底辺乗り物オタクの私―推しの推し活が、溺愛すぎる

亜 れみた

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第9話:公認のシグナル、空の王子とカメラマン

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 いすみ鉄道の小さな踏切の前。春の柔らかな日差しが、線路脇の菜の花を黄金色に輝かせている。その長閑な風景とは裏腹に、私の指先はスマホを握ったまま、小刻みに震えていた。

「どういうこと・・・?」

 画面には、音楽業界でも屈指の影響力を持つニュースサイトのトップページが開かれている。

 【空の王子・SOUDAI、NYT新曲への想いを語る――独占ポートレート公開】 

 その見出しの下に、一枚の写真が躍っていた。  あの日のスタジオ。西日が差し込む中で、ギターの弦を弾く直前の一瞬、ふっと視線を落とした壮大。ステージの上で見せる完璧な「空の王子」の輝きとは違う、どこか孤独で、けれど圧倒的に純粋な一人の音楽家の姿。  写真の右下には、控えめに、けれど力強く、私の名前が刻まれていた。 『Photo by 民亜』

「え、嘘・・・載ってる・・・私の名前が、載ってる・・・!!!!」

 叫びたかったけれど、喉の奥が熱くなって声にならない。ただのファンとして彼を追いかけてきた私が、いつの間にか彼の「公式」の一部になっている。この事実に、私の思考回路は完全にショートしていた。

 茫然自失とする私を、壮大は満足そうに、けれどどこか「当然の結果だ」と言わんばかりの余裕ある表情で見つめていた。彼はスマホをポケットにしまい、菜の花に囲まれた線路脇をゆっくりと歩きながら、静かに語り始めた。
「なんとなく、わかってると思うけどさ。取材って、必ずしもライターさんとカメラマンさんがセットで同行する場合だけじゃないんだよね」 

 彼は立ち止まり、いすみ鉄道の黄色いレールが遠くへ伸びる先を眺める。 「あのスタジオで新曲を作ってた時さ、実はメディアの取材が入ってたんだ。実際に当日、撮影だけ入る予定だったんだけど、お願いしてたカメラマンさんが急遽来れなくなっちゃったっていうんで・・・」
「え! だからって・・・」 

 私は、カメラのストラップをぎゅっと握りしめたまま言葉を継いだ。 「だからって、あんな素人の私が、隣で好きに撮っていたような写真を、そのまま公式に使うなんて・・・」 「素人? 何言ってるの。俺がその場で写真を確認して、これがベストだって判断したんだよ。プロが撮る整った写真より、君の撮った一枚の方が、俺が作ってる音を一番正しく表現してた。だから迷わずそれを使えって言ったんだ。・・・カメラマン民亜の誕生だね」
「か、カメラマン・・・」  その言葉が、春風に乗って私の耳に届く。  彼は私を、ただの熱心なファンとしてではなく、一人の「表現者」として、自分の隣に立たせてくれたのだ。

 けれど、驚きはそれだけでは終わらなかった。壮大はさらに一歩私に近づき、声を潜めるようにして続けた。 「おめでたいことはもう1つあるよ、民亜。これで君は、俺の仕事に携わった『公認の関係者』になった。

・・・これで、いろいろやりやすくなるぞー」
「え? え?」  やりやすくなる、とはどういう意味だろう。  公認の関係者。その響きは、単に仕事を手伝ったという事実以上の意味を含んでいるように聞こえた。もし私が関係者なら、これから先、彼と一緒にいることが、誰に対しても正当な理由を持つことになる。彼は、私を自分の世界の「内側」へと招き入れ、そこに揺るぎない居場所を用意してくれたのだ。

「壮大さん・・・それって、どういう・・・」  問いかけようとした私の言葉を、壮大は静かに遮った。彼はふいにつま先立ちになり、春の霞がかかった遠い空を見上げた。
 壮大が見上げた視線の向こうに、一体何が見えているのだろうか。  それは、誰もがひれ伏す「空の王子」としての新しい頂点なのか。  あるいは、私というパートナーを得て、初めて踏み出す未知のレールの先なのか。  いすみ鉄道の警報機が再びカラン、カランと鳴り響き、遠くから列車の咆哮が近づいてくる。  私たちの関係は今、ただの「推しとファン」という境界線を越え、同じ目的地を目指す一つの「列車」として、新しいダイヤグラムを刻み始めた。

「さあ、民亜。次の撮影ポイントへ行こうか。次は『関係者』として、最高の写真を撮ってもらうからね」  壮大の背中を追いかけながら、私は確信した。  この旅は、もうただのドライブではない。  空の王子が、私という一人のカメラマンを連れて、誰も見たことのない春の真ん中へと駆け抜ける、一生に一度の特別列車の始まりなのだ。

「公認の関係者」という、眩暈がするような言葉の余韻を引きずったまま、私たちは再び車へと戻った。車窓を流れるいすみ鉄道沿線の菜の花が、先ほどよりもさらに鮮やかに見えるのは、私の心のフィルターが「公式」という光を浴びて書き換えられたせいだろうか。

 助手席でスマホの画面を何度も見返し、自分の名前が載っているニュースサイトを指でなぞっている私に、ハンドルを握る壮大が、ふいになだめるような、けれど少し意地悪な声を出した。
「あーあ、そういえばさ。来月の最終水曜日はごめん。ライブがあるから構ってあげらんないや」  さらりと言ったその言葉に、私は即座に反応した。 「こっちだって用事があるから構ってあげられませんよー」
 気づけば、私はいつのまにか、推しのからかいに淀みなく言い返せるようになっていた。かつて画面の向こう側で拝んでいた存在が、今は隣で軽口を叩いている。この距離感が可笑しくて、けれど不思議と心地よい。

「えー、冷たいなあ。それって結局、口ではそう言いながら、オレに会いに来るってことだろ?」  
壮大は前を向いたまま、少しだけ口角を上げた。
 それ以上、からかう言葉は続かなかった。
 代わりに、赤信号で車が止まった瞬間、彼はごく自然な動きで私の頭に手を伸ばした。
 ぽん、と一度。

 撫でるというより、確かめるような短い接触。
 驚いて顔を上げると、彼はもうハンドルに視線を戻している。
 何事もなかったように、信号を待っていた。
 言葉はなかった。

 けれど、それで十分だった。

 ファンでも、冗談相手でもない。

 「関係者」という言葉より、今の一瞬の方が、ずっとはっきりしていた。

 壮大は前を向いたまま、強気な笑みを浮かべている。その自信満々な横顔が、まさに「空の王子」そのもので、私はあえてそっぽを向いて答えた。 「違いまーす! チケット落選して取れませんでしたー。その日はさくらトラム(都電荒川線)沿線も花が綺麗だから、一人で撮りに行くんですー。鉄道だって私を待ってますからね!」
 それを聞いた壮大の表情が、大袈裟なほど崩れた。 「あー! チケット取れなかった悔しさを思い返させるようなこと言っちゃったあー。ごめん、オレがそんなこと言ったから・・・泣いちゃう」  そう言って泣き真似をする壮大に、私は苦笑する。 「泣かないでくださいよ。本当、明日のライブ、かなり攻めたセトリだって噂だし、ファンとしては絶対観た方がいいに決まってるのに・・・」

 観られないものは観られない。けれど、彼が「観て欲しそうな雰囲気」を隠さずに出してくれたことが、何よりも嬉しかった。彼にとって私は、もう数万人のファンの一人ではなく、自分のパフォーマンスを一番に観てほしい「誰か」として認識されている。その事実だけで、チケット代以上の価値がある気がした。
 しかし、壮大は次に、耳を疑うようなことを言った。 「でもさ。・・・チケット取れなくて、逆によかったかも」 「ええええええん! 推しがひどいこと言ったー!」  私は思わず、車内で叫んでしまった。チケット難民の切実な痛みを、あろうことか本人が「よかった」なんて、あんまりだ。

「ひどいです、壮大さん! どんだけ競争率高いと思ってるんですか! みんな必死なんですよ!」 「いや、そうじゃなくてさ。・・・民亜カメラマン。次は客席じゃなくて、ステージの真下から、ライブ写真をお願いします」

 一瞬、車内の空気が止まった。 「・・・いやいやいやいや、無理ですって!」  私は全力で首を振った。 「壮大さん、いくらなんでも冗談が過ぎます。取材カメラマンが、そのままライブスチールの本番を撮るなんてありえないことくらい、私だって知ってますよ。あんな戦場みたいな現場、私みたいな風景オタクには無理です!」

 ライブ撮影は戦場だ。激しく動く光、刻々と変わるアーティストの表情、一瞬のシャッターチャンス。静止している風景や、スタジオでのポートレートとは次元が違う。  しかし、壮大はなんてことない表情で、さらりと返してきた。 「だから? 民亜カメラマンはどっちもできるから大丈夫。俺が保証するよ」 「逆です、逆! 何の根拠があってそんな・・・」 「根拠? あるよ」  壮大は信号待ちで車を止め、まっすぐに私を見た。その瞳は、少しもふざけてなどいなかった。

「ライブ写真の方が、君の得意な『撮り鉄』に近い気がしない?」 「・・・え?」 「時速百キロで駆け抜ける列車を、一瞬の歪みもなく、光の計算まで完璧にして切り取るんだろ? ライブだって同じだよ。音という速度に乗って激しく動く俺を、君のタイミングで射抜けばいい。・・・ほら、動体予測なら、そこらのカメラマンより君の方が何万回も場数踏んでるでしょ?」

 その言葉に、私は絶句した。  動体予測。確かに、向かってくる列車のヘッドライトが見えた瞬間から、シャッターを切るべき「切り位置」を逆算するのは、撮り鉄の基本動作だ。  ステージを駆ける壮大を、レールを走る列車に見立てる。  彼のシャウトを、トンネルを抜ける咆哮に見立てる。  そう考えると、不思議と、ファインダー越しに彼と向き合うイメージが、私の頭の中でカチリと「連結」されていった。

「ライブ写真の方が、撮り鉄に近い気がしない?」  壮大が放ったその言葉は、私の頭の中で脱線しかけていた思考を、見事に正しいレールへと戻してくれた。動体予測、切り位置、シャッターチャンス。鉄道写真で培ったその感覚を、ステージの彼にぶつける。 「あはは! 自分たちを電車に例えたんですか? ・・・なんだか、急にやれそうな気がしてきました。笑えてきた。じゃー、決まりです。撮らせてください、最高の『編成写真』を」

 私の快諾に、壮大は満足そうにハンドルを叩いた。 「よし。・・・でもさ、民亜。オレばっかり撮るなよ? メンバーみんな均等にな。それが『関係者』としての仕事だぞ」 「わかってます、わかってますー。ステージ全体のバランスを考えて、しっかり全員の『雄姿』を収めますから」

  私は軽口で返しながら、自分の中の「撮り鉄魂」が燃え上がるのを感じていた。被写体が列車から人間になっても、その本質を捉えたいという欲望は変わらない。

 いすみ鉄道の沿線を離れ、車は房総のさらに深い緑の中へと進んでいく。  車内に流れるのは、もちろん彼らのバンド「1825」(いはにご)の楽曲だ。重厚なドラムに、空を突き抜けるような壮大のボーカル。そして、その底辺を支える、うねるようなベースライン。 

 リズムに乗って指で膝を叩きながら、私はつい、心の奥にしまっていた「本当のこと」を零してしまった。

「私・・・『1825』で好きなのは、実はJYUなんです」

 あ。  口にした瞬間、心臓が跳ねた。

 隣に座る「空の王子」こと壮大の横顔から、一瞬にして余裕の笑みが消えた。車内の空気が、まるでトンネルに入ったときのように一気に、そして重く変わったのが分かった。
「・・・へえ。JYU、なんだ」  壮大の声は低く、平熱を保っているようでいて、どこか底知れない迫力を帯びていた。

 「1825」はメンバー全員が大好きだ。それは嘘じゃない。けれど、私がこのバンドの深淵に足を踏み入れ、狂信的なファンになるきっかけを作ったのは、間違いなくベースのJYUだった。  あの、地を這うような低音。寡黙にリズムを刻み続け、時折見せる鋭いフレーズ。鉄道に例えるなら、重厚な貨物列車を牽引する電気機関車のような力強さに、私は心を撃ち抜かれたのだ。

 今は壮大の歌声も、彼の奔放なキャラクターも、その才能のすべてを愛している。  なのに、この決定的な瞬間に、なぜか口が滑ってしまった。
「いや、あの! 壮大さんのことも、もちろん大好きなんです! ただ、きっかけというか、音楽的な入り口が・・・」  言い訳をすればするほど、墓穴を掘っている気がして言葉が詰まる。  壮大は前を見据えたまま、黙ってハンドルを握っている。その沈黙が、いすみ鉄道の無人駅の静寂よりも恐ろしい。

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