93℃の執着

UTAFUJI

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第三章

32話

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 依織はまっすぐこちらを見ていた。さっきまで赤くなって取り乱していた男と同じ顔とは思えないほど、静かで真剣な表情だった。

「冗談って言っておけば、もし嫌な顔されたとしても、笑って誤魔化せると思って……」

 口元が、ほんのわずかに歪む。笑おうとしてるはずなのに、うまく笑えてない。気づけば、俺たちはいつの間にか足を止めていた。

「俺、そんなに強くないんです。シキ様が思ってるより、ずっと」

 風が吹いて、向かい合った彼の前髪が揺れる。街灯に照らされた顔は、どこか心細そうだった。

「嫌われたくない。でも、距離も縮めたい。もっとシキ様のこと知りたいし、触れたいし……もっと俺のこと見てほしい。……でも、踏み込みすぎて嫌われるのは怖い」

 泣きそうな顔でこちらを見つめる依織に胸が苦しくなる。

「自分でもずるいって思ってます。ちゃんと本気でぶつかれないくせに、期待だけ……するなんて」

 夜風が二人のあいだを抜ける。駅前のざわめきが少しずつ近づいてきているのに、やけにこの場所だけが静かだった。

「ごめんなさい。困らせちゃいましたか?」

 依織は、眉尻を下げながらも、一歩距離を詰めてきた。

「でも、結局、隠そうとしてたこと全部言っちゃいましたし……」

 俺は何も言わなかった。否、言えなかった。呼吸が触れ合いそうなほど近くに来た依織の視線は、俺の逃げ道すらなくそうとしているようで。まるで、蛇に睨まれた蛙のように、俺は指先一つも動かせなかった。

「もう少しぐらい、欲張ってもバチは当たらないですよね。俺の逃げ道、なくなっちゃいましたから」

 そう言いながら、彼は指先で俺の頬を撫でる。冷えた夜の空気の中、依織が触れたところだけが熱を持っていく。

「ねぇ、シキ様」

 低く、柔らかい声が落ちてくる。

「俺は、このまま帰ってほしくないんですけど」

 頬を撫でていた手が、今度は顎に触れる。目は合っているはずなのに、依織以外を見ることは許さないとでもいうように、視線を捕らわれる。

「……シキ様は帰りたいですか?」

 顎に触れた指先が、ほんのわずかに力を込められる。視線を逸らす自由だけは残されているのに、逸らせない。

 喉が、ごくりと鳴る。

 どうしよう。返事に迷ってしまう。目の前の男が望んでいることは、たぶん俺も望んでいる。まだ一緒にいたい。それは、もう否定しようがない。でも……

 俺は、顎に添えられていた手に自分の手を重ねて、ゆっくりと、その指先を外させた。

 その瞬間、依織の表情が揺れた。目がわずかに見開かれて、唇がきゅっと結ばれる。彼は、その行動を拒絶だと受け取ったのか、傷ついたような顔を見せる。

 そんな顔をさせるつもりはなかった。

 外したはずのその手を、逃げられないように握り込む。指と指を絡めるほどではない。ただ包み込むように、自分の掌の中に閉じ込める。

 依織の体温が、じわりと伝わる。

 視線は逸らさないまま。口を開いた。

「……もう一軒だけ、行こう」

 その言葉が落ちた瞬間、依織の目が今度は違う意味で揺れた。驚きと安堵と、それから隠しきれない喜びが、順番に浮かぶ。

「……え」

 間の抜けた声が漏れる。先ほどまでの攻めるような視線は消え、代わりに熱を帯びたまま、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

「なんだよ……帰って欲しかったのか」

 少しだけ意地悪く言うと、依織ははっと我に返ったみたいに首を振った。

「ち、違います!ただ……」

「ただ?」

「驚いたというか、なんというか……」

 言葉を探している依織は、一瞬視線を落とした。俺はそれをじっと見つめる。

「で、依織」

 名前を呼ぶと、彼は即座に顔を上げた。

「もう一軒付き合ってくれるんだよな?」

 彼は、一瞬、意味を飲み込むように瞬きを繰り返す。それから、ゆっくり、ゆるやかに、表情がほどけていく。

「もちろんです!」

 それはもう即答だった。
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