声と視線がこちらへ集まってくる。
目の前の彼女がハッとしたように顔を上げ、周囲を見渡した。そして――コーヒーを被った俺を見て、完全に固まった。
彼女の顔がみるみるうちに青ざめていく。震える手に握られたままの空のカップ。
彼女の視線は、その手元と俺の顔を行ったり来たりして――ようやく、状況の“意味”を理解し始めたようだった。
肩も指先も強張ったまま、一言も発せず、まるで時間だけが止まってしまったみたいに、そこに立ち尽くしている。
――それを見て、俺は自然と口を開いていた。
「お嬢様、手に火傷はしておりませんか?」
静かに。声の調子にも、目線にも、圧を与えぬよう細心の注意を払う。
半歩踏み出し、彼女の手元へとそっと視線を落とす。
「無理にカップを持たれたようでしたので……火傷や怪我がないか、確認させていただきますね」
俺は、彼女の手に添えられていたカップへとそっと手を伸ばす。
ハンドルにかかった指先に触れ、力を抜かせるようにゆっくり丁寧に外す。
そのまま、赤みや火傷の痕がないかを確認しながら、柔らかく問いかけた。
「お怪我は……ありませんか?」
「……な、ないです……っ」
掠れるような、震え声。小さな喉の奥から、ようやく言葉が漏れた。
俺は静かに頷くと、そっと手を離し、背筋を正して振り返る。
――この騒動の発端となった相手へと。
あの“顔”発言を放った、常連になりたての男。
「ご主人様も」
彼は、呆然としたようにこちらを見ていた。
まるで何が起きたのか把握できていないような顔で――ただ、じっと、俺を。
その双眸は、驚きとも混乱ともつかぬ色で、俺に釘付けになっていた。
「火傷や、お怪我など……ございませんか?」
俺の声は静かで、丁寧で、どこまでも冷静だった。これ以上、騒ぎを大きくしないために。
俺は。“執事ならばこうするはず”という理想像を脳裏に描きながら、その通りに、自分を動かしていた。そう、“演じていた”。
何一つ取り乱すことなく、執事としての務めを果たす声色で。
だけど、肌に張りついた熱だけは、容赦なく俺の身体に居座っていた。
コーヒーを浴びた頬と首筋がじりじりとヒリついている。確実に熱を帯びて皮膚の下を焼いていた。
でもそれを顔に出すわけにはいかなかった。執事として、今は。
「……俺、は……」
ようやく、彼が声を発した。
その響きは、やけにか細くて、息に溶けるようだった。
彼の視線は相変わらず、俺から逸れない。
濡れたシャツ、首筋、頬、一瞬たりとも目を離さずに。
そこへ、店内の奥から駆け寄る足音。
他の執事たちが、慌てたように声を上げる。
「シキ!おい、大丈夫か――!」
「これ火傷してない?一旦中入って!」
取り囲むように心配の声が飛ぶ中、俺は小さく首を横に振った。
「……大丈夫です。少し熱いだけなので」
そう言ってはみたものの、シャツはコーヒーでぐっしょりと濡れ、首筋の痛みはじりじりと自己主張を続けている。
でも――見せられない。
俺がここで顔を歪めれば、彼女の立場は完全に潰れる。
だからこそ、平静を装うしかなかった。
「大丈夫です……すみませんが、タオルと冷水、用意していただけますか。あちらのお嬢様も、一度個室へお通しください」
冷静な声でそう告げると、先輩執事のひとりが無言で頷いた。その視線の奥に、心配と――ほんのわずかに、信頼の色が混ざっていた。
――さて、と。ひとまずこの場を離れよう。まだ、視線が痛い。
「失礼いたします」
小さく頭を下げ、踵を返す。
背後からまだざわつきの残る空気を感じながら、一歩、また一歩と足を進め――
「シキ……さん」
不意に、背後から名を呼ばれた。
思わず足を止めて振り返る。
そこにいたのは、先ほど俺が庇った――常連になりたてのご主人様。
バチッと目が合うと驚いたような表情をして、戸惑ったような、それでいて何かを言いたそうに口を開いた。
でも、彼はそれ以上、何も言葉を発さず、動こうともしなかった。
その場に立ち尽くしたまま、何かを言いたげな目で、ただ、まっすぐに俺を見ている。
(……なんだ)
小さく首を傾げる。彼のその視線の意味は、俺には読み取れなかった。心配してくれてるんだと思うことにしよう。
「ご心配ありがとうございます」
丁寧にそう返し、再び踵を返す。
そのまま俺はその場を離れ、バックルームで手当てを受けることができたのだが――
イオリは、あのとき……何を言おうとしていたんだ?
答えの出ない問いを胸の奥に沈めながら、そっと指先で首元を撫でる。もう何も残っていない。あの時、コーヒーを浴びた肌はちゃんと冷やして、ちゃんと処置した。
一週間ほどヒリついてはいたけれど、幸いにも跡が残らずに済んだ。
件のお嬢様は、ひどくあの時のことを反省しているようで、俺とイオリの両方何度も頭を下げて謝罪をしていた。まぁ最終的には、キャストに怪我をさせたということで出禁になってしまったが、本人もそれを受け入れ、円満に解決することができた。
思えば、あの事件が起こって以来だった。
イオリが俺の名前を覚えて、ここに来るたび必ず「シキさん!」と声をかけてくるようになったのは。
しかもある日突然、「俺の中では、シキさんはヒーローなので、もう“様”付けで呼んでもいいと思うんですよ!ね?シキ様!」と押し切られ、呼び方まで“シキ様”に変わってしまった。
そんな懐かしい記憶を辿っていたところへ、イオリの声が、現実へと引き戻してくる。
「シキ様、香水変えました?シャンプーかな?前の香りも良かったけど、今回のやつシキ様の雰囲気にあってて俺めっちゃ好きかも~!」
「……うわぁ」
思わず口の中で呟いた。
ドン引きだった。キモいし、怖い。マジで怖い。顔に出てなかったか――いや、これは出ててもいいか。
だって、何が一番怖いって……
昨日、ほんの数年ぶりに、シャンプーを変えたばかりだったんだ。
(こいつ……人の匂いをいちいち覚えてるのか?)
気持ち悪い。けど――
同時に、こういうのが“女子ウケ”に繋がるんだろうな、という妙な納得もある。
「些細な変化に気づける男はモテる」昔、姉がそんなことを豪語していたのを、ふと思い出す。
そんなことを考えているうちに空席へとたどり着いた。
「……ご主人様、どうぞこちらのお席へ」
椅子を引き着席を促す。イオリは、目をきらっきらさせながら素直に腰を下ろした。
「ご主人様は、当館のルールをもう既にご存知でしょうし――省略させていただきます。ご注文が決まりましたら、そちらのベルにてお呼びくださいませ」
「それでは……ごゆっくりお過ごしくださいませ、ご主人様」
――ああ、これでやっと休憩に入れる。
深く一礼し、くるりと背を向ける。
ようやく、解放される……そう、思った矢先だった。
チリン、と小気味よく鳴ったベルの音。
「…………」
一歩踏み出しかけた足が、ぴたりと止まる。
振り返れば、イオリは悪びれる様子もなく、にこにこと手を振っていた。 目が合った瞬間、期待に満ちた声が飛んでくる。
「シキ様、このまま注文いいですか?」
内心で深くため息をつきながらも、接客スマイルは崩さない。これは接客だ。仕事だ。……たぶん。
「かしこまりました。お伺いいたします、ご主人様」
そんなことを口にしながら、脳内では休憩時間が走馬灯のように遠ざかっていく映像が流れていた。
「えっと~、今日のおすすめってどれですか?」
首を傾げて、上目遣いでこちらを見上げてくるイオリを見た瞬間、確信した。こいつ、俺と話したくてわざとやってる。
「本日のおすすめは、苺のミルフィーユでございます。また、今は季節限定のタルトタタンもおすすめでございます。」
完璧な笑顔とマニュアル通りのセリフで返す。だが内心では、さっさと決めてくれ……と何度も唱えていた。
「ん~、じゃあそのミルフィーユにしようかな。あ、あと追加でシキ様のおすすめのドリンクも聞いていいですか?」
「……私のおすすめのドリンクは、マルコポーロでございます。甘めの香りの紅茶がお嫌いでなければ、ぜひ一度ご賞味ください。」
笑顔をキープしながらも、頬がピクリと動いたのを自覚する。
「なるほど、じゃあそれにしようかな!……でも、前は違う珈琲がおすすめだって言ってましたよね?シキ様、ほんとは何が一番好きなんですか?」
なんで、俺を引き止める方向に全振りしてんだ、こいつ。
「申し訳ございません。私の心は移ろいやすいものでして――日替わりでおすすめが変わるのが、持ち味でございます」
できる限り機械的に、丁寧に返しながらも、話を強引に元のルートへ戻す。
「それ言われたら何も言えないじゃん。仕方ないな~。ま、シキ様とお話しできてるだけいっか!」
テーブルに肘をついて俺を見上げてくる。なんだその目。無駄にキラキラさせてんじゃねぇ。
「それでは、ご注文を繰り返します――」
淡々とオーダーを読み上げる。ようやく離れられる。今度こそ、今度こそ休憩だ。
そのまま踵を返してカウンターへ向かいながら、小さく息を吐いた。
……はぁ。
背中に突き刺さるような視線を振り払い、なるべく自然に、早歩きにならない程度の速度でカウンターへと戻る。
(……俺、よく耐えた。ほんと偉い)
誰に褒められるでもなく、心の中で自分を慰めながら歩いた。あれ以上イオリと話していたら、さすがに表情に何かが出ていた自信がある。
「シキくん案内ありがとう!オーダーも取ってくれたんだ、僕がキッチンに通しとくから今度こそ休憩行ってきて!」
声をかけてきたのは、先ほど休憩を促してきたスタッフの一人。
片手をひらひらと振りながら微笑むその姿に、シキは短く頷いた。
「お願いします。……助かります」
心底、本当にそう思った。このままだと、スイッチが切れてしまう。脳はもう執事モードから通常モードへと切り替えにきているのがわかった。
もう誰も呼んでくれるなよ、そう思いながら控え室のドアへ手を伸ばした。
「っ、はぁ~」
休憩室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた気が一気に緩み、乾いた吐息が思わず漏れる。
タイを緩め、軽く襟元をつまんで空気を通す。じわりと汗ばむ首筋に風が通って、ようやく呼吸が深くなった気がした。
(マジで……疲れた)
接客マニュアルには何事にも冷静に笑顔で対応って書いてあった気がするけど……無理なもんは無理だ。
たかが一人接客しただけだというのに、全身がじんわり重い。
なんでだよ。なんでアイツと話すと、普通の何倍も体力持ってかれるんだ。
椅子に腰を下ろすと、背もたれにだらりと身体を預け、そのまま大きく伸びをした。そして、力が抜けたように前のめりに机へと倒れ込む。
腕を机に投げ出し突っ伏すると、冷えた天板が頬に当たり、じんわりと気持ちいい。
それだけで、もう起き上がる気力が失せた。
でもそうはいかないのが現実ってやつだ。休憩は1時間、その間にイオリが帰っていてくれることを祈るしかない。ここでエネルギー補充しておかないと、次のシフトでまた魂が摩耗する。
(てか、あいつ……なんでシャンプー変えたのわかったんだ?)
脳裏に蘇る、あの無駄にキラついた笑顔と「今回のやつシキ様の雰囲気にあってて俺めっちゃ好きかも~!」という台詞。
……ぞわりと、背筋に寒気が走る。まさか本当に、いちいち匂いを覚えているのだろうか。
(いや、冷静になれ。俺、整髪料つけてんだぞ?今の状態なら、シャンプーの香りより整髪料の方が残ってるはずで――)
そこまで考えて、再び戦慄が走った。
「怖っ……」
小さく吐き捨て、シキは机に突っ伏したまま腕を引き寄せる。
空調の低いうなりと、遠くで聞こえる食器の触れ合う音。
壁越しの店の喧騒も、今はぼんやりとしたノイズでしかなく、むしろ心地よくさえある。
「……ねむ」
そんな呟きが漏れた直後、意識がするりと沈んでいく。
思考はゆっくりと霞み、水の底に沈むように音も重さも遠のいて――
気づけば、もう何も浮かばなくなっていた。
静かな眠りが、そっと俺を包み込んだ。
いつものように、丁寧な所作と穏やかな声色を意識する。
客の目に映るのは、礼儀正しく、柔らかな物腰を纏った"執事"――それだけでいい。
「はひ……」
微かに頷いた声に、俺はふわりと微笑み、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
踵を返すと同時に、張りつめていた背中の力を、ほんの少しだけ抜いた。
この店では“執事”という看板を背負っている以上、素を出すわけにはいかない。
常に気を張り、執事らしくあらねばならない。
とはいえ――慣れてしまえば、働き始めた頃よりずっと楽だ。
「オーダー入りました。5番テーブル、ケーキセット2つ。ドリンクはアールグレイとジャスミンティー。どちらもホットでお願いします。」
キッチンへ伝票を渡し、カウンターに戻ると、タイミングを見計らったように声がかかる。
「シキくんお疲れ様~!休憩入っていいよ~!」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
ぺこりと頭を下げ、バックヤードへと足を向ける。
ようやく、一息つける――そう思った、ちょうどその時。
――カラン。
入り口のベルが軽く鳴った。
「「お帰りなさいませ」」
ホールスタッフの声がかかるが、それ以降足音が聞こえない。何をしているのかと、足を止め、ちらりと入口の方に目を向ける。
他の執事たちは運悪く他のお客様の対応に追われているようだった。
「あー……俺、案内してから休憩行きますね」
「助かる!ありがとう!」
――本当は、さっさと休憩に入りたかった。
けれど、仕方ない。席へ案内するだけだ、そんなに時間はかからない。さっさと済ませて、さっさと引き上げよう。
そんなことを思いつつ、足早に入り口の客のもとへ向かう。
少し近づいたところで、視界に入ったのは、黒のパーカーに色落ちしたデニム。
その人物とバチっと目が合った瞬間、彼の顔に、ぱぁっと笑顔が咲いた。
ぶんぶんと手を振りながら、そいつは嬉しそうに声を張り上げる。
「あ、シキ様~~っ!」
(……あぁ、こいつか)
喉の奥でため息がくすぶるも、表情に出さないように気持ちを切り替える。
「おかえりなさいませ、ご主人様。お出迎えが遅れてしまい申し訳ございません。ただいまお席へご案内いたします。」
軽く一礼してから、すっと手を差し出す。「こちらへ」と席へ案内し始めると、後ろから無駄に明るい声が飛んでくる。
「シキ様が直々に案内してくれるなんて、レアですね!うわぁ、めっちゃ嬉しいんですけど!」
「……ご主人様、お静かにお願いします。他のご主人様方のご迷惑になりますので」
ピシャリと抑えた声で返すと、イオリはまるで堪えた様子もなく口角を上げた。
「シキ様が言ってくれる“ご主人様”、最高に耳が幸せです……今日も格好良すぎて罪……」
こっちが何を言ってもまるで響いていないようで、そんな図太い神経が時々羨ましくすらある。
にまにまと笑いながら、「シキ様、シキ様」と懲りもせずまとわりついてくる――こいつの名前は、イオリ。 この名が本名かどうかも知らないが、この男がここの常連になってもう半年以上が経とうとしていた。
俺は、本当はこの様呼びをやめさせないといけない立場にある。なんてったって、この場所ではお客様は"ご主人様"で、キャストはご主人様に仕える"執事"だからだ。でも俺には、それができない理由があった。
イオリがここに来るようになったのは、今年に入ってからだ。
そして、こいつが俺にまとわりつき始めたのは、とある事件が起こってからだった。
その日は、お花見イベントの真っ最中で、しかもリーダーのアサヒさんの誕生日も重なっていたせいか、店内は普段以上に慌ただしく、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
それはもちろん、俺も例外じゃなかった。仕事にはだいぶ慣れてきていたが、イベントとバースデーが重なるのは初めてで、周囲に目を配る余裕なんてまるでなかった。
――だから、ご主人様同士が揉めてるなんて、最初は夢にも思わなかった。
俺がそれに気づいたのは、注文を取りに向かったときだ。店の奥のテーブル席で、最近よく見かける常連――イオリが、新規のお嬢様と向かい合って立っている姿が目に入った。
どうやら、立ち上がったイオリをお嬢様が呼び止めたようだった。
最初は、何気ない会話かと思った。けれど、次の瞬間、そのお嬢様の声が急に跳ね上がった。
「だからぁっ!連絡先だけでいいって言ってんじゃん! お兄さんキャストじゃないんでしょ? 別に教えてくれてもよくない?」
「俺はそれが嫌だって言ってるんだけど。……てか、そこどいてくんない?俺トイレ行きたいんだよね」
「なんで!?私、可愛いでしょ!?何がダメなのよ!」
「えぇ……顔?」
半笑いで答えたイオリの言葉に、店内の空気がびしりと凍りついたのがわかった。
ざわ、と周囲のテーブルから視線が集まる。
(……は? 今、“顔”って言った?)
お嬢様は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようで、呆然と目を瞬かせていた。
けれど、頬がみるみる赤く染まり、その瞳に怒りの色が宿る。
「……っなに、それ……!」
上ずった声が、ピリついた空気を裂く。彼女の唇はわなわなと震え、両肩が怒りに揺れている。目元は引き攣り、爪がぎゅっと指に食い込むほど拳を握りしめられていた。
(マズい)
胸の奥がざわつき、考えるより先に体が動いた。俺は自然を装って、静かにそのテーブルへと歩み寄る。けれど、内心では明らかな焦りがあった。
空気がピンと張り詰め、皆が様子を伺っている。周囲の話し声が遠のき、妙な緊張が場を支配していた。
その静けさを打ち破ったのは――
渦中の彼女の叫びだった。
「……っふざけんな、アンタ、なによ……!」
彼女の声が震えながらも怒気を孕み始める。視線の刃は、まっすぐにイオリを貫いている。イオリはその視線にも気づかぬように、彼女に背を向け立ち去ろうとしていた。
俺は声を掛けるタイミングを計りながら、テーブルへと近づいた。
その時、彼女の視線がテーブル脇のコーヒーカップに落ちる。
淹れたてのコーヒー。立ちのぼる湯気さえ、今は妙にくっきり見える気がした。
嫌な予感が、喉元までせり上がる。
(……ッ、やばい)
俺は駆け寄るように、彼女とイオリの間へ滑り込み、声をかける。
「お嬢様、落ち着いてくださ――」
その瞬間、バシャッと、鈍く湿った音が響いた。
頬に当たった液体が、首筋を伝ってシャツの襟を濡らす。
思ったよりも熱い。けれどそれ以上に、胸の奥が凍えるように冷えた。
「……っ、」
水ならまだよかった。
でもこれは……コーヒーだ。しかも淹れたて。
これはもう、“お客様同士の口論”なんてレベルじゃない。
空気がざわついた。周囲のテーブルから、小さな囁き声と視線がこちらへ集まってくる。
目の前の彼女がハッとしたように顔を上げ、周囲を見渡した。そして――コーヒーを被った俺を見て、完全に固まった。
彼女の顔がみるみるうちに青ざめていく。震える手に握られたままの空のカップ。
彼女の視線は、その手元と俺の顔を行ったり来たりして――ようやく、状況の“意味”を理解し始めたようだった。
肩も指先も強張ったまま、一言も発せず、まるで時間だけが止まってしまったみたいに、そこに立ち尽くしている。
――それを見て、俺は自然と口を開いていた。
「お嬢様、手に火傷はしておりませんか?」
静かに。声の調子にも、目線にも、圧を与えぬよう細心の注意を払う。
半歩踏み出し、彼女の手元へとそっと視線を落とす。
「無理にカップを持たれたようでしたので……火傷や怪我がないか、確認させていただきますね」
俺は、彼女の手に添えられていたカップへとそっと手を伸ばす。
ハンドルにかかった指先に触れ、力を抜かせるようにゆっくり丁寧に外す。
そのまま、赤みや火傷の痕がないかを確認しながら、柔らかく問いかけた。
「お怪我は……ありませんか?」
「……な、ないです……っ」
掠れるような、震え声。小さな喉の奥から、ようやく言葉が漏れた。
俺は静かに頷くと、そっと手を離し、背筋を正して振り返る。
――この騒動の発端となった相手へと。
あの“顔”発言を放った、常連になりたての男。
「ご主人様も」
彼は、呆然としたようにこちらを見ていた。
まるで何が起きたのか把握できていないような顔で――ただ、じっと、俺を。
その双眸は、驚きとも混乱ともつかぬ色で、俺に釘付けになっていた。
「火傷や、お怪我など……ございませんか?」
俺の声は静かで、丁寧で、どこまでも冷静だった。これ以上、騒ぎを大きくしないために。
俺は。“執事ならばこうするはず”という理想像を脳裏に描きながら、その通りに、自分を動かしていた。そう、“演じていた”。
何一つ取り乱すことなく、執事としての務めを果たす声色で。
だけど、肌に張りついた熱だけは、容赦なく俺の身体に居座っていた。
コーヒーを浴びた頬と首筋がじりじりとヒリついている。確実に熱を帯びて皮膚の下を焼いていた。
でもそれを顔に出すわけにはいかなかった。執事として、今は。
「……俺、は……」
ようやく、彼が声を発した。
その響きは、やけにか細くて、息に溶けるようだった。
彼の視線は相変わらず、俺から逸れない。
濡れたシャツ、首筋、頬、一瞬たりとも目を離さずに。
そこへ、店内の奥から駆け寄る足音。
他の執事たちが、慌てたように声を上げる。
「シキ!おい、大丈夫か――!」
「これ火傷してない?一旦中入って!」
取り囲むように心配の声が飛ぶ中、俺は小さく首を横に振った。
「……大丈夫です。少し熱いだけなので」
そう言ってはみたものの、シャツはコーヒーでぐっしょりと濡れ、首筋の痛みはじりじりと自己主張を続けている。
でも――見せられない。
俺がここで顔を歪めれば、彼女の立場は完全に潰れる。
だからこそ、平静を装うしかなかった。
「大丈夫です……すみませんが、タオルと冷水、用意していただけますか。あちらのお嬢様も、一度個室へお通しください」
冷静な声でそう告げると、先輩執事のひとりが無言で頷いた。その視線の奥に、心配と――ほんのわずかに、信頼の色が混ざっていた。
――さて、と。ひとまずこの場を離れよう。まだ、視線が痛い。
「失礼いたします」
小さく頭を下げ、踵を返す。
背後からまだざわつきの残る空気を感じながら、一歩、また一歩と足を進め――
「シキ……さん」
不意に、背後から名を呼ばれた。
思わず足を止めて振り返る。
そこにいたのは、先ほど俺が庇った――常連になりたてのご主人様。
バチッと目が合うと驚いたような表情をして、戸惑ったような、それでいて何かを言いたそうに口を開いた。
でも、彼はそれ以上、何も言葉を発さず、動こうともしなかった。
その場に立ち尽くしたまま、何かを言いたげな目で、ただ、まっすぐに俺を見ている。
(……なんだ)
小さく首を傾げる。彼のその視線の意味は、俺には読み取れなかった。心配してくれてるんだと思うことにしよう。
「ご心配ありがとうございます」
丁寧にそう返し、再び踵を返す。
そのまま俺はその場を離れ、バックルームで手当てを受けることができたのだが――
イオリは、あのとき……何を言おうとしていたんだ?
答えの出ない問いを胸の奥に沈めながら、そっと指先で首元を撫でる。もう何も残っていない。あの時、コーヒーを浴びた肌はちゃんと冷やして、ちゃんと処置した。
一週間ほどヒリついてはいたけれど、幸いにも跡が残らずに済んだ。
件のお嬢様は、ひどくあの時のことを反省しているようで、俺とイオリの両方何度も頭を下げて謝罪をしていた。まぁ最終的には、キャストに怪我をさせたということで出禁になってしまったが、本人もそれを受け入れ、円満に解決することができた。
思えば、あの事件が起こって以来だった。
イオリが俺の名前を覚えて、ここに来るたび必ず「シキさん!」と声をかけてくるようになったのは。
しかもある日突然、「俺の中では、シキさんはヒーローなので、もう“様”付けで呼んでもいいと思うんですよ!ね?シキ様!」と押し切られ、呼び方まで“シキ様”に変わってしまった。
そんな懐かしい記憶を辿っていたところへ、イオリの声が、現実へと引き戻してくる。
「シキ様、香水変えました?シャンプーかな?前の香りも良かったけど、今回のやつシキ様の雰囲気にあってて俺めっちゃ好きかも~!」
「……うわぁ」
思わず口の中で呟いた。
ドン引きだった。キモいし、怖い。マジで怖い。顔に出てなかったか――いや、これは出ててもいいか。
だって、何が一番怖いって……
昨日、ほんの数年ぶりに、シャンプーを変えたばかりだったんだ。
(こいつ……人の匂いをいちいち覚えてるのか?)
気持ち悪い。けど――
同時に、こういうのが“女子ウケ”に繋がるんだろうな、という妙な納得もある。
「些細な変化に気づける男はモテる」昔、姉がそんなことを豪語していたのを、ふと思い出す。
そんなことを考えているうちに空席へとたどり着いた。
「……ご主人様、どうぞこちらのお席へ」
椅子を引き着席を促す。イオリは、目をきらっきらさせながら素直に腰を下ろした。
「ご主人様は、当館のルールをもう既にご存知でしょうし――省略させていただきます。ご注文が決まりましたら、そちらのベルにてお呼びくださいませ」
「それでは……ごゆっくりお過ごしくださいませ、ご主人様」
――ああ、これでやっと休憩に入れる。
深く一礼し、くるりと背を向ける。
ようやく、解放される……そう、思った矢先だった。
チリン、と小気味よく鳴ったベルの音。
「…………」
一歩踏み出しかけた足が、ぴたりと止まる。
振り返れば、イオリは悪びれる様子もなく、にこにこと手を振っていた。 目が合った瞬間、期待に満ちた声が飛んでくる。
「シキ様、このまま注文いいですか?」
内心で深くため息をつきながらも、接客スマイルは崩さない。これは接客だ。仕事だ。……たぶん。
「かしこまりました。お伺いいたします、ご主人様」
そんなことを口にしながら、脳内では休憩時間が走馬灯のように遠ざかっていく映像が流れていた。
「えっと~、今日のおすすめってどれですか?」
首を傾げて、上目遣いでこちらを見上げてくるイオリを見た瞬間、確信した。こいつ、俺と話したくてわざとやってる。
「本日のおすすめは、苺のミルフィーユでございます。また、今は季節限定のタルトタタンもおすすめでございます。」
完璧な笑顔とマニュアル通りのセリフで返す。だが内心では、さっさと決めてくれ……と何度も唱えていた。
「ん~、じゃあそのミルフィーユにしようかな。あ、あと追加でシキ様のおすすめのドリンクも聞いていいですか?」
「……私のおすすめのドリンクは、マルコポーロでございます。甘めの香りの紅茶がお嫌いでなければ、ぜひ一度ご賞味ください。」
笑顔をキープしながらも、頬がピクリと動いたのを自覚する。
「なるほど、じゃあそれにしようかな!……でも、前は違う珈琲がおすすめだって言ってましたよね?シキ様、ほんとは何が一番好きなんですか?」
なんで、俺を引き止める方向に全振りしてんだ、こいつ。
「申し訳ございません。私の心は移ろいやすいものでして――日替わりでおすすめが変わるのが、持ち味でございます」
できる限り機械的に、丁寧に返しながらも、話を強引に元のルートへ戻す。
「それ言われたら何も言えないじゃん。仕方ないな~。ま、シキ様とお話しできてるだけいっか!」
テーブルに肘をついて俺を見上げてくる。なんだその目。無駄にキラキラさせてんじゃねぇ。
「それでは、ご注文を繰り返します――」
淡々とオーダーを読み上げる。ようやく離れられる。今度こそ、今度こそ休憩だ。
そのまま踵を返してカウンターへ向かいながら、小さく息を吐いた。
……はぁ。
背中に突き刺さるような視線を振り払い、なるべく自然に、早歩きにならない程度の速度でカウンターへと戻る。
(……俺、よく耐えた。ほんと偉い)
誰に褒められるでもなく、心の中で自分を慰めながら歩いた。あれ以上イオリと話していたら、さすがに表情に何かが出ていた自信がある。
「シキくん案内ありがとう!オーダーも取ってくれたんだ、僕がキッチンに通しとくから今度こそ休憩行ってきて!」
声をかけてきたのは、先ほど休憩を促してきたスタッフの一人。
片手をひらひらと振りながら微笑むその姿に、シキは短く頷いた。
「お願いします。……助かります」
心底、本当にそう思った。このままだと、スイッチが切れてしまう。脳はもう執事モードから通常モードへと切り替えにきているのがわかった。
もう誰も呼んでくれるなよ、そう思いながら控え室のドアへ手を伸ばした。
「っ、はぁ~」
休憩室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた気が一気に緩み、乾いた吐息が思わず漏れる。
タイを緩め、軽く襟元をつまんで空気を通す。じわりと汗ばむ首筋に風が通って、ようやく呼吸が深くなった気がした。
(マジで……疲れた)
接客マニュアルには何事にも冷静に笑顔で対応って書いてあった気がするけど……無理なもんは無理だ。
たかが一人接客しただけだというのに、全身がじんわり重い。
なんでだよ。なんでアイツと話すと、普通の何倍も体力持ってかれるんだ。
椅子に腰を下ろすと、背もたれにだらりと身体を預け、そのまま大きく伸びをした。そして、力が抜けたように前のめりに机へと倒れ込む。
腕を机に投げ出し突っ伏すると、冷えた天板が頬に当たり、じんわりと気持ちいい。
それだけで、もう起き上がる気力が失せた。
でもそうはいかないのが現実ってやつだ。休憩は1時間、その間にイオリが帰っていてくれることを祈るしかない。ここでエネルギー補充しておかないと、次のシフトでまた魂が摩耗する。
(てか、あいつ……なんでシャンプー変えたのわかったんだ?)
脳裏に蘇る、あの無駄にキラついた笑顔と「今回のやつシキ様の雰囲気にあってて俺めっちゃ好きかも~!」という台詞。
……ぞわりと、背筋に寒気が走る。まさか本当に、いちいち匂いを覚えているのだろうか。
(いや、冷静になれ。俺、整髪料つけてんだぞ?今の状態なら、シャンプーの香りより整髪料の方が残ってるはずで――)
そこまで考えて、再び戦慄が走った。
「怖っ……」
小さく吐き捨て、シキは机に突っ伏したまま腕を引き寄せる。
空調の低いうなりと、遠くで聞こえる食器の触れ合う音。
壁越しの店の喧騒も、今はぼんやりとしたノイズでしかなく、むしろ心地よくさえある。
「……ねむ」
そんな呟きが漏れた直後、意識がするりと沈んでいく。
思考はゆっくりと霞み、水の底に沈むように音も重さも遠のいて――
気づけば、もう何も浮かばなくなっていた。
静かな眠りが、そっと俺を包み込んだ。
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