弊社の副社長に口説かれています

麻生璃藤(あそう・りふじ)

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5.副社長、行動開始

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翌朝、職場に出勤する。

「三宅さん、おはようございます」

既に座っていた三宅に声をかけると、三宅はすぐさま顔を向け嬉しそうな顔で挨拶を返す。

「おはよー! よかった、元気になってる!」

言われ、陽葵はきょとんと首を傾げる、三宅はうんうんと頷いた。

「ここ何日かお顔真っ白だったから、心配してたの! 週末にホテルのスイーツバイキングに誘おうかなって思ってたけど、もう大丈夫そう!」
「えっ、行きたいです、行きましょう!」

元気が有り余っていてもだ、以前から行きたいねと言っていたホテルのバイキングである。陽葵が力強く言うと三宅は微笑み、すぐに何時にするか、予約は入れるかなどと話していると朝礼を始めようと号令がかかった、9時の始業前に5分間ほど行われるものだ。他の部署も号令がかかり部長や課長を囲むように集まり出した時、いつもとは違うざわめきがしてきた。

なんだろうと思ったのはほとんど同時だったようだ、皆揃ってざわめきの発端を探し始める、陽葵と三宅もだ。経理部の部長がジャケットのボタンを留めながら大股で歩き出すのが視界の端に見えた、その姿を見送ればフロアの出入口に立つ人物が目に入る、誰よりも背が高い尚登がいた。なぜこんな朝も早くからこんなところに──当たり前のように女子社員たちが色めき立っている。社長の仁志も一緒だったのが余計に不思議だった。その場いる全員がほとんど同時に代表取締役の登場に気づいた、おはようございますという挨拶が波のように広がる。

陽葵と三宅も頭を下げて挨拶をした、距離など関係ない、言わないわけにいかないのだ。顔を上げた時、尚登がこちらを指さすのが見えた、何故そんな行為を──考えている間に社長が笑顔で両手を打ち鳴らし、嬉々とした様子で歩き出すのが見え何事かと思った。近くの社員がその歩みの邪魔しないよう道を開く、まるでモーゼが海を割るようだと陽葵はのんきに思う、途中経理部長が出迎えたが、いいからと言いたげに手を振りなおも歩き続ける。社長の後ろを尚登もついてきた、こちらはなんとも慈愛に満ちた穏やかな笑顔だ。社長は喜色満面の笑みで息も弾ませまっすぐ陽葵に向かい進んでくる──なぜなのか、陽葵は訳も分からず立ち尽くしていたが。

「あなたですか!」

あと五歩というところで社長が声を上げた、陽葵は社長に声を掛けられる意味も判らずあたふたするばかりである。

「尚登と結婚してくださるのは!」

言いながらさらに陽葵との距離を縮めた。

「はい!?」

覚えのない単語に陽葵は声を上げる、慌てて社長の背後に立つ尚登を見ればいたずら気味に目を細め自身の口の前に指を立てた。

「可愛らしいお嬢さんじゃないか! 隠しておくとは尚登も人が悪い、こんな方がいるならもっと早く紹介しなさい!」

意味がさっぱり判らず陽葵は首を横に振り尚登に助けを求めたが、尚登はニコニコと微笑むばかりだ。

「尚登たっての希望です、藤田さんは今日から秘書課への異動となります」

社長は笑顔のままとんでもないことを言った。

「ええ!?」
「異動の日付は来月になってしまいますが、今日から尚登の秘書として働いてください」

陽葵の動揺を無視して言葉を続ける。なぜそんなことになったのかも理解できず、なによりやっと慣れ、馴染んできた経理課を離れ、社内でも美男美女しか配属されないと誉れ高い部署に異動など、とんでもないことだった。

「ま、待ってください、秘書なんて無理です……!」

社長相手とは言え抵抗で声を上げると、社長は腕を組みうんうんと頷いた。

「そうだよねぇ、いきなりとは申し訳ない、うん、今すぐ辞表でもいいよ、受理は少し先になってしまうけど、残りは休暇取得でね~。あ、それならクビにしちゃったほうがいいかなあ、会社都合のほうが陽葵さんにはお得だし!」

会社都合のクビの場合は会社にペナルティもあり、本来なら避けたいところだ。だが失業給付もすぐに出るなど従業員側にメリットはある。しかしクビなど冗談じゃないと言葉にはせず涙目で陽葵が訴えると、

「社長、お言葉ですが」

颯爽と現れ声を上げたのは、経理課長の川口麗子だった。

「経理課も暇を持て余しているわけではありません、急に一人抜けられては」
「たった一人いなくなったくらいで回らなくなるような職場は問題ですね」

社長の後ろで成り行きを見ていた尚登が初めて口を開いた。

「休みを取るのも一苦労ですね、突然死なんかあった日には化けてでも出社しないと。うちはそんなにひどい職場だったんですか」

腕組みまでして言う尚登に、川口は完全に沈黙した──実際にそこまで人手がないわけではない。それが判ったのか三宅が自分が請け負うと手を上げた、それには陽葵は心の中で違うと訴えたい、引き留めて欲しいのに簡単に引き受けられてしまっては困るのだ。

「人員は各部署と相談して早急に補充しましょう」

社長がにこやかに宣言した、部長がペコペコと頭を下げているのは、陽葵の異動が受理されたという事か。

「陽葵、おいで」

尚登が優しい声で言う、陽葵は急で理不尽な異動に首を振り答えた。

「嫌で……っ」

尚登はすぐさま自身の口の前に指を立てた、それは多くの者からは死角になる。

「詳しい話は私の部屋でしよう。とにかくおいで」

行かない、と言う前に皆の視線が集中していることに気づき恥ずかしさを感じていると、尚登が陽葵の肩を抱いた。瞬間、ひゅ、と息を呑んだが、周囲の悲鳴のような声を聞いて吹き飛んだ。体が硬直しているのを感じながらも尚登に導かれるまま歩き出す。

社長が邪魔したなと声をかければ、多くのお疲れ様ですなどと言った元気な声が返ってきて送り出される。廊下を歩き出した時、始業を知らせるチャイムが鳴り響いた。
エレベーターに三人で乗り込み、尚登が30階のボタンを押す、陽葵には未知のエリアだ。社長と副社長ともエレベーターに乗ることすらありえない、状況に息が止まりそうになるが、尚登の手がようやく陽葵の肩から外れ、その際背中をそっと撫でられて呼吸が戻り安心した。

「まったく、尚登も話が急すぎるんだよ」

社長は嬉しそうに声を上げた。

「見て判るだろ、陽葵が乗り気じゃないからだ」

尚登は横柄に答える、そして二人の視線が注がれるのを感じる──笑顔を見せねばと思ったが、できるはずもない。様子を察した尚登が指の背を使い優しく陽葵の頬を撫でた、仲睦まじく見える動作に社長はうんうんと頷く。

「尚登が何度も見合いをしていて気分が悪かったですよね、すみませんでした」

社長が申し訳なさそうに言うが、陽葵は返答できない。尚登だけが腕を組みふんぞり返った、恋人がいなくても十分失礼な回数だったと言いたい。

「うんうん、やっぱり社長の妻なんていうのが嫌なんだよね。私の妻もこちらで秘書をしていたけど、やっぱり初めはなかなか首を縦に振らなかったなあ。でも大丈夫だよ、そんなに気負わなくてもいいんだ、社長の妻じゃない、あくまで尚登の妻なんだ、尚登を支えて欲しい」

そんなことを言われても、なんでそのような話になったのかが判らない。

「私……っ」

声を振り絞ったが、尚登が再び口の前に指を立てることで言葉を封じる、素直に応じてしまう自分を陽葵は呪った。

「いやあ、よかったよかった! これでやっと日曜日の心労から解放されるよ!」
「それはこっちのセリフだわ」

そんなことを言って二人で笑い出すが、陽葵はむしろ腹が立ってしまう。陽葵の心など知らずにエレベーターは軽快な音を立てて停止した、社長がドアを押して止め先に降りるよう促す、だがもちろん陽葵はそんなことは恐れ多いと歩み出せずにいたが尚登に押され先頭で降りてしまった。
後悔している間もない。

「んじゃ悪いけど、今日は、午前はゆっくりさせてもらう」
「ああ、午後にな」

二人は手を上げて挨拶をして別れ、それぞれの執務室に入っていく。
廊下すら下階とは違い幅も広く、絨毯が敷かれている、その廊下を歩き陽葵は導かれるままに副社長室に入った。正面に大きく立派な木製の机があり、その右側の壁に沿ってある本棚と並び置かれている机にいた男が椅子から立ち上がり、朝の挨拶と共に一礼した。

「秘書の山本さん」

紹介に山本は再度頭を下げたが、陽葵が何者かという疑問は隠せなかった。

「俺の嫁」

尚登はざっくりと説明する。

「違います!」

陽葵は即答で否定した、そんな様子に山本さんは一瞬は「ああ」と嬉しそうに微笑んだが、すぐにきょとんとしてしまう。

「とりあえずは状況説明からしようか。山本さん、悪ぃけど席外してもらっていい?」

山本ははいと言って自席の脇にあるドアを抜けいなくなった、そこは秘書の控室であり、更衣室や水屋を兼ねている部屋だ。

「まあ、座って」

そのドアが静かに閉まると、尚登は部屋の真ん中にある応接セットを指さし言う。マナーでは一人掛けのソファーが下座だ──そんなことを思いながらも、着席はせずに陽葵は話し出す。

「私、副社長と結婚なんてしません!」
「しょっぱなからそれかよ」

尚登は慣れた様子で長椅子に座りながら答える。

「まあ、それについては謝ろう。陽葵は乗り気じゃないって言い方はしたんだぜ。昨夜帰ってから気になってる子がいるなんて親に話したら、すっかりその気になっちまって、なんかもう面倒だからどうでもいいかって思って、本日に至る」
「どうでもいいって……っ!」
「だから言ってんだろ、陽葵は嫌がってるって話したんだよ。でも嬉しそうに盛り上がってるのに違うって言うのも嫌だったし、花嫁候補ってことになりゃもう見合いもしなくて済むし、いろいろありがたいじゃん」

ニコニコと嬉しそうに言う尚登に、陽葵は拳を握り訴える。

「ありがたくないです! なんで私なんですか!」
「単刀直入に言えば、俺が惚れたから」
「は!? 惚れ……!?」

勢いに任せて怒鳴ってしまい、はっとする。

(副社長が私に惚れるって……!?)

「初めて会った時、声を殺して泣いてる姿がいじらしくて、なんか俺が守ってやらねえとなって思ったんだよね」

東急線の車内だ、思わず抱き寄せていた。その時は無意識に思っただけだが、その後の事と次第で、あの時にはそう思っていたと確信した。

「それから朝会うたびに元気なくしていく陽葵見てなんとかしねえとと思って──そのへんはガチだからな」

だからこそのメッセージであり、食事を兼ねて話を聞こうと言ったのだ。

「で、昨夜、妹さんに付き合ってるってことにしたじゃん? いっそのこと本当にしちまえばいいんじゃねって思って」
「そのあたりの手順が間違えてます!」

冒頭の告白はありがたく感謝できたが、本当にしちまえばと言われれば、からかっているとしか思えない、告白もなくいきなり父親とやってきて「息子と結婚、ありがとう」はないだろう。

「悪かったって。でも本当に俺だって気になる子がいるって話だけだぜ? だから少し見守って欲しいって言ったら、なんかえらいとんとん拍子に話が進んじまって、もう一家総出のお祭り騒ぎ」
「……一家総出……」

ごくりと息を呑んだ、尚登の祖父たる会長の耳にも入っているというのか。

「でも、だからって、結婚、なんて……」

結婚の必要性を感じなかった、その価値すら見出せないのは、壊れた家族のせいだろう。
早くに亡くなった実母、しばらくは父と二人きりだった生活、父の再婚によって新しくできた母と妹、そして追い出されるように遠く離れた学校への進学──これまでの人生が一気に思い出されくらくらしてしまうが、尚登は笑顔で言葉を続ける。

「まあ、ギブアンドテイクということで、俺も助けてくれよ」
「ギブアンドテイク?」

何のことだとその目を見れば、尚登はにこりと微笑んだ。

「妹さんから助けてやったのは事実だろ、俺も助けてくれ」
「た、助けるって……」

何から助ければいいというのだろう。

「毎週会いたくもない女と、笑顔の仮面つけて会わされてるほうの身にもなれよ、まったく時間と気遣いの無駄だ」

ひじ掛けに頬杖をつきため息交じりに言うのは、本当に嫌だという証拠だろう。そして社長は日曜日は断っておくと言っていた、確かに相手がいればもう見合いなどせずに済むのだ。
目黒で会った時に尚登は言っていた、身内の顔に泥を塗るくらいはいいが相手の立場を考えれば無視もできないと。

「妹さんから連絡は?」

唐突に言われ、陽葵は慌てて頭を左右に振った。

「まだ電源は入れてません」

怖くてその勇気が出なかったが、幸いそんなにマメに連絡を取り合うような友人もおらず、電源を入れていなくても心配や不安になるほど生活に支障はなかった、いっそのことスマートフォンなどなくても生活できるかもと思えるレベルだ。

「これで妹さんとの縁が切れたなら俺のお陰だし、これからあるとしたら俺がそばにいれば相手してやれる。な? ギブアンドテイク」

それは心強く、助かるのは事実だ──だが。

「でも、副社長の恋人なんて、荷が重いです」
「尚登」

尚登の名乗りにそう呼べと言うことだと判ったが、社内では肩書きでよいのではないだろうかと思った陽葵の心を読んだがごとく、尚登は言う。

「『副社長の恋人』が嫌だっていうなら、いますぐ会社は辞めてもいい」
「えっ、私、辞めません……っ」

思わず言えば、尚登は笑う。

「陽葵じゃねえよ、俺だわ」

そんな言葉にはっとして尚登を見つめた、その目は冗談ではないと言っていた。

「そもそも俺は副社長なんて柄じゃねえんだよ。高見沢家そのものならまだしも、会社については跡を継ぐ気なんか一切ない、いずれ時期が来れば辞めるつもりだ。それが少し早くなるだけだ」
「え、でも……確か副社長は一人っ子だったとお聞きしていますが……」

他に家督争いをするような者はいない、だからこそ、『社長夫人の座』を狙う者が尚登にたかるのだ。

「今どき一族経営なんて流行らねえよ。会社なんて頭がすげ変わったって機能するもんだ、法人ってのはそういうこと。それで潰れるならそれまでってことだろ」

尚登は頬杖をついたまま語り出す。

「いざとなれば誰かしら立つ、一応後釜は用意してから辞めるつもりだったけど、今すぐ辞めても俺は困らねえからそれはそれでいい。ましてや副社長なんて社長の補佐か代理でしかない、今俺がいなくなったって会社はこれっぽちも困らない」

そんなことをと思うが、まさに誰かいなくなったくらいで仕事が回らなくなるのかと言っていたのと同じことかと陽葵は納得した。

「でもまあ、現状は大したこともしてないのに金が稼げるのはありがたいから、実際辞めるのはもうちょい後が助かるんだが」

そんな言葉には思い切り力が抜けた、結局辞めないということか。

「からかうのもいい加減にしてください! 経理課に戻ります!」

出て行こうとすると、腕を掴み止められてしまった。尚登の動きは早く、素早く立ち上がり陽葵の手を掴んでいた。

「俺や親父の顔を潰すなって。意気揚々と娘さんをくださいって連れ出したのに、即刻里帰りされちゃ恥ずかしいだろ」
「秘書の仕事なんかできません! 三宅さんが引き受けてくれたとはいえ、私の仕事も途中でしたし!」
「へえ、じゃあ陽葵が経理課で仕事してる姿、俺は後ろでじっと見てようか」
「嫌です! そんなに暇なんですか!?」
「忙しいよ、陽葵をずっと見てるから」
「なに──」

馬鹿なことを、と続けようとした言葉を飲み込んでしまった。言葉どおり顔を覗き込まれ尚登の顔が近くにあった、息がかかるほどに近いことに、とくんと心臓が軽やかに跳ね上がったのが合図だった。尚登に腕を掴まれていることに気づいた、途端に全身から血の気が引いていく。顔が引きつってしまうのが判った、懸命に悟らせまいとしたが、尚登は気づいた。

「ああ、ごめん」

静かに言って手を離した。

「重症だな」

触れられるのが怖いと言っていたのは覚えている、その陽葵が青い顔のまま胸に手を当て深呼吸するのが見えた。

「まあとりあえず期間限定ってことで始めね? そうだな、お互い恋人ができたら終わりってのはどう?」

尚登の提案に、嘘の婚約をと言う事だと判った。

「……それは分が悪いので、賛同いたしかねます」

恋人などできるはずがない、尚登にだってそれくらい判っているだろうに、意地が悪い提案だと思った。

「んじゃ、1年」

1年、それなら──。

「それまでに陽葵を口説き落とすわ」

なんとも自信満々な笑みで言われ、陽葵は無性に腹が立ち言い返す。

「そのような理由でしたら、期限はひと月とさせていただきます」

嫌われたっていいと憎まれ口を放った、それを尚登は笑って受け入れる。
だからこそ陽葵は誓う、ひと月だったら嫌われる努力をしよう、あるいは逃げ回ってしまえばいい──。





陽葵は山本から秘書の仕事について教わっていた。
山本も陽葵が来るまで状況を全く知らされていなかった、当然だ、尚登と社長は出社するとまっすぐ陽葵の元へ向かっていたのだ。いきなり部下のような者が来て少々困り気味だったが、事情を聞けば快諾していたのはさすがだと思った。

「基本的には社長のお仕事の同行ばかりですので、社長付きの秘書である小西さんからスケジュールが来るのを待ちます、それは専用の端末がありますので──」

そんな話をしていると尚登の声が響いた。

「うおーい、戻ったぁ」

山本と共に声のほうを振り返り、陽葵は驚く。

「え、そんなにありましたか?」

大きな段ボールを二つも抱えていた、尚登の顔が隠れてしまうほどだ。仕事場が異動になった陽葵の荷物を、陽葵が仕事を教わっている間は暇だから自分が行こうと尚登が取りに行っていた。大量になってしまった荷物を経理課の者、特に女子が一緒に運ぶと当然名乗り出たが、尚登は当たり前に断っている。
たくさんの荷物を陽葵は慌ててそれを受け取ろうと出入口に向かうが尚登は笑顔で断る

「ああ、女子は荷物が多くて、びっくりだわ」

一緒にやってきた山本には上に乗っていた一つを運んでもらう。

「済みません」

ロッカーというものはなく、全て机にあるものだけのはずだが箱に詰めればこんなにもなるのかと驚いた。

「三宅さんっていったっけ? 手伝ってもらったけど、取り残しがあったらそれは自分で取り行けよ」

陽葵ははいと答えて箱の一つを開けば、そこには通勤に使っている鞄が入っていた。財布やスマートフォンなどの貴重品は机でも鍵がかかる引き出しに入れるが、その鍵も尚登に預けて持ってきてもらったのだ。

「しっかし、経理部は賑やかだな。座って仕事してる奴なんか少数だったぞ、揃って大きいな声でああでもないこうでもないって大騒ぎで」

はは、と陽葵は疲れた笑いが出た。それはいつもの経理部ではない、いつもはキーボードを叩く音が響くオフィスで、たまにする話し声もひそやかなのだ。尚登がいることで皆、陽気になったのだと判る。

「んだよ、まだ陽葵の机は来てないのか」

自分が経理部へ行く前に机を入れて欲しいと庶務に頼んでいた、余りはあるのですぐにお持ちしますとの答えだったが、とりあえず応接セットのローテーブルにでもと置いた時、声がかかった。

「失礼いたします」

丁寧だがなんとも圧を感じる挨拶を発したのは、秘書課の課長、落合恵美だ。

「藤田陽葵さんの新しい社員証と机をお持ちしましたわ」

ピンヒールを履いた腰をくねらせながら中へ入ってくる、そうしてまで女性らしさを強調したいのだ。

「わざわざ秘書課の落合さんが届けてくださり、ありがとうございます」

本来庶務課の仕事だろうと嫌味で礼を述べる尚登に、そうとは気づかず落合は笑顔でその社員証を差し出すが、尚登も笑顔でそれは陽葵に渡してくれと応じた。すぐさま長い髪を飛ばすかのようにくるりと陽葵に向き直るが陽葵は悲鳴が出そうになった、落合の目は視線だけで陽葵を殺さんとばかりの迫力がありすぎた。

「どうぞ」

横柄に言って社員証を差し出す、その仕草も乱暴だった。

「ありがと、ございます」
「以前の社員証はお預かりしますわ」

早く出せと言わんばかりに手を振った。陽葵は慌ててカードホルダーから計理部の社員証を抜いて差し出すが、落合はそれを奪うように乱暴に取り上げる。

「机はどちらにいたしますの?」

それは尚登にかけられた言葉だ、その媚びた声は陽葵に対してものとは大違いだ。

「山本さんのと並べてください」

尚登が言うと、机を運んできた庶務課の男たちがはいと答えた。男二人がかりで運んできた机は重厚で高級そうな木製で、経理課で使っていたオフィス家具とは大違いである。
山本の机を尚登と山本で少し移動し、新しい机を壁際に並べる、それはより尚登に近い場所だ。

「そもそもぉ、こんな突然の人事異動など、前代未聞、我田引水、言語道断ですわ。全く非常識な」

それは陽葵に向けられた言葉だった、落合は仁王立ちになり陽葵ににらみを利かせている。

「人の迷惑も顧みず」

ため息交じりに言うのは、陽葵が尚登をたらし込んだとでも言いたいのだろうと判った。別に自分が悪いと言われるのは構わないが、事実は違うくらいは言い返したい、だがそれでは尚登に責任を押し付けることに──。

「すみません、そこまでご迷惑でしたか」

尚登がにこやかに割り込んでくる、途端に落合が嬉しそうに微笑んだのを陽葵は見た。

「私が父に頼み込んだんです、陽葵が私の知らないところで他の男の目に晒されているのが耐えられなかったし」

そんなことを言いながら陽葵を背後から抱き締める──心臓が跳ね上がるのは、悪寒なのか歓喜なのか──恥ずかし気に頬を染める陽葵を見て、落合課長はなんとも苦々しい顔をした。

「意地の悪い女性もいると思うとどうにも落ち着かなくて。父もそうかそうかと喜んでくれました、知ってますでしょ、社長の行動力」
「ええ、まあ……」

落合はつまらなそうに相づちを打った。行動力とは仕事の面でも発揮されているが、恋愛においてのことである。尚登自身、自分が生まれる前のことでもあり、詳しいことを知っているわけではないが母曰く父に口説かれたといって数々の逸話を聞かされたことがある、それを肯定する落合の返事だった。
片思いを続けている男の恋の話を終わらせようと、落合は不機嫌に「失礼します」と挨拶し部屋からささっといなくなる、机を運んできた男二人も設置が終わると一礼して出て行った。未だバックハグ状態の陽葵たちを見て、祝福するように微笑みを残していくが陽葵はやや居心地が悪い。

「悪いな、あのババア、うちの母と、親父の取り合いをして負けたのを未だに根に持ってるらしい」

尚登が耳元で説明する、だが返事すらない陽葵の様子に気が付きすぐに離れた、寸前、優しく髪をひと筋取り、撫でるように離す。

「まあ気にすんな」

取り合いというなら結婚前、尚登の年齢より前のことだと思えば、確かに根は深そうだが、ババアという呼称はどうかと思うと、

「副社長、少なくとも社内でババアはやめましょう、藤田さんにもよくないです」

山本が陽葵の机を拭きながら、やんわりと笑顔で叱った。

「でもまあ、言いたくなるお気持ちは判りますけど。副社長は私の息子同然、とかよく言ってますしね」

そういうことを隠さない落合が怖いと陽葵は思った、未だ社長が好きなのだ、でなければ恋敵に負けたのに同じ会社で働き続けないだろう。

「落合課長が未だに独身なのも未練がおありなんでしょうね、お見合い相手も半数ほどは落合課長が仲介しているそうですよ」

自分は想いを遂げられなかったから代わりにということか──陽葵はぞっとしてしまう。

「マジありえねえわ、気持ち悪すぎなんだよ」

さすがに今度こそ本気で同情した。それを知っていて見合いに赴いていた尚登が偉いとすら思う、そしてどんなに気の合う女性が現れてもその人と結ばれることはなかっただろう、落合に貸し借りは作りたくないからだ。
自分はその見合いを止めるための存在だ──早く尚登に意中の女性が現れればいいのにと心から願った。





午前中は荷物の片付けと、秘書としての仕事の内容の説明を山本にしてもらっているうちに終わってしまった。

「飯、飯、飯にしよう」

席で書類を見ていた尚登がそれを机に放り出しながら声を上げる。

「外へ出ますか?」

山本が笑顔で聞くが、

「面倒だから出前頼もう、俺、ハンバーガー食べたい」
「またそういう、ファストフードなんて」

やんわりと叱る山本さんが優しい。

「親父たちいるとそういうの食えないじゃん、陽葵、何食べる?」

スマートフォンでメニューを見ながら言葉に、陽葵はその画面を覗き込んだ。

「えっと……チキンてりやきを、サラダセットで」
「オッケー、山本さんは?」
「私はダブルチーズバーガーのセットをサイズアップでお願いします」
「食べるんじゃん」

言いながらもそれをカートに入れて精算する。

「届いたら受付から連絡があるので、下まで取りに行きます」

山本から教わり、陽葵はそうかと思いあたる。自分たちは出前など頼んだことないが、きっと同じだ。上には来てもらわずに受付で受け取のだ。もっとも重役などでなければ、受付嬢たちはきっと嫌な顔をすることだろう、尚登だから許されるのだ。

「普段は社長と一緒に、取引先の方たちと会食となることが多いです、その時は私たち秘書は別室で食事を摂ることになります」

そんなにしょっちゅう外食なのかと驚いた、昨日の高級中華などに行っているのだろうか、羨ましいような、堅苦しくて嫌なような。

「毎日そんなの食ってたら血糖値上がるわな。ジャックフード、最高」
「ジャンクフードもいかがなものかと思いますけどね」

尚登の言葉を山本がすかさず突っ込む様子に仲の良さが判った。先日の食事の礼もガリガリ君でいいなどと言っていた尚登だ、金銭感覚は庶民に近いのかもしれない、そう思うと笑顔になっていた。

「陽葵もジャンクフード好き?」

陽葵の笑顔を見た尚登が聞く。

「え、はい……嫌いじゃないです」

少なくともマナーが気になる高級な料理よりは、ずっと好きだ。





午後は早速秘書としての仕事を始めることになる。

「藤田さん、この書類を──」

隣に座っていた山本が数十枚はあろうかという書類の束を陽葵の机にどさりと置いた、決して乱暴ではない動作だったが陽葵は必要以上に驚いてしまう。

「あ、すみません、びっくりさせてしまいましたね」

山本がいい人だと知っている、それでも急な動作や大きな音には恐怖を覚える。山本に嫌な思いをさせてはいけないと冷静を装うとしたが、いいえと答える顔は凍り付いたように感じた、平静を保たなくてはと思うほど呼吸が乱れていく。これは駄目なやつだと瞬間判った、吸っているのに息苦しい、焦るほど呼吸は乱れて──。

「陽葵」

席に座っていた尚登は、様子を察しすぐさま陽葵のそばに立った、わずかに起きた風が尚登のいい匂いを運び、陽葵はなおも息を吸ってしまう。

「大丈夫だ、息を吐いて」

髪に息がかかり言葉が沁みる、尚登は判ってくれている、それに安堵した。言われるままに息を吐き、吐ききれば息が吸える。ゆっくりと言ってくれる声とわずかに感じる副社長の呼吸に合わせて何度か行えばようやく生きた心地が戻ってくる。安堵のため息を吐いたのを尚登は感じほっとする。

「あんま陽葵に近づくなよ、山本さん」

放った言葉は軽口だ、山本も明るく「はいはい」と答える。

「申し訳ありませんでした、藤田さんも副社長が大好きなんですね」
「え、ちが……」

相手に関係なくだと言いかけたが、尚登に髪を撫でられ言葉は飲み込んでしまった。

「今どき、こんなに紙の書類があることにびっくりしたんだよな。悪いな、トップ連中が昭和の頭だからいつまで経ってもこのシステムが終わらない」

言われて陽葵は確かにと思った。経理部は既にペーパーレスで仕事をしているが、上層部はそれをわざわざ出力して決済しているのだと知った。なによりそんなことを言って誤魔化してくれる尚登に感謝した。





14時、社長の共で外出する尚登に同行することになる。地下駐車場に行き社用車に乗り込むが、運転手は山本であることに陽葵は驚く。

「え、秘書って運転もするんですか?」

意外だった、そして陽葵は免許を持っていない、それを理由に秘書などせずに済むか──だが山本が笑顔で説明する。

「本来は車ごとに専属の運転手が付いているのですが、副社長の意向で私が運転しています」

見れば別の車で出かける社長のほうには運転手がおり、ドアを開け社長が乗り込むのを手伝っていた。

「私がいなくなった時は、運転手の配属をお願いすればいいですよ」

山本がエンジンをかけながら言うが、その前に自分は経理課に戻りたいと陽葵は節に願う。

「余計な人件費の削除だよ、俺が運転するって言ったら万が一の事故が起きた時に問題だからって許可が下りなかった。信用ねえよな」
「ご自身が気を付けていても巻き込まれることもあるでしょう。その時に末吉の副社長がなんてニュースが流れたらとんだゴシップだからですよ」
「そうなりゃ、ありがたく引責辞任なんだけどなぁ」
「まぁたそんなことを」

笑顔の山本の軽口に、やはり二人は仲がいいのだと判る。ほぼ尚登が入社した時からの付き合いだと聞けば、かなり気心の知れた存在なのだと陽葵は思った。辞めるだなんだと冗談でも言える関係なのだ。





都内で2件の仕事をこなした、社長も同席の接待と商談である。
渋谷のホテルでの接待の折り、山本が別室で待とうと陽葵を誘うが、社長は笑顔で陽葵は一緒に来るように言う。ようやく決まった尚登の花嫁候補を早速紹介したいのだが、陽葵はわずかに顔が引きつってしまう。社長が会うほど相手だ、どんな人なのかも判らず、ましてや初対面──嫌だと思う感情を察知するより前に、尚登がそんな必要はないと止めくれ安心した。
それらを終えて帰社した時にはもうまもなく退社という時間だった、営業の者なら直帰しているだろう。しかし社長は人に会う予定があると言って品川で別れ、尚登も一旦会社に戻ってきた。

「藤田さんはお帰りいただいても?」

確かに陽葵は現時点で全く役に立っていない、地下の駐車場から上がり上層階へ行くエレベーターに3階で乗り変える際のエレベーターホールで山本が言う。

「いや、一緒に帰るから、ちょっと待ってろ」

尚登が笑顔で言うので陽葵はおとなしく従うことにした、それも仕事だと思った。やって来たエレベーターには陽葵が最初に乗り込み30階のボタンを押す。

「あ、すみません、専務のところへ寄りたいです」

そう言って山本が脇から操作盤に手を伸ばした──目の前に現れた手に陽葵の体はびくっと反応してしまう、やはり唐突に近づくような動きは苦手だ。瞬間尚登に腕を引かれ、その場から離された。

「えっ、すみません、当たってしまいましたか? って、そんなあからさまに邪険にしなくても、副社長の奥様に手出しはしませんよっ」

尚登の行動に山本は笑顔で抗議をする。

「ダメだね、陽葵に近づく者は許さん」

こちらも笑顔で応え、陽葵からはすぐに手を離す、陽葵が接触恐怖症であることを理解してくれているのだと思えばほっとした。
専務の部屋は1つ下の29階だ。行けば当然のことながら陽葵のことは知られており、仕事の話より陽葵のことで盛り上がってしまい陽葵としては居心地が悪い──完全に外堀から埋められている感覚である。
連絡事項と書類を手渡し、30階の副社長の執務室に入ればなお尚登には副社長としての仕事はあり、決済の書類を片付け、明日の予定を語る山本の話を聞き、1時間ほどしてようやく退社時間となった。
正面玄関である2階でエレベーターを降り、ガラス製の自動ドアを抜けるとJR線を使うという山本は一礼して去っていく。陽葵はみなとみらい線だ、そこからさらに地下へ降りるエスカレーターを使うのだが。

「あの……副社長のご自宅はどちらで」

小さな声で聞いていた、山本と行かなかったということは、JR線や市営地下鉄ではないということだが。

「田園調布」

尚登はにこりと答える。言わずと知れた高級住宅地の名を聞き、思わずその名を繰り返しさすが創業者一族は違うと納得した。

「まあ、バブル期はかなりえぐい地価になったらしいけどな。買ったものじいさんのそのまたじいちゃんの時代で全然良心的な値段で買ったって言うし、今は値崩れしてずいぶん手頃な値段になってるぜ。売る時期を間違えたなんてじいさんはぼやいてる」

とはいえネームバリューはけた違いだ、セレブであることには違いない。

「あ、じゃあ、目黒からの帰りはご自宅を通過してしまいましたね、申し訳ないです」

まさにその日は田園調布で乗り換えたのだ。

「そんなの、全然」

尚登はなおも笑顔で答える、陽葵を送り届けることなどまったく苦ではない。

田園調布駅ならば同じ出発駅だ、方面は下りと上りとなる。二人で並び改札がある地下3階まで続く長い長いエスカレーターを降りていく、改札を抜けホームで電車を待つと、すぐに来たのは下り方面の電車だった。しかし副社長たる尚登は見送るべきだと動かずにいると、尚登は体で陽葵を押した。

「え、ふくしゃちょ……」
「んだよ、帰ろうぜ」

押されるままに電車に乗り込んだ、戸惑いつつも乗り込み、今日も家まで送ってくれるのかと納得した。
席は空いていたが乗るのはたった二駅だ、座ることなく日本大通り駅に到着する。地上に上がりすぐの角を左に曲がり次いで右に曲がり、マンションの入り口がある路地に入ろうとした時。

「尚登さま」

遠くからの声に尚登は足を止める。

「ああ、石巻さん、遅くなってごめん」

尚登が声をかけたのは道を渡った先にある角にある駐車場だった、初老の男性が頭を下げたのは陽葵と目が合ったからだ。尚登はそちらへ歩みを進める。

「爺やの石巻さん」

十分近づいてから紹介した。

「爺やではございません」

厳しい顔をしたまま石巻は否定する、しかしすぐに表情を緩め陽葵に深々と頭を下げて挨拶をした。

「陽葵さま、お初にお目にかかります。高見沢家にて雑務をこなしております、石巻と申します」

執事のようなものだがそのような職種としては就いていないため、そう自己紹介をしていた。

「お聞きする以上にかわいいお方で、勝手ながら大変喜ばしく思います」

石巻の言葉に恥ずかしさが増す、尚登はどのように自分のことを伝えているのだろうか。

「手ぇ出すなよ」
「出すわけがございません、わたくしからしたら孫のようなお嬢様に」

尚登の笑顔での冗談に石巻は大真面目で答える、こちらも仲がいいのだと陽葵は思う。
しかしなぜ執事がこんなところに──石巻が黒塗りの車のトランクから大きなボストンバッグとスーツケースを取り出した。尚登は礼を述べてボストンバッグを肩に担いだ、ということはそれは尚登の荷物なのだろう、なぜそんなものが──。

「こちらはわたくしが」

スーツケースは石巻が運ぶと告げれば尚登は礼を述べて颯爽と歩き出し、道路を挟んだはす向かいにある陽葵のマンションへ向かう。

「え、え、副社長……!?」

そんな荷物を持っていく意味が判らず戸惑う陽葵を石巻がエスコートする、たくさんの荷物を持ち我が家へ向かう意味に気づき、陽葵は声を上げる。

「ふ、副社長! ちょっと待ってください!」

尚登はすでに集合玄関の自動扉の前に立ち、笑顔で陽葵の到着を待っていた。

「どういうことですか! 私の部屋に来るってことですか!」
「ああ、一応婚約ってことだろ、正式にはまだだけど。だったら陽葵と同棲ってどうよって言ったら、うちの親はオッケーって」
「私がオッケーじゃないです!」

今まで来客すらなかった部屋に、義理とはいえ妹さえ受け入れがたいと思っていた部屋に、よりによって副社長が来るとは、しかも一緒に住む前提とは──!

「少しくらい相談する時間はいくらでもあったじゃないですか!」

今日一日ずっと一緒にいたのだ。

「言ったら嫌がるだろ」
「判ってるなら……!」
「俺は陽葵と1分でも1秒でも長く一緒にいたいからじゃん」
「私は思ってません!」
「バカ正直だな、傷つくわ」

石巻が「尚登さま」と諫めた。

「──少々お話が違うようですが」

陽葵の家には度々出入りしており、同棲はいつからでもと話していた。

「だから、陽葵は交際を隠しておきたいんだって言ってんだろ」

尚登は笑顔ながら、乱暴に答える。

「こっちの方が会社にも近くて便利だし」
「それが本音ですか!」
「うん」
「本当に……!」

ふざけないでと怒鳴る前に、石巻が声を上げる。

「尚登さま、あまりデリカシーがない行いをなさると振られますよ」

尚登はにやりと笑って答える。

「振られるのは辛いなぁ」

言って陽葵に「な?」と首を傾け同意を求める、そんな少年のような瞳と仕草に陽葵は抵抗の言葉を忘れてしまった。

「ああ、その荷物は陽葵が持ってきて」

石巻が持っていたスーツケースを指さす。

「重さもございます、お部屋までわたくしがお届けいたします」

石巻は言うが、

「ここは陽葵の部屋だし、近づいてほしくない」

尚登が厳しい声で言えば石巻はすぐさま「はい」と答え、スーツケースを陽葵のそばに置いた。思わずそれにすぐ手をかけてしまい、陽葵は愚かだと唇を噛む。

「ではわたくしはこちらで失礼いたします」

深々と頭を下げた、尚登は「ああ」と答え、陽葵も頭を下げると石巻は踵を返して帰っていく。

「荷物、重い」

早くドアを開けてくれと尚登が訴えれば、陽葵は慌てて集中ロックを外す。確かに尚登の肩にかかるボストンバッグはパンパンだ、それを担ぎ直し開いた自動ドアから尚登は揚々と入って行く。

「え、あの、副社長……っ」

尚登はエレベーターの場所を知っている、勝手知ったるその場所へまっすぐ向かい上行きのボタンを押す、嬉しそうな様子が伺え、陽葵は人の気も知らないでと気が滅入る。

「心配すんなよ」

陽葵の表情を読み取った尚登は言う。

「陽葵がその気になるまで、絶対手出しはしない」
「当たり前だし、そういう問題じゃないです」

自分は交際を認めていない、なのに何故一緒に住まなくてはならないのか。

「妹さんに一緒に住んでるって言っちまった手前、それは実行したほうがいいだろ」

そんな声だけは真面目に発する。

「ずっとスマホの電源落としとくわけにもいかないんじゃね?」

確かに、と思ってしまう。そんなに頻繁に連絡があるわけではなく、なくても困らない道具だとは思うが。

「妹さんにビクビクして暮らしてらんねぇし、陽葵にとって悪い条件じゃないと思うんですけどね?」

その通りだなどと納得してしまった時、エレベーターが1階に到着した。既に拒絶の気持ちは弱くなっていた、先に乗り込む尚登に続いて乗り尚登がボタンを押して待つ様子にはっと気づく。

「え、あ、すみません……っ」

慌てて操作パネルの前に割り込む、開け閉めは秘書の仕事だ、よりによって副社長にやってもらってしまうとは。

「別に俺は気にしねえよ、プライベートはもちろん、仕事上でも」

今日一日そばにいて、それは十分理解できたが、それでもである。

「まあ、他人の目がある時はそういうわけにはいかねえんだろうな」

陽葵は大いに頷いた、秘書課の落合など烈火のごとく怒ることだろう。
尚登は何も聞かずに7階のボタンを押していた、それも会社のデータベースにあった情報だ。

「とはいえ、カノジョだ嫁だってことになったんだから、もうちょいフランクでもいいんじゃね?」
「そんなの、無理ですよ……」

陽葵にとって尚登は副社長でしかない、副社長など雲上人だ、その尚登の恋人役など、自分には力不足もいいところである。

「まあ少しずつ慣れて欲しいもんだね、俺というより人間ってもんにさ」

言われて驚いた、陽葵が人付き合いが苦手だと判っている──思わず見上げれば尚登はにこりと微笑み応える、笑顔が眩しく感じ陽葵は慌てて目を反らしていた。

エレベーターを降りると両サイドにドアが並ぶ廊下を歩き、右手2番目のドア、東側、702号室が陽葵の部屋だ。
玄関の錠を外しドアを開け尚登をいざなった。玄関を入ればすぐにリビングとなる、間仕切りに長い暖簾をかけているため狭く感じる玄関に尚登は足を踏み入れる。

「お邪魔しまーす」

尚登は言って革靴を脱いだ。

「スリッパもなく、すみません」

一人暮らしではスリッパなどなくても事足りる。

「別に、気にしねぇー。お、意外と広いじゃん」

暖簾を捲った尚登が声を上げる、約15畳ある、もっともワンルームだ。

「えー、こんなとこ、家賃もおたけ―んじゃねえの?」
「意外と、意外となんです」

この立地と広さで8万円は破格だと思う、築年数がいっているためだ。陽葵の給料で払えない額ではなく、会社にも近いなら文句はなかった。

「にしても殺風景だな」

室内を見回した尚登は笑う、目立つ大型な家具はベッドくらいだ。タンスや机はなく、テレビは壁掛けである。食器も造り付けの棚で足りていた。書き物やパソコンはダイニングキッチンにある二人掛けの小さなダイニングテーブルで事足りている。

「ベッドはシングルだけかぁ、一緒に寝るには狭いな。明日買いに行くか」
「はい……?」
「今日だけは一緒に寝ような」
「はい!?」

副社長と一緒に──陽葵は青ざめた。

「無理です! 副社長はホテルに……! そうです、わざわざ一緒に住まなくても、近くにホテルがあるじゃないですか!」

老舗の四つ星ホテルもあれば、場所柄リーズナブルなビジネスホテルまでよりどりみどりである。

「えーじゃあ陽葵も一緒に行こうぜー」
「嫌です! なんでですかっ、めんどくさいですっ」
「面倒って言うな」

一番は外泊のための準備だ。ここならばでも手が届く距離にありなにも困らないのに、なぜわざわざ近くのホテルに外泊などせねばならぬのか。

「同棲してるってことにしないといけないのに、俺だけホテルってのはおかしいだろ。金かけてまで……あ、もちろん生活費はお支払いしますんで」

尚登は腰を低くし、手を揉みながら言った。

「副社長にもそんな価値観があったんですね」
「無礼な。金は大事よ」
「じゃあわざわざベッドは買わずに、ご自宅にお戻りくださいっ」
「早速陽葵に追い出されたなんて恥ずかしいじゃん。ああ、実家で使ってたのをこっちに送ってもらうか。そしたら陽葵に追い出されずに済むし、でもそうしたら一晩じゃ済まねえよ?」

にこりと微笑み言う尚登の言葉に、陽葵は拳を握り締めた。届くまで何日かかるのか、それまで一緒のベッドなど──そんな陽葵の表情を読んだ尚登は嬉しそうに頷き提案する。

「んじゃ、明日一緒に買いに行こうな」
「え、あ、明日は……」

明日とキーワードで思い出した、朝礼の前に三宅と出かける話をしていたのだ。朝話したきりだ、流れてしまっただろうか──。

「予定があんのか?」
「ええ、スイーツバイキングに行こうと……」
「へえ、いいな。俺も行く」
「嫌です」
「即答かよ」

言うが尚登は笑顔だ。

「そもそも、ちゃんと話は詰めていなかったので、行くかどうか……」

なにか連絡は来ているだろうか、陽葵は慌ててスマートフォンの電源を入れたが起動までにはしばらくかかる。

「あ、なあ、スーツくらいクローゼット借りていいか」

皴がついては困るものだ、陽葵はどうぞと言って造り付けのそれを開いた、中を見た尚登は笑う。

「本当に物がねえな」

ありがたいことに1間半もある大きさのクローゼットだ、しかしその半分も埋まってはいない、プラ製のタンスもそこに収めてある。

「物欲はないかもしれません」

服にも雑貨にもときめくことはなかった。今でこそ末吉商事に入社し金は潤沢になったが、大学まで寮生活だったせいだろうか、金を遣おうという方向へは動かないようだ。

「タンスは少し整理すればひとつくらい引き出しが空くと思います」
「おお、助かるー。飯はどうするー? そこそこいい時間になっちまったから、外にでも行くか。食材もいきなり二人分は無理だろ」
「はい」

冷蔵庫にはそれなりに食材は入っているが、二人分ではなにが作れるだろうか。夜の分は足りても明日の朝が困るかもしれないならば外食に行き買い物を少ししたほうが良いかもしれない──と考え、はっとする。

(待って! 私、副社長が住むことを容認している!)

「下に蕎麦屋あったな、そこでいいか。少し行けばファミレスもあったよな。中華街に元町も徒歩圏だしそこまで行ってもいい……って、マジですげーとこ住んでんなあ」
「ええ、まあ……」

しかし陽葵は通り抜けたことがある程度で、買い物はおろか飲食などしたことはない。スマートフォンがやっと起動した、通信アプリにたくさんの着信が付いているのを見て、一瞬どきりとする──ここ最近は史絵瑠からの連絡が多かったからだ。おそるおそる開けば、幸い半分ほどは三宅からで残りは企業からなどプロモーションだ、史絵瑠からは来ておらずホッとした。

【もう! やっぱ副社長となんかあったんじゃーん!】

そんなメッセージにため息が出た、なにもないと大きな声で言いたい。

【陽葵ちゃんいなくなっちゃって淋しいよぉ】【陽葵ちゃんは今ラブラブの真っ最中だと思うと余計に腹が立つぅ!】

漫画のキャラクターが怒っているスタンプも送られている、ラブラブなどではない。

【陽葵ちゃんが手の届かない人になってしまった】

ウサギが泣くスタンプが添えられていた。

【明日のスイーツバイキングは諦めるよ~】

今の今まで忘れていたとはいえ、行きたいという気持ちが高まってくる。

「あの、副社長、明日はスイーツバイキングに……」

行ってもいいかと声をかけようとすれば、尚登はクローゼットにしまう手を止め肩越しに振り返り、微笑みながら答えた。

「うん。俺も一緒なら行ってもよし」

それは絶対に嫌だと言葉にはしなかったが、はっきりと来ないでと伝えてもついてくるだろうと妙な確信があった。少し時間を置いて、尚登の気持ちが落ち着いてからにしようと結論付ける。

【返信遅くなりました】

ダイニングテーブルに座りメッセージを打ち込む。

【電源を落としてそのままでしたので、気づくのが遅くなりました】【スイーツバイキング、すごく行きたいんですけど、少し落ち着いてからでもいいですか?】【絶対行きたいので、忘れないでください!】

よろしくお願いします、というスタンプと共に送った。
その返信が来たのは山下公園近くのファミレスで食事をしている時だった、幸いにも「都合がいい時に是非行こう」と書かれていたが、余分な文章もついてきた。

【その時には副社長もご同席でね!】【馴れ初めとか、いろいろ聞きたいもーん!】【あの調子じゃ副社長がべた惚れって感じだもんね!】【きゃあ!】【副社長か、いいなあ!】【むっは! 会うの、楽しみー!】

ハートや笑顔の絵文字たっぷりの文章に、むしろ尚登に会うのが目当てではなかろうかと思えてくる。馴れ初めなどない──会うなら尚登抜きで会わなくてはと心に誓った。





帰宅してすぐに風呂を済ませる、陽葵からすれば上司で客人たる尚登に先に入ってもらおうと思ったが、尚登はお先にどうぞというので言葉に甘えて陽葵が先に入ることにした。
いつもなら入浴後の身支度はバスタオルを巻いた姿でダイニングテーブルに座り込んでするが、尚登もいる手前そんな姿でフラフラするわけにもいかず、脱衣室にケア商品をすべて持ち込み、下着も寝間着も持って入った。そんなことだけでも面倒だと感じてしまう。尚登のようなハイスペックな人を招き入れておいてなんだが、やはり長く一人で暮らすことに慣れた自分には、他の誰かと一緒に暮らすなどやはり無理だと改めて思う──それが史絵瑠だとしてもだ。

(史絵瑠……どうしたらいいんだろう……とりあえずあの家から出してあげたらいいのかな。あるいは私が戻って見張って……ううん、それは史絵瑠とここで一緒に住む以上に無理だ)

生まれ育ったはずの我が家が牢屋のように感じるのはなぜだろう。実家へ戻るのも無理、この家で一緒に住むのも無理ならば、新たに二人で暮らすのに合った部屋を探せばよいのか──史絵瑠の負担が少ない範囲で二人で家賃を出し合えばなんとかなるだろうか──一緒に住んでも、親の干渉は受けずに済むだろうか。
昨日から電話やメッセージもないということは諦めたのか、仲が良い男性はいたようだ、その人を頼ったのか──堂々巡りに答えはなく、陽葵は髪もきっちり乾かし、寝間着を着込み脱衣所から出た。

「あの、お先にいただきました」
「おーう」

ダイニングテーブルでパソコンを開いていた尚登は、返事をしながらパソコンを閉じる。

「お仕事ですか?」

思わず聞いていた。

「まさか。時間外勤務はしない主義」

尚登は笑顔で答えてゲームだよと言葉を添える。

「お風呂お借りしまーす」

明るい声で言い風呂場に向かう。ゲームの画面ではないことなど陽葵はお見通しだった、どう見てもメールを見ていたが、仕事をしている様子を見せたくないんだろう。

30分ほどで出てきた尚登を見て陽葵は息を呑んでしまった。
当然のことながら、ラフな格好の尚登など初めて見る──いつもはワックスで流れを整えた髪が揺れる様に色気があった、プライベートなパジャマ姿も無防備で普段の数倍見目麗しい。

(ヤバい……! こんな副社長……! 筋金入りに、かっこいい……!)

慌てて視線を反らせた、自分にも男性にこんな感情を抱くのだと判り、変な感覚に陥る。

「んじゃ、寝ますか」

尚登は明るく言ってベッドに歩み寄る。もともとベッドは片側を壁に寄せるように配置してあったが、50㎝ほど離しどちらからも入れるようにしたが──。

「ほ、本当に一緒に寝るんですか……?」
「床ってわけにもいかないだろ、予備の布団も寝袋すらないのに」

確かに来客など想定していないため、そんな準備はない。

「背中合わせで眠ればいいんだろ?」

言って尚登は壁寄りの場所に潜り込む。男性と添い寝、しかも副社長だということに陽葵の理解は追い付かない。

「あの、やっぱり私がホテルへ……」
「今更? パジャマで外に出るのも嫌だろ、第一風呂上りじゃ風邪ひくぜ?」

確かに今更支度も大変だ──陽葵は戸惑い、指をもじもじと動かす。

「心配すんなよ、絶対触らない」

優しい笑顔で言われて陽葵は諦めた。無茶なことはするが立場は副社長だ、自分が言ったことを簡単に覆したりはしないだろうと信じた。
部屋の照明を落としベッドに潜り込み、言われたように背を向けて体を横たえる。

「おやすみ」

尚登の声に陽葵も答える、つい先日はその言葉で別れたことを思えばなんとも不思議な状況だ。

陽葵は目を閉じた、触れているわけではないのに背中合わせの背の大きさを感じる、温かく大きな背中を──いつもよりすんなりと眠りについていた。





真夜中、ベッドの揺れに尚登は目を覚ました。
自身は既に寝返りをうっており、その視界に眠る陽葵がいた。背を向けていたはずの陽葵も今は仰向けになり顔はこちらに向けている。

(──かわいいな)

寝顔に見とれた。風呂上がりで化粧をしていないが元より口紅程度の化粧なのだと判る、普段見るかんばせのまま穏やかに寝息を立てていた。
無防備に熟睡する陽葵にほっとした、これほど近くにいるのも嫌というほど嫌われているわけではない。

できるなら抱きしめたい。

その気持ちを延ばした指先に込める、指の背でそっと髪を撫でれば艶やかな感触が判り愛おしさが増した。

できるなら滑らかな肌に触れたい、その衝動は懸命に堪える。自分の欲を満たすより陽葵の心を溶かすことが先決だ。
それでも今度は陽葵の髪に指をかけ捉えた、だが陽葵は変らず規則正しい寝息を立てるばかりだ。

(接触恐怖症は精神的なものか──)

触れる感覚がダメならばこの程度でも目を覚ましそうなものだが、そこまでではないようだ。別に無理に直すつもりはない、自分だけが触れさせてくれればいい──妙な独占欲が湧いてくる。
どんな災厄からも守る──こんなに誰かを愛しいと思ったのは初めてだった

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