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6.同棲初日

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温かさを感じていた、ぬくもりが心地よい──湯たんぽのようだとそれに足をこすりつけ身を寄せていた。大きな湯たんぽだ、だが寝ぼけた頭で思う、湯たんぽなど今まで使ったことなどないのになぜそんなものが──眠りから浮上する意識の中で思っていると、優しく抱きしめられ髪も撫でられた。
撫でられるとは──息を呑み目を開くと、すぐ目の前に尚登の寝顔があった。

「ひ……!」

いろんな意味で悲鳴が出る、副社長に触れた、人に、男性に抱きしめられた──! 慌ててその腕から逃げるように体を離せば、尚登が目を覚ます。

「おう、陽葵、おはよ──」
「さ、触らないって言ったじゃないですか……!」

ベッドを抜け出しながら陽葵は訴えた、よりによって抱きしめるとは──!

「言っとくけど、先にすり寄ってきたのは君の方だぜ。そしたら腕の置き場に困るじゃん」

言われて陽葵は確かにと思う、尚登は十分ベッドの端にいる、自分が寝返を打ち押しやってしまったのだろう。しかもすり寄った覚えはある、温かくて心地よかったのだ。

「す、すみません……」
「別に。かわいかったし」

そんな誉め言葉は嬉しくなかった。寄るな触るなと言っておきながら、自らすり寄るなど恥ずかしいことこの上ない。
その恥ずかしさをごまかすためにいったん洗面所へ向かった。顔だけを洗い、部屋に戻り着替えようとしたが尚登がいてはできないと、着替えを持って再度洗面所に入る。そんな手間がやはり面倒に感じた。





身支度を整えるとブランチといっていい朝食を摂りに外へ出た。度々の外食は陽葵の良心が傷む、普段は自炊ばかりだ。もちろん代金は尚登が払ってくれているがそれがいいことだとは思えない、あとでしっかり食材を買い込みに行かねばと決意する。

ファストフード店でのんびりと食事を済ませ、そのままベッドを買いに出る。ご飯を食べている間に尚登は家具店をネットで調べていた、横浜スタジアムの近くに専門店があるのを見つけ、早速そこへ向かう。

「どれにするかな。陽葵、どれがいい?」

並ぶベッドを眺め尚登は嬉しそうに聞いた、そばについた店員は揉み手をせんばかりに後をついてくる。

「使うのは副社長じゃないですか、ご自分がいいのを選んでください」

陽葵はもっともな意見を冷たく伝えた。

「何言ってんだよ、一緒に使うだろ」
「はい? 使いませんけど……?」
「ダブルベッドがいいじゃん。あ、でも陽葵が使ってたベッドを処分するのは嫌か? じゃあシングルを並べるか」
「な、並べませんよ……!」
「冷てーなー、陽葵は」

尚登が笑えば聞いていた店員も笑う、陽葵は頬を赤くして一歩下がった。

ベッド一式と小さなタンスも購入し、さすがにそれらは自ら運ぶことはできないと配送を頼んだ。本来は翌日以降の配送だが、本日中に欲しいとわがままを言えば、幸い倉庫に在庫はあり、少し遅くなってよければ代金を上乗せで承るとのことで尚登はそれを頼む。余計な出費だと陽葵は思うが、おかげでシングルベッドで二人で眠らずに済むと思えばほっともする
手続きを終えたころには12時を回っていた。

「近いし、飯は中華街で食ってから帰るか」

家具店のエレベーターの中で尚登が言う。

「え、もうずっと外食ですから、家で食べましょう、ちょっと買い物はしないとですけど、簡単なものを作りますから」

家からそう遠くはない距離だ、買い物は途中にあるスーパーで済ませようと算段する。

「お、陽葵の手料理、楽しみー」

尚登が笑顔で言う、陽葵には眩しく感じる笑みだった。

「でもそれは夕飯にしよう、中華街で飯食いたい」

そう言って陽葵を連れ出す。それはきっと優しさだと陽葵は思った、急いで作る必要はないと──単に作るのは待てないほど腹が減っただけかもしれないが。

店舗があるビルを出ると右手へ進み、二つ目の路地を右に曲がりまっすぐ行けば中華街のメインストリートにかかる門、善隣門が見えてくる。そこから通りを見れば人でごった返していた、さすが土曜日の観光地だ。
尚登の隣を追いかけるようについて歩くが人が多い──すれ違う人、追い越していく人に陽葵の心臓がバクバクし続ける──どこにするかと言う尚登の声も切れ切れにしか聞こえない上、脳の回転速度が遅くろくに返事もできずにいると不意に尚登の手が陽葵の肩にかかった。

「一本入るか」

そう言って一つ目の角を左折する、幾分人並みが減り陽葵はホッとした。

「悪かったな、思ったよりも人が多かった」

陽葵の顔色も悪く怯えた表情を見て、そこまでなのかと尚登は改めて思う。症状に名前を付ければ接触恐怖症というより対人恐怖症なのではないだろうか。

「すみません、ありがとうございます、大丈夫です」

陽葵は笑顔を作り答えた、余計な心配をかけてしまっている。思えばいつも人ごみは避けていたが、それは無意識だったかもしれない。尚登の笑顔を見て体に血が巡り出すのを感じた、肩にかかる尚登の手の温かさに感謝すらしていた。
通りすがりのラーメン屋を選んだのは尚登だった、コースで出るような店ではないことに陽葵は安堵した。庶民的にも食券を買うタイプの店舗で町中華といったところか。

どれもおいしそうと目移りしていると、尚登が財布を取り出した。

「あっ、ここは私が払います!」

慌てて鞄から財布を取り出した。

「ええ? いいってー」

言って尚登は財布を開ける。

「いえ! 昨日からずっとお支払いいただいてますし、先日のお店で奢っていただいた分はお返ししないと!」

その尚登の財布を手で抑え込み、陽葵は訴える。

「あれはガリガリ君になるんじゃねえの?」
「本当にガリガリ君にするつもりですかっ」

これから寒さも厳しくなるのにと陽葵は内心呆れた、暖房が効いた部屋で食べる氷菓もおいしいといえばおいしいが。

「ふうん。まあじゃあ、判りました」

尚登は笑顔で答え、担々麺と餃子のボタンを押し、陽葵は目移りしながら海老ワンタン麺のボタンを押した、ワンタンが好きだ、それが食べられることにワクワクしながら財布を開けると、その隙に尚登が交通系カードで精算をしてしまう。

「ええ!?」
「食費は俺持ちにしようぜ、嫁さん養うくらいできるから」
「嫁って……」

まだそう決まったわけでもなく、そんなふうに呼ばれることにも慣れない──本当に本気なのだろうか。戸惑いつつも店員に案内されカウンターに横並びに座り料理を待つ。

「思ったけど、今の家の家賃やら光熱費やらなにやらは俺の名義に変えるのも面倒だから今のままにして、新居に越すときには俺の名義にしよう。だから食費は俺持ち、それでも折半にはならないだろう、少し陽葵に金渡しておくわ」

この先の相談など──本当に本気なのか。

「ああ、新居は籍を入れてからな。実はうち二世帯住宅なんだわ、でも今は使ってないもんで、で、今回俺が陽葵ンとこ行くって言ったら、陽葵がうちに来ればいいじゃないって母親が嬉しそうに言うもんで、いや陽葵はもうマンション住まいだからそこへ行くって言ってあるから、今すぐ新たに契約なんて言うと多分母親が拗ねるからちょい待て」

尚登の話に陽葵は小さく頭を横に振る。

「そもそも、私は副社長と結婚なんかしないですから、気にかけてくださるなら最初から全て折半で──」
「なあ、いい加減、マジで副社長はやめろ、あだ名としても超絶恥ずかしいわ」

陽葵ははたと思う、確かに家具店でもジロジロと見られていたように思う。

「ほれ、尚登って呼んでみ」
「えー……」
「えーって嫌そうに言うな」

現に嫌です、と陽葵は目を反らす、上司を名前で呼ぶなど。

「陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、俺のことも呼べ」
「ええー……」

陽葵がどんなに嫌がっても尚登はにこにこと待っている、確かに『副社長』ではあんまりだと判るが。

「せめて苗字にしませんか?」
「親父もいんのに? じいさんもいますけど?」

もっとも会長たる尚登の祖父は、あまり出社はしてこない、陽葵がその姿を見たのも入社式以来だ。しかし会社のトップが親子三世代なのは事実だ。陽葵は腹をくくる。

「尚登、さん」

ため息まじりに呼んだ。

「いいねえ。陽葵」
「はい」
「はいじゃねえ、慣れろ慣れろ」

呼び合いをしようという意味だと判った。

「……尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」
「陽葵」
「尚登さん」

名前だけを呼び合い続けた、この遊びはなんなんだと陽葵は思う。しかし尚登は上機嫌にニコニコしている、そして次の指示が出た。

「『さん』じゃまだ硬ぇじゃん、呼び捨てな」
「無理ですよ」

さすがにそれは泣きたくなる。

「副……尚登さんは目上の方ですし」
「んな肩書き、どうでもいいわ」

それは、呼ばれる方からしてみればそうだろうと陽葵の目が座る。

「年上ですしっ」

尚登は今年29歳、陽葵は24歳になった、5歳差だ。

「数歳の差なんか誤差だろ」

誤差の訳ないじゃないですかと大きな声で言いたいのをぐっと抑えた。

「んじゃ、愛称かな。ナオとか?」

にっこり微笑み尚登は言う、その愛称は家族で呼ばれているものだろうか。

「ナオ……」

思わず繰り返せば尚登は嬉しそうに微笑む。

「お、いいね、いけるねえ」
「え、今のは違います!」
「違うってなんだよ」
「じゃあ、せめて『さん』をつけて……」
「そうやって年齢を感じさせるな」
「気にしてるのは副社長じゃないですか、数歳差は誤差じゃないんですか」
「恋人でさん付けなんて、もっと年の差がある感じするだろうが」

確かに、と思った。父と継母は10歳だ、再婚ということもあってか、継母は父を『京助さん』と呼んでいる。

「じゃ、じゃあ……『くん』で……さすがにいきなり呼び捨ては無理です」

陽葵からすればまだ『副社長』である。

「しょうがねえなあ、んじゃ呼んでみな」

それすら拷問のようだが、陽葵は小さく深呼吸をして呼びかけた。

「尚登くん……」

途端に尚登は嬉しそうに微笑む。

「ええやん、ええやん。陽葵~」

呼びかけにまた始まるのかとうんざりしつつもその名を口にする。

「尚登くん」

恥ずかしさに声は小さくなる、それを聞こうとするかのように尚登は顔を傾け陽葵の顔を覗き込み呼びかける。

「陽葵」

そんな尚登の笑顔が眩しく、陽葵は視線だけを外してなんとかやり過ごす。陽葵にはよく判らない名前の呼び合いは食事が来るまで続いた。





食事が終わり店を出れば、尚登が提案した。

「ちょっとデートがてらブラブラするか」

横浜に本社がある会社にいながら、横浜の散策などしたとこはなかった。

「それもいいのですが、私としては食材の買い出しをしたいです」

この近くに大きなパックがウリのスーパーがあるため、そこへ行こうと思っていたことを優先したかった。陽葵は時折冷凍食品目当てに買いに来る店だ。尚登は陽葵の提案を受け入れ、陽葵の案内でその店に向かった。

「夕飯何にする? って昼飯食ったばっかで、特に食べたいものもねえなあ」

言いながら尚登は精肉コーナーを物色している、ビールも2杯も飲んでいたのだ、確かに腹は満たされている。

「あ、ボロネーゼにしよう。使うなら牛挽き肉がいいねえ~」

唐突に思いつき、ひき肉のパックの選別を始める。

「え、副……尚登くんが作ってくれるんですか?」
「おうよ。その辺は担当制にするか、朝担、夜担で決めたほうが楽だな。他の家事も含めて」

尚登はひき肉のパックを見比べながら言う、量もさることながら、色合いや脂身の多さも気になる所だ。

「意外です、ふ……尚登くんが料理するなんて」
「そうか? ああまあ、確かに自宅じゃやりようがないな」

母が家事を率先してやる上、家政婦までいるのだ。

「アメリカじゃほぼ一人暮らしだったから慣れっこだぜ」

高校に通っている間はホストファミリーの世話になっていた。父が頼んだホストファミリーだ、それなりの家柄で3人のハウスキーパーがいる邸宅だった。それはそれでありがたかったが窮屈さはあり、大学に入ればとても通える距離ではないと、始めは寮、それからアパートを借りて一人暮らしを始めた。丸8年の家事のキャリアは伊達ではない。

「バラ肉も買っとくか……って、陽葵んちの冷蔵庫、そんなに大きくなかったな」
「はい、一人暮らしではそうは困っていませんけど」

それでももう少し大きくてもよかったかなとは思っていた。やはり平日の労働終わりからの買い物はきつい、自宅が駅から近いのはありがたいが、逆に途中に買い物できるスーパーもないからだ。そのため休日にまとめ買いをしておくことが多いが冷蔵庫の容量を考えると冷蔵、冷凍品はそう多くは買えない、ちょっとした二律背反だ。

「まあ小さめのパックにしとくか。あとは要るのはトマトの水煮と」
「それはパックのがあります」

常温で日持ちするものは買い貯めがあった。

「セロリは?」
「それはさすがにないですね、取ってきます」

野菜は入り口付近だ、戻って取りに行き、ついでに目に入ったブロッコリーも手に戻る。

「根菜はあったな、パスタはなんかあんの?」
「普通のスパゲティでよろしければ」
「おお、合格、合格!」

ボロネーゼなら太めの麵のほうが合うが、家庭料理だ、気にならない。

「赤ワインは?」
「料理用のがあります」
「すげーじゃん、それで足りるかな」
「でも使いかけで、残量は不明です」
「そっか、じゃあ買っていくか、余れば飲めばいいし。あ、チーズもパルミジャーノチーズがいいから、それも合わせて別の店に買いに行こう」

さすがにワインもパルミジャーノチーズはこのスーパーにはなさそうだ、それらは並びにある別のスーパーに寄り道して買い、そこからは海方面へまっすぐ進めば家に着く。
買ってきたものを冷蔵庫に片付ける作業を二人で行えば仲睦まじくも見える。

「あー、ワイン、飲みてー」

フルボトルの赤ワインをまじまじと見つめながら尚登が言う。

「やめてください、これからベッドも届くのに」

酔っぱらって対応なんかしてほしくないと訴えれば尚登は納得する。

「それもそうか。とりあえず茶でも飲んで……って、ソファーもないんだな、この家。寛げねえ」

ほっといてください陽葵は内心思う、必要だと思ったことがなかった。

「いつもはテレビ観る時はどうしてんの? フローリングじゃ直には座らねえよな」

座布団もなければ、ラグすらない。

「ベッドか、ダイニングの椅子です」

定位置はダイニングの椅子だ。

「なるほどねぇ。ソファーもついでに買えばよかったな、まあ、それこそうちにあんの送ってもらうか」

言いながらスマートフォンのホームボタンを押す、二世帯住宅のかつては尚登の親世代が使っていた2階の家具は使われていないものだ、使わせてほしいといえば簡単に了承はもらえるだろう。

「つかさぁ、敬語もやめろよ」

尚登がスマートフォンを操作しながら言うが、陽葵は顔を引きつらせて反応する。

「でも……仕事中に馴れ馴れしくなってもいけないですし」

適当な言い訳で逃れようとするが、尚登はスマートフォンに文字を打ち込みながら答える。

「嫁になるっていうんだから多少は多めに見てくれんだろ。対外的には山本さんがいるんだし、陽葵は俺の相手だけしてればいい」
「そんな、完全に公私混同……」
「何をいまさら。陽葵を俺んとこにつけてもらった時点で混同しまくりだろ」
「……自覚があるなら経理課に戻してくださいよ」

陽葵は小さな声で訴えた、秘書など本当に柄ではない。

「んじゃ会社辞めるか?」

そればかりはとても嬉しそうにスマートフォンから顔を上げて言った、陽葵は唇を尖らせて答える。

「……辞めてもいいですけど、副……尚登くんと結婚はしないので、ちゃんと再就職のあっせんはしてください」
「おう。俺んとこに永久就職な」

本末転倒なことを滅茶苦茶笑顔で言われ、陽葵は遠慮なくため息を吐いた。

「……じゃあ、自分で探します」
「マジ、ガード強ぇなあ」

ガードなどではない、自分は一人でいるのが心地よい。

「だいたい……っ! 私は副……尚登くんを存じ上げてますが、尚登くんは私なんか知りませんよね? なのに簡単に結婚相手に選んでいいんですかっ?」

懸命に訴えれば尚登は「うーん?」などと言って首を傾げ、陽葵の覗き込むように見る。

「俺を知ってるったって、俺がどこに住んでるかも知らなかったのに?」
「そ、そういうことでなくてですねっ」

どれほどの人数が、社長一族の現住所を知っているというのだ。

「私は入社から尚登くんを認識してましたけど、尚登くんが私を認識したのは日曜日じゃないですか」
「あの日が運命の出会いって事だろ。少なくとも俺が陽葵を好きになったのは本当だからな」

好きなどとあっさりと言われ、陽葵の頬に朱が上る。

「陽葵が俺を知っている以上に、陽葵のことを知ってるけどね。藤田陽葵ふじた・ひまりさん、川崎出身、東大出の才媛、24歳、生まれは7月15日、夏生まれだから向日葵ひまわりなのかね。英検、漢検、簿記、FASS検定など資格多数」

それ履歴書にも書かれていたことだが、FASS検定は入社してから取得したものであり、つまり履歴書以上のデータが社内にはあるのだと陽葵には判った。

「陽葵は俺の誕生日知ってんの?」

聞かれ陽葵は焦る、そんな話は聞いたことがない。

「6月20日、覚えとけよ」

自分のほぼひと月前だと変に感動し、慌ててそんな感情を追い出す。

「……お祝いしたくても、その頃にはお別れしてますね」

憎まれ口を叩けば、尚登はにこりと微笑む。

「陽葵の誕生日だって絶対祝ってやるからな」

誕生日のお祝いかと思い陽葵は寂しさを感じる。家族とケーキを囲い祝ったのは実の母がいた時だけだ、幸せな記憶はあまりに遠すぎる。

「ともあれ1年はお試し期間だし、ギブアンドテイクだって言っただろ」
「試用期間はひと月だと申し上げました」
「それも陽葵に好きな人ができればだろ。でも出会いなんか作ってやんねえよ?」

くっ、陽葵は握りこぶしを作る、なぜそんなことが自信満々に簡単に言えるのか──そうだと思いつく。

「好きな人は、もういるかもしれないって思わないんですか?」
「いないね」

意地の悪い笑みで尚登は即答する。

「──なんでですか?」

その自信はどこからくるというのか、陽葵は不機嫌に聞いていた。

「こんなこと言ったら嫌な気するだろうけど、ああ、だから他の人には言うなよ。まあそこそこの規模の企業はどこもやってると思うけどな。うちは入社する人間の素性やら身辺調査はしている。犯罪歴や思想、交友関係などなど、家族も2親等まで、場合によっては3親等まで調べるんだ。それには交際相手も含まれる、いずれ家族になるかもしれないし、家族よりも影響が大きい場合も多々ある」

2親等は兄弟や祖父母だ、3親等は叔父叔母、姪、甥となる、時には近しい関係だ。

「うちもそれなりの大企業だ」

それなりなどという謙遜の必要はないと陽葵は思うが、黙って頷いた。

「世界の主要都市にも支社、支店があり、官公庁をも相手にして、受注件数も膨大だ。その仕事をライバル社にリークされたことで横取りなんかされたら、倒産に追い込まれる恐れがある。あるいは特定の固定的な思想の連中に利用されたり、乗っ取られるとかされて、世界及び社会情勢に多大なる影響があるかもしれない。その予防のために、ヤバいヤツは入社させないよう、しっかり調べ上げさせてもらってる」
「特定の?」
「まあ簡単に言えば、反社とかカルト集団とか偏った教義の宗教とかだな」

なるほどと陽葵は納得した。資金集めや布教活動に利用されかねないということか、なまじネームバリューがあるだけに、末吉の名を出されればそうとは知らず、あるいは疑わず加担してしまうかもしれない、それは怖いことだ。

「そういうヤツらは特にいわゆる『偏差値の高い大学』に通っている人間を餌食にすることが多い、だから陽葵みたいな子の場合は特に丁寧に調べてるんだわ」

それはどこまで……陽葵はごくりと息を呑んでいた。

「交友関係は狭く浅くで、親しい者はいたが恋人だった風ではない」

その『親しい者』はおそらく自分は恋人と思っていた人だと思ったが、あえて言わなかった。

「社内でも親しい男性はおらず、主に女性と仲がいい」
「……それは誰情報ですか」
「経理課の課長さん」

ああ、陽葵は納得した。確かに川口課長なら見ているだろう、三宅とばかりつるんでいることは百も承知だ。はっきりいえば、三宅は初めてできた『親しい友人』である。

「お父さんは公認会計士、だから経理課かな。再婚相手は専業主婦。再婚ということで、元の配偶者のことも調べてる。雑誌編集者で趣味の沖釣り中に事故死されてる」

継母の元夫のことなど陽葵も知らなかった、本当に調べているのだと驚いた、再婚であることすら履歴書には書いていないのだ。

「でも、陽葵がひどい虐待を受けていたとまでは、さすがにな」

何をどう調べたかは尚登にも判らない、家庭の事情までは調べないのだろう。ましてや陽葵は入社の面接の折には、わざわざ九州の学校へ行ったのは親から離れてでも勉強に打ち込みたかったなどと嘘をついている。ただ小さく首を横に振った。

「──当然、お父さんと妹さんの件も」

それはそうだろう──そんなこと、誰かに打ち明けることなどできずに悩んでいるのだ。

「昨日今日で陽葵が必死に連絡を取ろうとしてる相手もいないんだから、好きな人なんていないだろ」

直前までの静かな声とは裏腹に楽し気に言われて、陽葵は唇を噛みしめた。しっかり観察されているではないか。

「こ、心に秘めた人がいるんです……っ」

我ながらそんな馬鹿なと思いながら拳を握り言えば、尚登ははははと明るく笑った。

「その人ときちんと恋仲になれたら諦めてやろう。証拠にちゃんと連れて来いよ」

なんとも偉そうに言う、陽葵にそんな相手がいないことなど完全にお目通しだ。その時尚登のスマートフォンが軽快な音を立てて着信を知らせる。

「お、ラッキ、使っていいって。業者には明日頼むから待ってろって。搬入は、平日でも夕方以降ならいいな」

嬉しそうに言ってスマホを操作し、返信を打ち込む。

「え、ソファーが来るんですか……」

この部屋に置けるほどのサイズなのかと陽葵は心配になる。

「新居には新しいのを買えってよ。ベッドはもう買ったなんて言えねぇな」
「そういう事ではなくて……」

すぐに別れるのに、と思ったことは内緒だ。

「ところで、明日はスイーツバイキング、行くのか?」

尚登がスマートフォンに返信を打ち込みながら聞いた、陽葵は曖昧ながら否定の返事をする、三宅との約束は断っている。

「んじゃ、時間あるな。どっか美術館にでも行くか。行きたいとこは?」

はちきれんばかりの笑顔で言われ陽葵は頷いていた、行きたいところといわれ、陽葵はあっと思い出した。

「あの、美術館じゃないんですけど、行こうと思っていたところがありまして……」
「おお、どこどこ?」

嬉しそうな声に、自分との外出することを楽しみしてくれている判り陽葵は嬉しくなる。

「横浜駅近くのプラネタリウムなんですけど」

新しいプログラムが始まった情報は仕入れていた、時間ができたら行こうと思っていたのだ。

「お、いいね、プラネタリウム! 俺、ガキの頃に行ったきりだわ」

そう言ってスマートフォンでその場所を調べ始めた。出てきた施設の情報にいいねえと嬉しそうに声を上げる。
そんな様子に、陽葵も期待が増した。
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