弊社の副社長に口説かれています

麻生璃藤(あそう・りふじ)

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16.受難は続く

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手を繋いでの出勤にもすっかり慣れてきた。
皆が尚登に挨拶をする、尚登が返礼する後ろで陽葵は会釈をして返す、それも朝の光景だ。そしていつものように人でごった返すエレベーターホールに三宅の姿を見つける。

「あ、三宅さんだ」

尚登がすかさず声をかけた、ぎょっとしたのは陽葵だけではない、周りも同様に驚き『三宅』が誰かと探す。呼ばれた本人は人ごみの向こうで「ひゃ」と声を上げた後「はい!」と元気に答えた、その笑顔のいやらしさを陽葵だけが見抜いている。

「副社長! おはようございます!」

ギラギラした目で挨拶をすれば、三人を繋ぐ間の人々が左右に分かれていく──なぜなのだと陽葵は思った。

「おはよう」

尚登は意に介さずその花道を陽葵の手を引いて歩いてゆく。

「ところで陽葵からいつまで経ってもスイーツバイキングに行く話が出ないので、三宅さんからも言ってくれませんか?」
「は!?」

陽葵と三宅の声が重なった、もちろんトーンは大違いである。

「この間、行ったじゃん……!」

思わず声を張り上げた、当然二人きりでだ。都内の専門店へ行ったが、それで満足していないのか。

「えっ、私も一緒にってことですか!? はい! 副社長がご希望なら、いつでも、何時でも、どこでも行きます!」

三宅はそれはそれは嬉しそうに叫んだ、目的は「三人でバイキング」ではなく尚登に会うことだろうと陽葵は目を座らせて三宅を睨みつけた。

「私ならいつでも暇なので、陽葵と予定を決めてください」

尚登は営業スマイルで答える。

「副社長が暇なんてあるんですかぁ?」

三宅は上目遣いに体をくねらせて言う、媚びないでと陽葵は言いたい。

「暇ですよ、ああ、陽葵をずっと見つめてるから忙しいか」

とんでもないことを臆面もなく言うのに陽葵は頬を赤らめる、そしてはたと気づいた、周囲は聞いてないふりして確実に聞いているではないか。

「まったくお熱いことで」

三宅が呆れ気味に言う、その気持ちは陽葵にも理解できた。

「副社長がべた惚れって、よく判ります」
「ええ、そうなんです」

笑顔での肯定に周りが一斉に大きなため息を吐いた、陽葵はただひたすらに穴があったら入りたい。

「そもそも出会いって? 社内でも姿をお見掛けするくらいで、そんなに接点なかったと思うんですけど」

確かにと陽葵のみならず周りも頷いた。

「街中で偶然ばったり会ったんですよ、俺は確かに陽葵を個別認識してなくて、でも陽葵は俺を知ってて」
「……尚登くん、その話、また今度にしましょう」

尚登の嬉しそうな声を陽葵は小さな声で遮った、あまり皆には聞かれたくない、尚登の口か皆の耳を塞ぎたいくらいだ。

「お? じゃあ、スイーツバイキングで話すか? やった、いつ行く?」

尚登は喜び陽葵の肩を抱きしめた、さすがに社内ではと陽葵は拒絶して尚登の体を押し返すが。

「やだん、陽葵ちゃん、副社長を名前呼びなのねんっ、羨ましい!」

三宅はいやらしく笑う口元を手で隠し言う、陽葵ははっとし、脳内で社内では副社長だと繰り返した。周囲もにやにや、クスクスしている、聞くともなく聞かれ恥ずかしさは最大だ。

「いつもおてて繋いで出社だもんね、仲良しーっ」

三宅の言葉が恨めしい、尚登の腕から逃れようと身をよじったが、その時エレベーターが到着してしまい、いつものように先に乗るように皆に勧められれば、尚登に肩を抱かれたまま連れ込まれる。カゴの一番奥の隅に追いやられ、逃がすまいとするように尚登の体が密着する。

「馴れ初め聞けるなら本当にセッティングしなきゃ! クリスマスも近いし、きゃっ、クリスマスデートしましょう!」

陽葵たちの目の前を陣取った三宅が笑顔で言う、本当に恥ずかしいことこの上なく、三宅とは行きたくないと心の底から思った。

「あ、それともクリスマスは二人きりで過ごしたいですかぁ? 初めてのクリスマスですもんねっ、きゃっ、邪魔したいです!」
「三宅さん、副社長は抜きで行きましょうよ」

陽葵は小さな声で訴えた、聞こえてないわけがないのに尚登は陽葵を無視して三宅に声をかける。

「昼間なら全然いいですよ、むしろ賑やかに過ごしたい。でも夜はダメです」

最上の笑顔と、優美に唇に指を当てての言葉に、陽葵は何を言うのかと頬を赤く染め、三宅も手で顔を仰ぎながら呆れ顔だ。

「本当にお熱いことで……行くのやめようかしら」
「是非そうしましょう」

陽葵が三宅の意見を肯定するが、そんな言葉を無視して尚登は言う。

「それは困ります、仲がよかったっていう三宅さんから陽葵の話を聞きたいし」
「話?」

またも三宅と陽葵の声が重なった。

「普段の仕事ぶりとか聞いてみたいじゃん、俺が知らない陽葵だし」
「いつもと変わらないし、特別なことは何もないし、もう経理でもないんだから、必要ないんじゃないんですか?」

なぜそんなことをと思い陽葵は不機嫌に聞くが、尚登はなおも笑顔だ。

「今は俺のそばにいるのが陽葵の仕事だろ、全然違うじゃん」

そんな言葉に陽葵はさらに不機嫌になる。

「そんな仕事じゃないし、仕事してないみたいな言い方しないでください」
「何言ってんだよ、俺の精神安定剤、重要、重要」

そんな仕事はないとムッとする陽葵の肩に置いていた手をずらし、尚登は陽葵の顎に指をかけて上を向かせる。ただでさえ近いのにさらに近づいてくる顔を、陽葵は慌ててその口を手の平で覆い止めた。
焦る陽葵の顔を見て三宅はくくくと抑えた笑いで肩を揺らす、二人のそんな様子だけで睦まじさが判るというものだ。

「もう、本当に副社長、どんだけ骨抜きにされてるんですか。そんな副社長ののろけを聞くのも面白そう、陽葵ちゃん、今度連絡するね」
「行くなら三宅さんと二人きりです!」
「陽葵ぃ」

尚登が非難めいた声で呼ぶ。

「副社長はお留守番です!」

負けじと叫べば尚登はしょんぼりした顔で「くーん」と鳴いてみせる。

「じゃあ、決めたら副社長には社内メールでお知らせしますね!」

三宅は二人のやりとりを無視して明るい声で言った。

「え、そん……っ!」
「ありがとうございます、大事な社用ですからね」
「超私用じゃないですか!」
「陽葵ちゃんには、夜にでもメッセージ送るからね~」
「三宅さん!」

経理部がある20階に到着し、三宅は「じゃ!」と手を上げエレベーターを降りていく、それを尚登は上機嫌な笑顔で手を振り見送った。

「よう、陽葵、毛嫌いすんじゃねえよ」

エレベーターが動き出すと途端に態度と口調を変え、陽葵の体を体で壁に押し付ける。肘を壁についてる分隙間はあるが、逃がすまいと陽葵の足の間に足をねじ込ませまでした。

「えっ、ちょ……っ、やめてくださいっ」
「なーんで三宅さんと一緒じゃダメなんだよ」
「尚登くんこそ、なんで三宅さんと行きたがるんですかっ」
「さっき言ったろ、陽葵のこと、聞きたい」
「そんなのいいじゃないですかっ、過去は過去、今は今です!」

離せと暴れるが、動けばスカートが捲れあがってくる、慌てて動きを止めた。

「もうっ、離してくださいっ」
「素直に三人でスイーツバイキングに行くって言うなら離してやる」
「ヤダって言って……っ!」
「じゃあ、三宅さんと二人で行く」
「そんなの駄目に決まってるじゃないですか!」
「んだよ、三宅さん誘うなはやきもちか? かわいいとこあるじゃん」

そんなことを言って身を屈めた気配に危機を察し、陽葵は尚登の口を両手の手の平で覆った。

「やきもちじゃないし、みんな見ているからやめてください!」
「誰も見てねえよ、手ぇどけろ」

言って陽葵の手首を掴み壁に押し付ける、完全に固定され陽葵は焦る。

「見てなくても聞こえてますから!」

現に残っている者たちは揃って肩を揺らしている、笑っているのは明らかだ。

「もう、どいてくださいーっ!」

もがくが、男女の力の差は歴然だ、びくともしない。

「キスしてくれたら退く」

とんでもないことを意地の悪い笑みで言う。

「何を言って……ここをどこだと思ってるんですか!」
「当社のエレベーターん中」
「そんなとこでキスなんかできないです!」

それでも尚登は顔を近づけてくる、弓なりになった瞳に状況を楽しんでいることがよく判る。

「尚登くん!」
「じゃあ、家に帰るまでお預けか? それでもいいけど、キスだけじゃ済ませねえよ?」
「そんなのいつものことじゃないですか!」

言ってしまいはっとする、皆の耳がこちらに向いているのが判る。

「もう! 誰か助けてください!」

思わず助けを求めて叫べば、一人がこちらも見ずに声を上げてくれた。

「副社長、奥様相手とはいえいかがなものでしょう。嫌がっている相手にするのはセクハラですよ」

総務課の課長だった、その言葉に陽葵は大いにうなずく。

「おおハラスメントか、それは困ったな、会社クビになっちまう、まいっか、願ったり叶ったりだ」

嬉しそうな声に陽葵は焦る、尚登は本当に会社を辞めるつもりなのだ。その理由の如何などないらしい。

「俺ひとり養うくらいの給料出てんだろ、陽葵のヒモになろ、よろしくな」
「なんでですかぁ!」
「家事は任せろ」

確かに暮らしていて判る、尚登は家事全般完璧だ、だからといってと陽葵は首を左右に振る。

「んで、どうせセクハラでクビになるなら、きちっと既成事実は残してからな。ほら陽葵、顔上げろ」
「やーでーすーっ」

押しても駄目なら引いてみなを実践した、尚登のジャケットを掴み胸に額を押し付ける、こんなところでキスなど、本当に冗談ではない。

「意外ですね、副社長がそのような方だったとは」

総務課課長の声がする、それに賛同して皆が頷く気配も判った。陽葵も確かにと思う、副社長としての尚登は優等生に見えたが、素の尚登はまるで奔放なわんぱく坊主だ。

「ああ、いつもは猫被ってるんですよ、これでも副社長だし、好き勝手やるといろいろ面倒だし、上からもうるさいし。地はこんなもんです」

それは副社長としての仮面だろうか、その仮面を外してくれたのはいつだったろう。それは陽葵の前では飾りたくないという気持ちの現われか、ならば嬉しいと思った陽葵の心を読み取ったのか。
尚登は体を密着させ、陽葵の髪に鼻を埋めた。キスをされるよりははるかにいいが、髪の香りを嗅がれるのは少し恥ずかしい。もがいてみせるが膂力の差は歴然だ、まるで小さな猫になった気持ちになる。

ほぼ各階停まりのエレベーターで少しづつ人が減っていく、28階で総務の者が降り二人きりになると尚登はようやく陽葵を解放した。
コントロールパネルの前へ移動しようとした陽葵を尚登は二の腕を掴み捕らえる。軽い力で引かれ陽葵は尚登の腕の中に落ちた。背を壁に押し付けられ顎に指がかかり上向きにされる、駄目と言う間に口を塞がれ舌をねじ込まれた。
皆が降りた隙にとは──いけないと思いながらも尚登の背に手を回していた、キスをされて嫌なわけがない。監視カメラの存在は気になったが、心地よさが勝っていた。
30階に到着したことを電子音が知らせてくれる、完全に停まってから尚登はもったいぶって離れた。

「今日一日頑張れそ」

濡れた唇で投げキッスまでする、そんな仕草が憎らしいほど色っぽく、陽葵は慌てて俯いた。できればずっと二人きりでいたいなどという願望を読まれたくなかった。





外出前にトイレを済ませようと向かうと、手前にあるパウダールームに秘書課課長の落合恵美がいた。1つ下の階のフロアにある総務課の者がトイレを使うことはままあった、本来なら来客も使う場所であり褒められたことではないが多めに見られている。
陽葵は目礼と挨拶をして通り過ぎようとしたが。

「あら、藤田さん」

落合が鏡越しに声をかける、陽葵は足を止めて改めてお疲れ様ですと声をかけた。

「尚登くんとの結婚は進んでるみたいね」

落合にも話は伝わっているのかと陽葵は小さく返事をした。既に親同士の挨拶も終わり、古式ゆかしく仲人もお願いしての結納の日取りと場所を調整している最中だ。

その折、新奈と史絵瑠の話も聞いた、父の京助には警察から連絡があるようだ。
新奈は変らず否認しているが、既に送検されたという。現行犯逮捕だ、有罪には間違いないと言われている。
史絵瑠に関しては、京助が身元の引き受けを申し出たが本人から拒否された。警察からも薬物を使用していた環境に戻るのはあまり好ましい状況ではないのでお勧めできないと言われ諦めた。史絵瑠は退院すると薬物を断つための支援施設に入ったということだ。
そして史絵瑠に覚せい剤を服用させた男は、史絵瑠のことが報道されるとすぐに出頭したという。男が去った時にはまだ史絵瑠に意識はあり、大丈夫だというから一人帰ったというが史絵瑠はそれは覚えておらず真偽のほどは確認のしようがない。ともあれ服用の事実は認めた男には処分が下ることを知り、陽葵は安堵した。

安堵といえば、父は今は武蔵小杉駅の賃貸マンションに住んでいる。犯罪があった家に住めないというのが一番だが売却はしかねている、陽葵や亡き妻との思い出も詰まった家を手放す気にはなれないのだ。いつか新奈が戻ってくるかもしれないと思えば手放すべきで、いずれはと考えており、陽葵にも荷物の整理を頼んでいる。

陽葵はようやく実母の写真を手にできた。記憶の中の母より若く見える母だった、京助の言うように少し似ているかもしれないと思った。

「はあ、私も一安心だわ」

その結婚相手は自分の関係者にしたかった落合だ、陽葵の結婚など嫌なのでは──困りつつも礼を述べ頭を下げた。

「会社はいつ辞めるの? 希美は挙式後だったから、あなたもかしら? それとも今は寿退社なんて流行らないからもう少し働くの?」

そのような相談はまだ何もしていない、陽葵は素直にまだ決めていませんと小さく答えた。

「まあ嬉しいわよ、尚登くんが結婚なんて。時代が時代とは言えもう少し早く身を固めていいじゃないかしらね。希美たちが甘いのよ、外国で何年も留学なんてさせるから」

尚登の母を名前で呼ぶとは、と陽葵は思う。ライバルだったというが、仲は良かったのだろうか。実際には希美は落合より1年後輩で入社し、あとから仁志の秘書になった関係だ、後輩という立場から勝手に名で呼んでいる。

「なかなか子供ができなくて、ようやくできた一粒種だからかわいくてしかたないんでしょうけど、自由にさせ過ぎよね」

自由だという話は尚登も以前言っていた、本当に自由奔放に育ったのだろう、陽葵は小さくうなずいてしまう。

「でもまあ、私としても子どもというより孫が結婚する気分よ、めでたいわ」

そんな言葉は本心に思え、陽葵は笑顔で礼を述べて頭を下げた。

「それにしても、あなた、あいかわらず化粧もしてないのね」

鏡越しに見つめられ、陽葵は今度は謝罪して頭を下げる。

「まあ、秘書といっても完全に腰かけでしょうし、私があれこれ言っても尚登くんは文句言うだろうし、気にすることでもないんでしょうけど。ああ、ちょうどいいわ、これ、あげる」

自分のパクトをポーチにしまい、別の物を陽葵に差し出した。海外のハイブランドのファンデーションである。

「え、こんなお高いもの、いただけません……っ」

自分は入店しようと思ったこともないブランドである。

「あら、言うほど高くはないのよ。見栄張って明るい色にしたら失敗したの、交換に行くのも恥ずかしいからよかったら使って」

言いながら荷物をまとめていく。

「そんな、ありがとうございます」

陽葵は慌てて声をかけた。

「ああ、お礼なんて言わないでね、間違えて買ったんだもの。使いかけで悪いけど、使ってくれたらありがたいわ」

笑顔でいい、陽葵の肩を叩き去ろうとする。

「ありがとうございます」

礼を伝えれば、落合は微笑みパウダールームを出て行った。
一生手にすることはないだろうと思っていたハイブランドのファンデーションをまじまじと見た、蓋を開ければその証のようにロゴマークがエンボスされている。確かにややこすれた跡があるのは落合が使った証拠だろう、パフにも痕跡がある、それを手に取り使用痕がない場所でファンデーションを取ると頬に乗せてみた。

素肌に乗ったファンデーションは色も使用感も馴染んだ、普段化粧などしないがとてもいい品だろうと判る。
礼は要らないと言っていたが、されれば嫌な顔はしないだろう。これほどの物をもらったならやはりお礼はすべきだ、何がいいだろうか、尚登に相談したら案をくれるだろうか。

(ん、でも落合さんは嫌いみたいだし、女性へのお礼を聞いても判らないかも)

尚登には言わずにおいてよいだろうか──だが贈り物は落合にも存在を認められたようで嬉しかった、笑顔でパクトを閉じる。

駐車場へ行けば尚登が乗るはずの車には仁志に付いている秘書の男が待っていた、だが尚登はそれを断り笑顔で運転席に乗り込みエンジンをかけてしまう。当然仁志は怒るが、尚登ははいはいと適当な返事だけをして陽葵にも乗るよう促しさっさと発進させてしまう。

「道は判るの?」

助手席に乗った陽葵が聞いた、運転し慣れていなければ道も判らないのでは──現に自分はたどり着けそうにない。

「だいじょぶ、だいじょぶ、何度か行ってるし」

だが車はいつものルートには入らなかった。山本ならば首都高速横羽線のみなとみらい料金所を使うのが、いきなりワールドポーターズなどがある新港地区へと進んだ。本当に大丈夫かと不安になるがそもそも道を知らない陽葵は口出しもできない。
左手に山下公園を見ながら進み、新山下料金所から湾岸線に乗りベイブリッジに入れば、陽葵は「うわぁ」と声を上げていた。
ベイブリッジから見える景色は港町横浜を如実に示している、眼下に広がる海と、ガントリークレーンが立ち並ぶ港の風情が見渡せる見晴らしのいい高架の道路に、尚登は本当にドライブを楽しんでいるのだろう。背後を見れば末吉の本社ビルも見えるみなとみらい地区も見える特等席だ。
陽葵も大雑把な地図ならば把握している、車が北に向かい出したことが判りほっとした。車は羽田空港も通過する、ちょうど飛行機が離陸するところが見え陽葵はわくわくとそれを見ていた。不謹慎だと思いながらも心が弾むのは止められなかった、なにもかもが新鮮だった、こんな風に男性と車で出かけたことすらない。

「ああ、マジ、このままどっか行きてぇなあ、天気もいいし、仕事する気にならなくね?」

陽葵の心を読んだように尚登が言う、確かにと思うが陽葵は心を鬼にして笑顔で答える。

「駄目でしょ、お相手も待ってるし、車は社用車だし」

車が一般道に降りて間もなくだった、左折しようとすると信号のない横断歩道に向かって子どもが駆け込んでくる、尚登はもちろん止めたが急ブレーキになってしまう。

「おっと、悪い」

すぐさま陽葵の体が前に倒れないよう手で支えていた、シートベルトもあり、思い切り前のめりになるようなスピードではなかったがそんな気遣いすら陽葵には嬉しくなってしまう。だがその心を隠して言葉を発する。

「やっぱり尚登くんの運転はやめよう」
「えー、注意してたろー」
「でも私の心臓によくないもん」
「安全運転しまーす」
「尚登くんが気を付けてても、今みたく飛び出す子もいるかもだし」

子どもを追いかけてきた母親らしき女性が懸命に頭を下げ謝っていた、尚登はどうぞと横断を勧めるが母子は渡るつもりはなかったらしい、子供の手を引き来た道を戻っていく。

「まあなんかありゃ会社を辞める理由にちょうどいいんだけどな」

物騒なことを言って車をゆっくりと発進させる。

「誰かを巻き込むのはもっての外」

単独事故ならまだしも、相手がいては怪我がなくても大事故だ、陽葵の言葉に尚登は確かにと頷いた。

「じゃあ、やっぱセクハラで」

陽葵の足に手を伸ばし掴んだ、陽葵は容赦なくその手の甲を叩く。

「私に対してならセクハラにならないし、他の人にするなら嫌いになるからねっ」
「他の女に興味ねえなあ」

そういって両手でハンドルを握る尚登にほっとする、見た目に反して意外と硬派なのだと勝手に感心してしまう。





外回りからも無事に戻り、終業時間になればいつものように退社する。社屋を出ると尚登は陽葵の肩を抱いた。

「どっかで飯でも食っていくか」

尚登の誘いに陽葵は頬を染め小さくうん、と頷く。いつの頃からか食事を済ませてからの帰宅は、その夜は愛し合うという暗黙の了解になっていた。

ランドマークプラザにある蕎麦屋で食事を済ませ、電車で帰宅すれば風呂に直行しそのままベッドだ。

尚登は変らず優しく陽葵を求める、陽葵はそれに素直に応える、一番心が満たされる時間だった。

ゆっくりと肉を分け入り入ってくる感覚に陽葵は声が上がるのが抑えられない、陽葵の吸い付き締め上げる感覚に尚登はため息を漏らした。

二の腕を掴み陽葵を引き起こすと、正座した腰の上に乗せる。一番奥を突かれ陽葵は背を反らし短く可愛らしい嬌声を上げ続けた、内側はビクビクと波打ち快感を知らせその度に液体が溢れてくる。
尚登は陽葵の小さな背を撫でた、それすら快感を呼び陽葵の全身はひくひくと震えた。

「可愛いな、陽葵」

声をかければ、陽葵は蕩けた瞳で尚登を見つめる。

「すっかり俺のに馴染んだな」

何のことなのか、陽葵には判らなかった。しかし最初のころからと比べれば難なく尚登のものを受け入れられるようになった、入ってきた瞬間意識が飛びそうになってしまうのは最高の快感だった。

「……尚登、くん……」

小さく呼んだが、返事を求めていたわけではない。体を密着させその頭を抱きしめる──それだけで体内の尚登のものが別の場所を刺激しさらには敏感な尖りまで当たる形になり、陽葵は声を抑えて喘ぎ尚登を抱く手にも力が入る。ゆっくりと、わずかにだが腰が勝手に上下、前後左右に動き出していた。

尚登は陽葵の背や腰や足を撫で続ける。滑らかな肌が心地よかった、そんな場所にも感じる場所があるのだろう、陽葵のものが時折ぎゅっと締め付けてくるのが快感だった。

「……尚登くん……」

陽葵が小さな声で名を呼んだ、尚登は陽葵の蕩ける顔を見ながら「んー?」と答える。

「キス……したい……」

欲望に抗えず乞えば、尚登は微笑む。

「どうぞ」

どうぞと言われ陽葵は戸惑う、してほしいという意味だったのに尚登からはしてくれないのだ。どうしようと思ったが腕を緩め肩に手を置くと、顔を傾け体を近づけキスをする。
尚登のようなキスはできない、深く探るような、魂を吸い上げるようなキスは──ただ唇を押し当てるだけだが、尚登もそんなキスをただ素直に受けるだけだった。

他愛もないキスだがそれでも陽葵は興奮してくる。皮膚が触れ合うだけなのに、なぜこんなにも気持ちがいいのか──啄み、唇を舌先で舐め、角度を変えて押し当てる、そんなことを飽きずに繰り返していた。
キスに集中すれば体の動きは止まっていた、しかし尚登を受け入れた場所はきゅんきゅんと脈打ち、尚登の存在が判る。そんなことにも興奮した、呼吸が上がるのが止められなかった。
尚登の手は優しく腰や臀部を撫でる、ただ撫でるだけなのにゾクゾクしてしまう。声は勝手に漏れてきた、尚登を抱きしめキスを続ける。体勢を変えようとわずかに体を動かした時、内部の敏感な場所が刺激され絶頂を迎えてしまった。

「ん……っあ……」

熱く甘い声を漏らし、唇を離した陽葵は荒い呼吸をしながら俯く。脈打つ内部が尚登の存在を知らせる、その刺激に耐え切れず離れようとしたが、それを尚登は笑顔で阻んだ。

「初めての中イキが、自分でキスしながらかよ」

からかうような口調が恥ずかしく尚登の肩に顔を埋める。

「ちが……」

息も絶え絶えに反抗するが、密着したその場所はなおも快楽が押し寄せヒクヒクと痺れる。気持ちよさに小さな声を上げながら、体は小刻みに揺れていた。その陽葵の背を支え、尚登は押し倒すようにベッドに横たえた。

「可愛いな、陽葵」

優しく髪を梳き、頬を撫でながらの言葉に陽葵は微笑んだが、尚登が体を動かせば背を反らして声を上げる。

「や……っ、今は、ダメ……っ!」

絶頂の余韻が残るその場所をこすられ全身に電気が走ったような気がした、尚登の腕を訴えるが尚登は微笑み語り掛ける。

「無理無理、待てない、陽葵ん中気持ちよすぎ」

嫌だという願いは聞き入れられず、尚登は角度の変え向きを変え責め続ける。陽葵も嫌だと言いながらも尚登がくれる快楽に溺れていた。
身も心も満たされる、この時間がいつまでも続けばいいのにと思うほどに。





空気が震えるのに陽葵は意識を浮上させた。スマートフォンが着信を知らせている、やや遠いのは尚登のものだろう。先ほどから何度か震えているようだ、一旦収まったがまた震えだす、電源を落とそうと、尚登は陽葵が抱き枕のように抱きしめているのを気遣いながらもそれを手に伸ばす、気配を感じた陽葵は体を離した。

「悪い」

尚登の謝罪に陽葵は小さく「ううん」と応え目を閉じる、尚登は画面に出た『Theodoreセオドア』という発信者の名前を見てムッとした。

「……Theoセオ……」

苛つきながも電源は落とさず通話ボタンを押した、スピーカーにしたわけでもないのに途端に元気な声が陽葵の耳にも元気な声が聞こえる。

『Hello, Nao! How are you!?』
「Screw you. What time do you think it is?」(ふざけんな、今何時だと思ってる?)

尚登の返しに陽葵はああと思う、先日も電話で会話をしていた、アメリカでマーシャルアーツを教えているというオーナーだ。尚登が陽葵からすれば完璧と思える英語で不自由なくしゃべる様子に感心したのを覚えている、こちらに知り合いがいないかとまずはメールで相談したところ、その返信が電話であったがその続きだろう。

『Well, It’s 4:00!』(おう、4時だ!)
「All  right, It’s 5:00 in the morning here」(いいだろう、こっちは5時だ、朝のな)

アメリカの現地時間は夕方となる。尚登は怒りを込めてため息交じりに言うが、セオドアはガハガハと笑うばかりだ。

『おお、時差なんてすっかり忘れてたぜ! そんなことよりコーチの件なんだが!』

そんなことよりと言われ苛立ちは募ったが、こちらから依頼していた件だ、尚登はああと頷く。

『そっちに俺んとこで教わったやつはいるとは言ったが、やはりヨコハマからは遠いようだ、お互い通うのは無理だろって言われちまった、わりぃな、日本なんてちょちょいと行けると思ってたわ』
『長さだけなら北海道から沖縄までは、ニューハンプシャーからテキサスまでと変わらねえからな』
『なるほど、そりゃすげーな!』

もちろん面積では約26倍もの差があるが、日本は思いの他南北に長い。そんな日本も交通網は発達し北海道から沖縄までちょっと仕事をしてその日のうちに帰るなどと言うことも可能だが、定期的にとなれば苦痛だろう。

『なもんでどうしようかと思ってたら、んじゃ私が行くわってのがいたんで、行かせるな!』
『そりゃありがたいけど、誰が来てくれんの?』
『こっちに来た年数は浅いが、それなりに動ける。なまったなんていうナオの相手にはいいと思うぜ!』
『おう、助かる』
『なんてのをナオに確認取ってからって言ったんだけんどよ、気が早ぇな、もう空港に行っちまったよ。とりあえずはナオの自宅に向かうって言うから住所は教えておいたわ、中区山下町の701号室だったな』
『そうだけど、できれば教えてほしくなかったわー』

ここはあくまで陽葵の家だ。

『指導料は気にするな、俺の方で持つ』
『だろうな』

尚登が対価を支払うことになれば仕事となる、これほど急な来日では就業ビザなど持っていないだろう。不法就労はさせられない。

『着の身着のままだ、落ち着くまで置いてやってくれ』
『いや、無理だわ』

知っている者でなければ二つ返事で外国までは来ないだろう、あの者かこの者かと男たちの顔を思い浮かべた。男ならば余計にこの家には入れたくはない、近くのホテルにでも泊まってもらうか。

『で、誰が来るって?』
『日本に行ってみたかったなんて言ってたから嬉しそうに行ったぜ! じゃあ、仲良くやれよ~』
『は? だから誰が来るのか教えろって──』

だが通話は虚しく切れた、尚登は大きなため息を吐いてスマートフォンの電源を落とし放り出す。その時陽葵の肩が揺れていることに気づいた、尚登の慌てる様子がかわいくておかしかったのだ。

「悪いな、起こしたな」
「ううん、平気」

冬の朝で窓の外はまだ真っ暗だが、もうひと眠りするにはいかがなものかという時間だ。

「変わらず元気だね」
「ああ、聞こえたか」

セオドアは確かに声が大きいほうだ。

「直接話せばまだ言葉を遮ってまくし立てることもできるのに」

電話では通話のタイムラグある、こちらが何か言っても完全に無視だ。

「コーチを紹介してくれたはいいが、誰なのかいつまでなのかも言いやしねぇ──って、陽葵、そのほっぺどうした?」

髪を撫でられての言葉に陽葵はきょとんとする。

「え? ほっぺ、え?」

言われて自覚した、右の頬が熱く感じられる、痛痒くもあった。

「え?」

指先で触れればざらりとした感触が伝わってくる。

「え、何……」

鏡で確かめようと、ベッドを抜け出すと裸のまま脱衣所へ向かった、一番簡単に覗ける鏡だ。
見て驚いた、それは尚登も驚くだろう。頬骨の下あたりが直径5センチほどの大きさで真っ赤になり、表面は何か所も蚊に刺されたようにぶつぶつしている。

「アレルギーか?」

同じく全裸でついてきた尚登が心配そうに聞き、陽葵の背にフリースをかけた。

「今までこれといってアレルギーを起こした覚えは……」
「普段食べているものでも激しい運動すると症状を出るとか言うし」

激しい運動と言われ、陽葵は頬を染める。

「やだ、違う!」

それすら特に激しいとも思わない行為だったはずだが、そんなことは言えなかった。特に変わったものを食べてもいないが蕎麦はアレルギーが出やすい食材だ、そのせいだろうか。そして特別なものに触れた覚えもなく──と思った時、はたと思い当たった。

「あ、昨日落合課長からもらったファンデーションのせいかも」

言った瞬間、尚登が怒りの表情を見せる。

「おーちーあーいー?」

陽葵は慌てて手を振り、落合の無実を訴えた。

「あの、違うの。落合課長が化粧くらいしなさいって高級なファンデーションをくれて。外国の有名ブランドの。うん、そう、外国製品って日本人は合わないこともあるって聞いたことあるもん、そのせいかも。それをいきなりほっぺに付けた私が悪いよ」

パッチテストでもやってからにすべきだったと訴えるが、尚登の怒りは収まらない。

「本当に陽葵は人が良すぎんだよ、少しは怒れ」
「でも親切でくれたのに、初めての化粧品でパッチテストもしないで使った私も悪いし」

それは事実だ──尚登は大きなため息を吐きながらも受け入れた。

「とりあえず病院だな、通ってる皮膚科はあるのか」

尚登は頭を掻きながらベッドに戻ると、先ほど放り出したスマートフォンを手にする。

「皮膚科はないなあ」

かかったことがあるのは内科だった、その近くにあったような気もするが。

「でもこれくらいなら、市販薬でなんとかなるんじゃ」

近頃の市販薬は優秀だ、それで十分だろう。

「場所が場所だし、痕でも残ったら嫌だろ、ちゃんと医者に診てもらえよ。あ、今日は会社休むか」
「遅刻か午前半休で大丈夫だよ、顔ならマスクで隠せるし、病院行ってから出勤する」

大きめのマスクでならなんとか隠せそうだ、だが尚登は父の仁志宛に電話をかけて言う。

「あ、もしもし? 朝早くから悪ぃ。陽葵が具合悪い、休ませるから俺も休む。じゃ」

はい? おい待て、という仁志の言葉を聞かずに電話を切ってしまう。

「え、なんで尚登くんまで休むの? 人をダシにして休まないでよ」
「陽葵一人じゃ心配だからだろ。ああ、近所にあるわ、9時からやってるってよ」

スマートフォンで調べながらの言葉に、陽葵は諦めた。突然の休みもいいかもしれない。

果たして皮膚科にやってきた。

「あらあら、ずいぶん酷いわね。化粧かぶれかあ」

女性医師は問診票を見てから、陽葵の頬を確認する。

「随分酷そうに見えるんですけど」

診察室についてきた尚登が訴えた。

「うーん、そうねえ、確かに化粧品でここまでは珍しいかしら」
「なにか特別な薬品とか?」

尚登が聞けば医師は首を傾げ、陽葵は尚登の名を呼び諫める。

「なにか思い当たることでも?」

医師はやんわりと聞いた。

「化粧品をもらったと言うんですが、それをくれた人が日頃から意地が悪い人なので」

尚登は笑顔で言う、まるでおいしかった料理の説明でもしているかのようだ。

「そっかー。そのもらった化粧品は持ってきた?」
「はい」

陽葵は答え、鞄からそれを取り出し医師に渡した。医師はそれを開くとまじまじと眺め、匂いまで嗅いだが。

「うーん、正直判らないわねえ。ちょっとなにかの揮発性の香りがする気もするけど、こんなものと言われればそんな気も」
「揮発性なら時間が経って薄まったとか。陽葵、昨日使ってなんか感じなかったのか」
「ごめん、全然」

日頃から使っているわけではない、仮にしたとしてもこんなものだと思っただけかもしれない。

「預かってよければ、調べてもらえるとこに出すけど?」

医師の提案に尚登は是非と応えようとしたが、陽葵が拒否してしまう。

「いいです、いきなり顔に塗ってしまった私が悪いですから」

陽葵の発言に尚登は言葉を呑み、医師はにこにこと微笑みながらそっかーと頷いた。
強めのステロイドで症状を抑え、飲み薬との併用で様子を見ることになり病院をあとにする。

「あのなあ、陽葵」

病院ではおとなしくしていた尚登が口火を切る。

「本当に人が良すぎるぞ、落合の邪な行動は制裁を科すべきだ」
「そうなんだけど」

陽葵はマスクの下で微笑んだ。

「落合さん、おめでとうって言ってファンデーションをくれたんだもん。その落合さんを疑いたくないかな」

陽葵の言葉に尚登は嫌そうにため息を吐いた。積年の恨みもある、徹底的に物理的に叩き潰したいくらいだ。

「でも頬にちょっと試し塗りした程度だったからそれで済んだが、もし顔全体に塗ってたら」

怒りを押さえ言った、頬でそれほどかぶれるのだ、もし目などに入っていたらどうなっていたか。

「わ、それはさすがに大変になるとこだった、やっぱりパッチテスト大事──って、もし顔中真っ赤っかになったら、尚登くんも引くよね、嫌いになる?」

頬を手で覆いおろおろと訴える陽葵に、尚登は微笑みかけた。

「阿保か、それくらいで嫌いになる訳ねえだろ。顔中の皮がなくなっても陽葵が好きだ」

それはそれでどうなのだと思うが、陽葵はほっとする。

「──ただ、落合は誰が何と言おうと、完膚なきまでにボコる」

目を光らせ拳まで握り締めて言う尚登は、本当に実行しそうで陽葵は焦る。命を失ったわけではない、そこまでしなくても、と思うのはやはり甘い考えなのだろうか。

「昼飯は、食って帰るには早いな」

スマートフォンで時刻を確認して尚登は言う、まだ10時過ぎだ。

「うん、外食はちょっと。私もこんな顔だし」

マスクの上から頬を押さえ訴えた、その下にはガーゼもある。食事となればマスクは取らなくてはならない。

「それもそうだな。じゃあなんか作んべ。せっかく時間もあるし、のんびり作るかー」

手を繋ぎ歩き出す、向かったのは以前も行った大容量がウリのスーパーだ。

「あ、餃子にするか」

豚ひき肉が特価になっているのを見て尚登が閃く。

「餃子……手作り?」
「あったりめーだろ」
「……いつも、餃子は冷凍か、外で食べてた」

一人暮らしでは一人でそこまで時間をかける気になれなかったのが一番だ、実母がタネを作り一緒に包んだ記憶はあるが、自分で作ろうと思ったことはなかった。

「……楽しみ」

僅かに微笑み小さな声で言う陽葵の髪を撫で、尚登は抱き寄せていた。

「よっしゃ、皮から作ろう」
「え、皮から?」

改めて尚登の器用さに驚いてしまう、尚登は嬉しそうに強力粉も買い物かごに放り込んだ。

帰宅すれば早速調理の開始だ。

「俺は皮作るから、陽葵は野菜切ってて」
「はーい」

陽葵は買ってきた長ネギとキャベツとニラを流しに出し、まな板と包丁を準備した。
尚登は大きなボウルを取り出し、強力粉と薄力粉と塩を入れる、完全に目分量だ。そこへ熱湯を少しづつ注ぎ菜箸で混ぜていく。そぼろ状になれば手で力を入れてこね弾力が出てまとまってきたらラップに包み生地を休ませる、その間に尚登も陽葵と並び野菜を切り始めた。

「いつも皮から作るの?」

それは高見沢家のやり方と聞いてみたが、尚登は笑う。

「アメリカにいた頃だけだな。近くにアジア系のスーパーもあったけど高いし量も多いしで、これくらいなら作れんべってやってみたら意外と簡単だったしうまかったから」

冷凍食品もあったが、変なところでこだわりがあった。

キャベツは塩を振り適度に水を抜き、こねた肉と野菜を混ぜるとそれは冷蔵庫に入れ馴染ませる、その合間に皮を完成させることになる。
生地を延ばす麺棒すらなかったので買ってきた。中華街が近くてよかったと思ったほどだ、多くの種類から選べ、餃子の皮を作るのに最適なサイズを購入できた。
ピンポン玉よりやや小さいほどの大きさに切り分け、尚登は慣れた様子でそれを麺棒で伸ばしていく。まずは手の平で押し潰し、回しながら中央は山が残るようにするのだ。

「ほれ、やってみ」

3枚ほど手本を見せてから陽葵に促す、できそうにないと思いながらも陽葵は生地を手に取った。

「だいたい8回くらいだな、周りから潰して」

45度ほどずつ回しながら伸ばすのだ、やってみるがやはり思いの他難しい。

「……いびつ」

尚登のようにまんまるにはならない、ふちの厚みも不均等だ。

「味には大きな影響はねえよ。ほらさっさとやらないと乾いていくから、スピードアップ」

言われて陽葵はぎこちなくも手を速めて作っていった。
皮が出来上がれば餡を包んでいく。その全ての作業が楽しかった、二人で笑いながら伸ばし、包み、焼いて頬張る。食事としては餃子のみで、あとは中華だしと長ネギだけのスープだったが十分満足だった。

「おいしかったし、楽しかった」

食後の片づけも二人並んで行う、陽葵が笑顔で告げれば、尚登も嬉しそうに微笑む。

「面倒とか言われないでよかったわ」
「全然だよ、改めて飲食店で食べられるの感謝できた。すごいね、サイズとか味とか同じで作れるの」

中華料理店で出されるものは、まるで工業製品のように作れるのは神業だと思えるほどだ。

「また作ろうね」

今度はもっと上手に作ろうと微笑みかければ、尚登はその頬にキスをした。

急に得られた休みに特にすべきこともなく、二人でのんびりと過ごしていた。
陽葵はソファーに腰かける尚登に寄り掛かるようにしてテレビを観ていた、尚登はその陽葵の髪や肩や背を撫でていると、尚登のスマートフォンが着信を知らせる、電話だ。画面に出ている文字は『則安』である。

「じいちゃん」

思わず声を上げていた、則安からの電話は珍しい。ローテーブルにあるスマートフォンに手を伸ばす尚登から陽葵は慌てて体を起こす、自分宛ではないが会長からの電話である背筋が伸びた。

「はーい?」

応答すれば、則安は生真面目に「俺だ」と名乗る。

『今日、仕事帰りにそちらに寄りたい、20時くらいになるがいいか?』
「いいけど、なんで?」
『事情の説明やらなにやら。電話で済ませることでもないし、陽葵さんにも会いたい』
「事情?」

何のことだと思うが、揃えた膝の上に手をつき背筋を伸ばす陽葵を見て理解した、頬の怪我の件だろう。

「判った、待ってる」
『玄関先で失礼する、長居する気はない』

接待は無用だという意味だと判り、了承して電話を切った。

「じいちゃんが来るってよ」
「え!?」

セオドアとは違い、則安の声は漏れ聞こえては来なかった。陽葵は慌てて立ち上がる、掃除を、片付けをしなくては。

「会長が、なにをしに……!」
「落合さんの件だろ。ああ、玄関先で帰るってよ」
「えっ、落合さんの件、話したの?」
「そりゃ言うだろ、十分傷害事件やろが」

病院に行く前には通信アプリの高見沢家のグループにメッセージを送り付けていた。もう辞めさせればいいとかなり激しい内容で送ったが、父からはまあ待てという返事があったくらいだったが。

はたして20時を1分過ぎた時、集合玄関のインターフォンが鳴らされた、尚登が応答し開錠するとしばらくして玄関のインターフォンが鳴らされる。
玄関に向かう尚登の後をついて歩きながら、陽葵は髪を整えフリースの襟を正した。
身内を出迎える尚登は「よお」と言ったきりだが、陽葵は最敬礼で頭を下げる。

「お疲れ様です!」

則安は優しい笑顔でそれに応えた。

「ああ、お疲れ様。陽葵さん、怪我の具合はどうかな?」
「いえ! もともと大したことはないのに、尚登く……さんが!」
「大したことないことないだろ、女の子なのに顔に傷つけられて」

尚登は呆れながら陽葵の頬にあるガーゼを指の背で撫でた。それを見て則安も唇を引き締める、怪我の具合こそ見て取れないが尚登の言う通りだ。

「あの、お上がりください!」

陽葵が中へいざなった、未だにスリッパはない、本当に用意をしておくべきだったと後悔する。

「いやいや、本当にこちらで結構、用件を伝えたらすぐに帰るから」

ひとまず玄関の鍵はかけ、則安は切り出す。

「落合君だが、今日から私の秘書としてついてもらっている」

ああと呻くように返事をしたのは尚登だ、なんとかしろと訴えたがそういう形で収めようというのか。確かに則安の秘書ならば会社にいないことの方が多い、陽葵に会うこともなくなるだろう、だが尚登の腹の虫は収まらない。

「んな面倒なことしないで、さっさと辞めさせりゃいいだろ」
「尚登」

尚登の訴えを則安は厳しい声で諫める。

「雇った者をそう簡単にはクビにはできない、それこそ感情ひとつでクビを切るわけにはいかないんだ」
「感情じゃない、間違いなく傷害事件だ」

尚登の言葉に、則安ははあと大きなため息を吐いた。

「ファンデーションについては本人にも聞いたが、プレゼントの事実は認め、かぶれたようだと言えば、まあ合わなかったのかしら申し訳ない、謝罪したいと言っていた」
「んなもんいい」
「そうです、私が悪かっ──」

二人して声を上げたが、陽葵の言葉は尚登が眉間にしわを寄せ睨むことで止めた。

「念のため、物を調べようと思う」

則安の言葉に陽葵はえ?と声を上げていた。

「私も多くの人を見てきた、朗らかな者から腹黒い者まで──陽葵さんの怪我の話をした時の落合君の目は、何かを知っている目だった」

本来課長にもなれば誰かの秘書として働くことはない。だがそれを会長の秘書となり同行するよう求められた、左遷といってもいい状況のはずだが、落合はいそいそとやってきた。そして陽葵にファンデーションをあげたのかと聞けば最初こそ嬉しそうにそうなんです、色が合わなくてと饒舌に答えていたが、頬が大層かぶれて外出できないほどになってしまったらしいと大げさに言えば青ざめ視線が泳いだのだ。もっともはっきり取り乱すほど小心者ではなかった、会話が変われば普段の変わらぬ様子だったが、その後視線が合うことがなかった。なにが事情を知っていると思うのは当然だ。

「ちょっと預からせてもらいたい、いいかな?」
「落合の顔に塗ったくってやればいい」

尚登の怒った口調に、則安は微笑む。

「それは妙案だな、嫌がればなにか仕込んだ証拠になるだろう」

陽葵はいまだ鞄に入れていたファンデーションを取り出し、則安に渡す。

「検査機関で分析を頼む、その結果次第では処遇を考えるが」
「クビにはしないでください」

陽葵は先じて言っていた、尚登は怒った口調で陽葵の名を呼ぶ。

「十分傷害事件なんだぞ、警察に突き出せる」
「判ってるよ、でも傷が残るほどの怪我じゃないし、私は落合さんを恨んでないもん」

尚登を可愛がっていた落合の最後の抵抗だと思えば致し方ないと思えた。

「むしろ今解雇なんかされたら、ご年齢からも再就職とか本当に困るだろうし」

拳を握ってまで言う陽葵に、則安は微笑みかけた。

「ありがとう、陽葵さん」

尚登は甘いという優しさに感謝した。実際のところファンデーションからなにか出たとしても『証拠』にはなり得ないと思っている、ファンデーションは特別な品ではない上、落合が陽葵に渡した物だという確証がないからだ。トイレに防犯カメラはあるが出入り口を映すだけで内部にはない、二人が時間差で出入りする様は判ったが手渡した現場を押さえた証拠がないのだ。

「お詫びをしないといけないのは私だ。落合君が仁志に思いを寄せていることは知っている、仁志も判っていながら希美さんを選んだ。仁志は落合君とはやり辛いとこぼすが、配置換えや転勤などをさせずに本社に置いておけと言ったのは私なんだ」

言って則安は深々と頭を下げた、会長に頭を下げられ陽葵は慌ててしまうが、尚登はふんと鼻を鳴らす。

「なんでだよ、おかげで長きに渡り俺にも迷惑が」
「恋心を利用するのは卑怯だが、ああいう者はそばに置いておけば社のためになる。仁志のために身を粉にして働くだろう、それはひいては社に貢献することになる、現に最近まではうまくいっていたんだ」

仁志は尚登よりも若くして副社長の座に就いている、その当初から落合は秘書としてそばにいた。その頃から積極的なアプローチはあったが仁志のタイプではなく、副社長と秘書という立場は厳密に保っていた。
希美が秘書についたのはその翌年だ。屈託がなく気立てもいい希美に仁志は惹かれた。落合を気にしつつ交際を申し出たが、最初こそ希美は辞退した。落合の気持ちを知っていたし、いずれ社長となる者の嫁など務まらないというのは陽葵と同じ気持ちだろう。それでも仁志は折に触れて希美を気にかける、静かなアプローチは少しずつ希美の心を溶かし、やがて仁志の思いに答えた。

だがそれはすぐさま落合も知る。まだそれほど親密にはしていなかった頃だったが、二人して煌く瞳で見つめあい会話していれば誰でも判るというものか。なんとか割り込もうと奮闘するが健闘及ばなかったのは既知のことだ。
希美を選んだと周知した時に落合が自ら異動を希望したならまだしも、落合はそうはしなかった。なおも本社の秘書課に居続けるのはやはり愛なのか。

「俺の見合い相手を送り込んできたのも貢献だと?」

尚登が不機嫌に聞けば、則安は微笑み答える。

「ああ、それもどこの誰とも判らない女性を連れてきたなら文句も言えるが、出自もしっかりしたご令嬢ばかりだった、むしろありがたかったぞ」

落合が直接仁志や則安にこの子はどうかと売り込んだわけではない。持てる限りのツテを使って末吉の跡継ぎが花嫁を探している、いい子はいないかと聞いて回ったのだ。

「そもそも、ナオが帰ってこないのがいけないんだろう。俺は大学はこちらへ帰ってこいと言ったはずだ」

腕まで組んで威圧する則安に陽葵は慄くが、恫喝されているはずの尚登はどこ吹く風だ、けっ、などと毒気づく。

「しかもやり残したことがあるなどと言って大学院にまで進んで、10年以上もフラフラと。俺や仁志は大学に通いながら会社の手伝いもして仕事を覚えたもんだ。それを羽を伸ばしに伸ばしきって、30にもなるのに身を固めることもしないから俺が奔走して」
「あー判った、判った、俺が悪かった」

尚登は手で耳を塞いで声を上げ、則安の言葉を止める。これまでも何度も聞かされた口上だ。その腹いせの見合いだったとでもいうのかと言いたいが、これ以上油を注ぐことはしたくなかった。

「ようやく落ちついたと思った矢先にこれだ」

則安が怒りのまま呟けば、陽葵が「すみません」と謝った。

「いやいや陽葵さんは悪くない、どうかこれからも尚登のそばにいてやってほしい」

再び頭を下げる則安に、陽葵はいえいえと叫び顔を上げてもらう。

「顔に怪我など女性には大変だろう、完治までゆっくり休むといい」
「いえ、これくらい、どうということないです」
「なに言ってんだ、俺も一緒に休むから」

尚登が言えば、則安はすぐさま尚登を睨みつける。

「尚登はちゃんと働け、道楽で仕事をしてるんじゃないんだ」
「でも陽葵が心配だし」
「ならば二人して田園調布 うち に戻ってこい、うちにはいつも誰かしらいるから安心だろう。希美さんはいつ二人が戻ってきてもいいようにと毎日いそいそと窓拭きまでしているぞ」
「ええー?」

とびきり面倒そうな尚登の声に、ビクビクしてしまうのは陽葵だ、相手が会長だという意識が抜けない。

「陽葵さんはご実家の荷物も運びださなくてはいけないと聞いているぞ、ここに持ってくるくらいならうちに運べばいいだろう」
「ああ、それな」

川崎の家を手放す話はしているため尚登は呟いた。
だがそれもすぐではないからと陽葵自身、荷物の搬出は先延ばしにしてしまっている。もう何年も使っていなかったものばかりだ、史絵瑠たちではないが全て処分でも構わないのでは思いながらいざそうしようと思うと思い切ったこともできないものだ、母の写真のように大事なものもあるかもしれない。

「まあ、いずれ」

尚登ですら先延ばしだが、それは田園調布に住む話ではない。

「まあそんな話も立ち話ではなんだ、またゆっくりしようじゃないか。とりあえずこれはお預かりするよ、夜分に失礼したね」
「いいえ! こちらこそ、ご足労いただき申し訳ありませんでした!」

再度後頭部が見えるほど深々と頭を下げる陽葵に笑顔で応えて則安は帰っていく、お疲れありがとうと言ってドアを閉めたのは尚登だ。

「しかし、マジでちょっと厄払いにでも行ったほうがいいかもな、いろいろありすぎだろ」

改めてその通りだと思う、陽葵もうんと頷いていた。

「しばらく会社休んで、日本中の厄払いの神社仏閣を詣でるか」
「そんなこと言って仕事サボることばっかり考えないの。また会長に怒られるよ」
「陽葵といるほうがはるかに有意義」

笑顔で言ってしっかりと陽葵を抱きしめた、陽葵も尚登の背に腕を回し抱きしめ返す。
確かに尚登と時間も気にせず旅をできたらどれほど楽しいだろう、しかしそれは老後の楽しみでもいい、今はまだやることがあるのだから。





翌日、皮膚科に寄り道をしてからの出社のため遅刻することになる。着いて来ようとする尚登は無理矢理出社させ、診察が終わり次第会社へ行った。
なおもあるガーゼはマスクで隠した、そんな姿に山本は自身が傷ついたように心配してくれ、やはり休んだ方がよかったのかと思ってしまう。

そして午後の外出の折、エレベーターで乗り合わせた仁志が口火を切った。

「落合君だが、依願退職するそうだ」

小さな声に、乗り合わせた皆で「え?」と聞き返し、尚登だけは「はあ?」と怒りを含んだ声で返した。仁志は眉間を指で揉みながら答える。

「会長は、例の物を分析会社に持ち込むのに付き合わせたらしくて」

民間の成分分析の会社に調査の依頼をした。朝一で向かおうとすれば落合は会長がそこまでしなくてもと止めるのを、孫の嫁の顔がただれた原因を知りたい、内容次第ではファンデーションのメーカー相手に訴訟だと意気込んだ。

「そのまま具合が悪いからと帰宅したそうだ、そして体調が思わしくないので退職したいと先ほど電話で連絡があった。有休も残っているのでこのまま辞めさせてもらいたい、と」

口頭での退職の告知は有効だ、後日退職届を総務部長に出せば問題はないのだが。
尚登は面白くなさそうにふんと鼻を鳴らす。

「懲戒解雇を逃れたか」

会社都合による退職は次の就職への足かせになる場合もある。もちろん『懲戒』などとつかないただの解雇でもよいのだが。

「やっぱあのババア、なんか仕込んでたな」

尚登が言えば、仁志はため息交じりに答える。

「──恐らくな」

秘書たちはなんのことなのかが判らない、きょろきょろとしている気配に仁志はその会話を無理矢理終わらせた。

分析の結果が出たのは1週間後だった、その結果を持って則安が落合の自宅マンションを訪ねたのは夜になってからだった。

都内のウォーターフロントにある高層マンションだ。既に訪問する旨は知らせてある、コインパーキングに運転手と秘書を残し一人その部屋の呼び鈴を押す。
応答もなくドアが開いたのは、陽葵のマンション同様1階のインターフォンで既に来訪を知らせていたからだ。顔色も悪く憔悴しきった落合がドアの隙間から顔を覗かせた。

「私の用事は判っているな」

落合は小さく頷く。

「結果は見るか」

A4サイズの封筒を差し出すが、落合は小さく首を左右に振った、その結果など判っている。

ファンデーションからは微量ながら殺虫剤の成分が検出された。故意なのか偶発なのかも判らない程度で、そのものは揮発性が高いものだ、時間と共に薄まった可能性も否定できないという。もちろん製造会社で入るはずがないだろう。ならばどこで入ったのか、落合の顔が示している。

「陽葵さんは、怪我は大したことないから気にしないでほしい、いきなり顔に塗った自分が悪かった、落合君のせいではないと──君よりよほど大人の対応だな」

検出の報告と落合を調査するかという話を受けた陽葵は、則安にそう伝えた、尚登は当然怒るがそれを陽葵がなだめている。
大きな騒ぎにしてほしくはなかった。一方通行ながら尚登を可愛がっていた落合の抵抗だ、それを罰することは間違いではないがそんなことはできないと思うのは陽葵の甘さか。それでも長く働いた会社を自ら辞めたということは犯した罪は判っているからだ、それに追い打ちをかける気にはなれなかった。ほんの少し傷つけられた、それもきれいに治れば終わりでいい、そう思っていた。

「ごめんなさい……こんな大事おおごとになるなんて、思わなくて……」

落合は消え入りそうな声で言った。

「あの……わざとでは……虫が……そうハエがいたんです、それをなんとかしようと吹きかけてしまって……表面は拭いたんですけど、まさか中まで入ってしまっていたなんて……!」
「それが君の言い訳か」

則安がため息交じりに言えば、落合は悲鳴のような声を上げ則安を上目遣いに見る。寒さも厳しくなってきた今、ハエなどいるはずがない──単なる嫌がらせだった、そのために高いファンデーションを買い殺虫剤を吹きかけ、嬉しそうに受け取る陽葵の裏でほくそ笑み満足だった。怪我をさせるつもりはまったくなかった、殺虫剤ごときでそのような怪我をするなどとは思っていなかったのだ。

「お詫びを……藤田さんに、きちんとお詫びをしたいです……! 治療費とか……」

せめてもの贖罪にと申し出るが、則安の返事は冷たかった。

「金は不要だ。そしてどんな理由であれ陽葵さんと二人きりで会わせる気はない、尚登も一緒なら、こちらに来させていいか」

そんな言葉に落合は慌てて首を横に振る。尚登を自分の息子だと吹聴していたのは比喩ではない、本当にそう思い大事にしてきた、その尚登に冷たい目で見られるのは嫌だった。

「……ご足労、いただくわけには……」

そう言い訳すれば、則安は気持ちは伝えておくと言葉を添えた。

「君には失望した、いや、期待しすぎた私が悪いのか」

則安の言葉が心をえぐる。

「つい先日まであれほど社のために働いていてくれたのに。手の平を返した途端、なぜ一番縁遠い陽葵さんをターゲットにしたのか。振られた腹いせだというなら仁志だろう、仁志を奪った仕返しなら希美さんだ、なぜ一番弱い立場の陽葵さんだったのか──本当に残念だよ。罪に問わないという陽葵さんに感謝しなさい」

落合は涙ながらにすみません、申し訳ありませんと繰り返した。それを聞きながら則安は邪魔をしたと挨拶をして踵を返す。
実際のところ、検査結果が出たところで落合を罪に問うことは難しいだろうと考えている。一番は受け渡しの現場を押さえていない点だ。同じ成分の殺虫剤が落合の家にあったところで、その殺虫剤がいつファンデーションに付着したのかが判らないのだ。

やれやれと則安は眉間を指で挟み揉んだ。本当に軽症で済んでよかった、これで命を脅かすようなことをしでかしていれば取り返しがつかなかった。私怨で警察を巻き込む事件になるなどあってはならない。
今更ながら落合の処遇はやはり間違っていたのかと後悔した、もっと早く打つ手があったのだろうか。


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