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第16話 不完全燃焼と、黄色いカレー
しおりを挟む壮大との、はじめての夜。 それは、期待とか覚悟とか、そういう言葉が出番を失うくらい、あっけなく幕を閉じた。
ふたりで地酒を飲み始める前から、壮大はすでに利き酒セットをいくつか空けていて、この上なく上機嫌だった。楽しそうに新潟の鉄道網について語っていたかと思うと、いつのまにか重力に逆らうのをやめたように、吸い込まれるようにベッドへ沈み込み、深い眠りに落ちてしまったのだ。
不完全燃焼――。
そう言葉にしてみて、私は一人で赤面して首を振る。 (何か期待してたの、わたし? ない、ないないない・・・そんなの、あるわけないじゃない)
けれど、昨夜の光景が網膜に焼き付いて離れない。 寝入ってしまった彼の大きな体を、せめて枕に乗せようと抱き上げた時の、ずっしりとした男の重み。支えた腕越しに伝わってきた、酒の熱。そして、寝ぼけた彼に不意に背中から抱き寄せられ、耳元で掠れた声で「・・・民亜」と名前を呼ばれたあの瞬間の、火傷しそうな肌の熱さ。 結局、彼はそのまま動かなくなり、私は彼の腕の中で、彼が放つ圧倒的な体温と、日本酒の甘い香りに包まれながら、一睡もできずに朝を迎えたのだ。 具体的な「行為」はなかった。けれど、ブラウスの下の肌は、今も彼の大きな手のひらが触れた場所を覚えているかのように、微かな疼きを止められないでいた。
翌朝、気まずさを隠すように早々にチェックアウトを済ませて、私たちは新潟市街地へ向かった。 今日の目的のひとつは、やっぱりバスセンターのカレーライスだった。 新潟万代シティー。そこには、時代が変わっても、駅が高架化されても、決して色褪せない「黄色い魔法」が鎮座している。 あの、もったりとしていて、どこかノスタルジックな香り。なぜこんなにも中毒性があるのか、現代のスパイス理論では到底説明できない、新潟県民のソウルフード。
私は新潟駅の工事中、仮店舗で営業していた頃から何度もここを訪れている。完全高架化までの長く険しい過程を、一人の「鉄」として見届けるみたいに、新潟に来るたびこの黄色い暖簾をくぐってきた。 そのせいで、いくら好きとはいえ、毎回カレーライスというわけにもいかず、いつのまにか「カレーうどん」や「カレーそば」といった、本流の隣にあるメニューを頼むことが増えていた。
そして、その私の「歴史」を、一人の男が完璧にトレースしようとしていた。 壮大は券売機の横に立ち、カレーライス、カレーそば、そしてそれ以外の選択肢を、ライブのセットリストを組むような真剣な眼差しで見比べている。 迷っている。トップスターが、立ち食い蕎麦屋の券売機の前で、眉間に皺を寄せて。その様子が、どうしようもなく、愛おしくて、かわいい。 このままずっと眺めていたい気持ちもあったけれど、背後には新潟の日常を支える長い列。バスセンターの人気は、今日も相変わらずだった。
順番が来ると、壮大は私を先に促した。 私がボタンに指を伸ばすのを、彼はじっと、一秒たりとも見逃さないという風に観察している。 私がカレーライスを選ぶと、彼は迷わず「カレーそば」のボタンを押し、満足げにこう言った。 「初・バスセンターのカレーライスは、民亜の皿から一口いただくとして。俺は、民亜がカレーライスの次によく食べてる、カレーそばに決めた」
一瞬、思考が停止した。 私がこれまでに何回、どのメニューを注文したかなんて、統計を取ったことさえない。でも、確かにそうだ。カレーの次のローテーションは、いつだって「そば」だった。 そんな些細な、私自身さえ忘れていたような過去を、この人は『民鉄チャンネル』を遡って、自分の中に蓄積していたのだ。 (心の中で、意味不明なツッコミを連打しながら、私は黙り込むしかなかった。この人の執着は、時々、私の想像のレールを簡単に飛び越えていく)
立ち食いのカウンター。 観光客の多くは「有名なカレー」として楽しんでいるかもしれない。けれど、ここはあくまで「バスセンター」なのだ。 鼻をくすぐる黄色いスパイスの香りと、排気ガスの匂い。そして目の前を行き交う連接バス。この絶妙な距離感こそが、新潟の「正解」なのだと私は思う。
写真に収めた私のカレーライスを、壮大が子供のような目で見つめている。 「どうぞ」 私がそう言うと、彼は私のスプーンを奪うように手に取り、一口すくった。そして、そのままためらいもなく、私の口元へ運んできたのだ。 「ほら、あーん」 ・・・まただ。 昨夜、ホテルの部屋でのどぐろを食べさせた時と同じ、甘く、けれど拒絶を許さないトーン。 周囲には大勢の客がいる。けれど、彼は帽子とマスクで「壮大」を完璧に消し去り、ただ一人の男として、私のパーソナルスペースに踏み込んでくる。 私は顔を真っ赤にしながら、その一口を受け止めた。口の中に広がるのは、いつもの懐かしい味。けれど、鼻を抜けるのは、彼の首筋から微かに漂う石鹸の香りだった。
食後、私たちは信濃川沿いを歩いた。 萬代橋の下、穏やかな流れに沿って歩くと、都会の喧騒は嘘のように消える。車もバスも、ここでは主役の座を川面に譲っている。 乗り物が何も通っていなくても、そこには確かな至福があった。 この日は、バスセンターのカレーに始まり、カレーそば、新潟のソウルフード・イタリアン、そして壮大おすすめのラーメンまで辿り着いた。 胃袋が満ちていくほど、今回の旅が「仕事」や「鉄活」の域を超えて、一つの共有された「生活」に近づいていく実感が深くなる。 完璧な夜ではなかったかもしれないけれど、それ以上に重く、確かな記憶が刻まれていく一日だった。
しかし、楽しい時間は、どんな急行列車よりも足が速い。 「帰りさ、高速バスにしない?」 夕暮れの新潟駅前。何気ない提案みたいな口調だったけれど、私は思わず足を止めた。 「え? 高速バス? ・・・壮大さんが、ですか?」 振り向いた私に、彼は首をかしげて「?」を浮かべる。けれど、この人の「?」は、いつも答えが決まっている確信犯のそれだ。 「もう取ってあるよ。三列独立じゃなくて、二列シート」
私は絶句した。 『民鉄チャンネル』では、これまで何度も東京―新潟間の高速バスを特集してきた。 独立三列シートは人気が高いけれど、私が一番「鉄の掟」として提唱してきたのは、二列シートを一人で二席占有する贅沢な使い方だ。隣り合った席に他人が座るリスクを避けるため、必ず二席予約する。それが私の矜持だった。
「壮大さん、私、二列シートなら二つ使いしか紹介してないですよ! 隣に誰かが座るなんて・・・」 「そうだね。でもさ」
壮大は悪びれもせず、むしろその状況を楽しんでいるような、濡れた瞳で私を見た。
「二列シートで、カップルがいちゃいちゃしてたって情報・・・民鉄チャンネルで聞いたよ? 俺たちも、それでいいじゃん」
拾うとこ、そこ!? 私は頭が沸騰しそうになった。これから数時間、カーテンで仕切られた密室に近い二列シートで、彼と肩を触れ合わせて夜の関越道を走る。それは、昨夜の「不完全燃焼」を、もっと密やかな、誰にも見られない形で燃え上がらせるための「特別ダイヤ」に他ならない。
「ねえ、民亜。個室バスってさ、二人で一室で過ごせるの?」 質問の形をしているくせに、主語は彼と私の二人しかいない。 (・・・バスの中では、お静かに。そう書いてあるんだから、仮に何が起きたとしても、声を出さずに耐えなきゃいけないんだ)
一瞬でそこまで想像してしまった自分に、激しい悲鳴を上げる。
これは確実に対象、私だ。彼は昨夜の続きを、この夜行の闇の中で、音を立てずに遂行しようとしている。 「・・・はいはい。そんなこと考える前に、ちゃんと座席の説明聞いてください」 私は必死で「大人の余裕」を演じながら、冷たさを装って前を歩いた。 けれど、心臓だけは、すでに最高速度の運行に入っていた。
この人の無邪気な質問は、いつも私の理性の耐久テストになる。そして私は、そのテストに不合格になる瞬間を、心のどこかで、痛いほどに待ち望んでしまっていた――。
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