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黒木希

20話 一計

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「……麻衣ちゃん、麻衣ちゃんって……」

 柔らかな香りと声に包まれて、気付くと目の前に希のアップの顔があった。
 またしても眠ってしまっていたらしい。

「あ、起きた。よく寝てたね」

 どアップで、ふふ、と彼女が微笑んだ。
 あまりに幻想的なその光景に俺は、またしても夢かと一瞬思いかけたが、自分が黒木希というトップアイドルのマネージャーであることを思い出し、その光景が現実のものであるということに至った。

「わ、わ、す、すみません……。希さんの部屋で寝てしまうなんて!」

 しかも今度はソファの上に運ばれており、俺の身体の上には丁寧に毛布までもが掛けられていた。
 想像しがたいことだが、この部屋に希本人以外はいない。従って俺をソファに運んだのは彼女以外いない。マネージャーがタレントにこんなお世話をさせるなどあってはならないことだろう。まして相手は国民的アイドルの黒木希なのだ。
 ……熱心なオタクにこんなことがあったことがバレたら、ボコボコに殴られても文句は言えないような気がした。
 あ、いや……。今の俺はWISHのメンバーにも劣らない超絶美少女の小田嶋麻衣なのであった。
 ドルオタなんていう類のヤツらは、相手がおっさんや小綺麗なイケメンだったら法を飛び越えて裁くことすら辞さないが、相手が美少女だったら光速で手の平を返し「尊い、尊い!」と連呼するような連中だ。『可愛いは正義』という大原則が世界中で最も貫かれている界隈なのだ。
 なんら心配する必要はなかった。

「ん……麻衣ちゃん。寝顔も可愛かったわよ」

 意味深な微笑みを浮かべた希の言葉に、思わず顔が真っ赤になってゆくのが自分でも分かった。

「と、とにかく!ご迷惑をお掛けしてすみません。……それよりも私のことは良いんです!希さん、体調はどうですか?」

「ふっふっふっ、この通り完全復活しました!」

 またしても彼女はわざとらしくマッスルポーズを決めて、健康をアピールしたが、当然そんなものを簡単に信じることは出来なかった。

「や、ホント、ホント!熱だってもう下がったし!」

 じとーっとした視線で彼女を見つめていると、何も言わないうちに彼女の方から弁解してきた。
 示された体温計は確かに36,2度を示していた。

「……希さん、本当に体調良くなったんですか?もしかして何か体温計に小細工したんじゃないですか?」

 頭も身体もまだきちんと回っていはいなかったが、最初に気になったのはやはり希の体調だった。復活をアピールする彼女を信用する気にはどうしてもなれなかった。  
 ふと目に入った壁時計は午後8時を過ぎたばかりだった。もっと長く眠っていたような気がした。

「もう、失礼しちゃうわね!本当に熱は下がったんだから……。確かめてみる?」

 未だ動きの鈍い私のスキを突くように、希はオデコにオデコをくっつけてきた。
 
「……あ、そ、そうですかね。たしかに熱は下がった、かもですね……」

 不意を突かれて、逃れるヒマのない早業だった。
 ……なんかあまりに近過ぎてドキドキもしないというか、ゼロ距離になってしまうと超絶美しい顔面も見えなくて、あまり意味を持たないものだな、というのが不思議な感想だった。

「あら?……むしろ麻衣ちゃんの方が熱が上がってきたんじゃないの?大丈夫?何か顔も赤っぽくなってきたし」

 ……いや、もうね。そりゃ、そうなりますよ。
 イチイチ説明するのも面倒くさいし、彼女が本気で心配しているのか、単に俺をからかっているのか分からなかったので、適当に流しておいた。
 とりあえず、こんな風にはしゃげるくらいだから、確かに彼女の体調はかなり良くなったのかもしれない。

「……わかりましたよ、もう!良かったですね。しかしたった数時間でこんなに回復するなんて、ずいぶん便利な身体ですね?」

「ふふ、たしかにね……。で、明日の仕事は何だっけ?」

 やる気満々な様子を見せる彼女だったが、俺は流石に首を振った。
 
「明日の仕事は……ありません。明日はゆっくり休んで下さい」

「そういうわけにはいかないわよ。色々な人に迷惑が掛かっちゃうでしょ?あ、でももう仕事はキャンセルにしちゃってるってことか……。しょうがないわね。体調崩した私が悪いんだものね。……あ、そういえば番組のアンケートが結構溜まっていたわよね?あれなら今できるかしら?麻衣ちゃん私のスマホに送っておいてくれない?」

 テレビ番組や雑誌の取材などでは事前にアンケートを書かされることがある。
 アンケートと称しながら質問に答えるだけの簡単なものは少なくて、テレビなどでは「最近あった面白い出来事を教えてください」というような、エピソードを書かせられるものがほとんどである。
 もちろんバラエティ番組などで彼女が呼ばれるのは、画面上に華を持たせたい……というのが一番の起用理由なので、その場のエピソードトークで場を盛り上げることがどうしても求められているわけではない。
 それはそういったことが得意な芸人さんやバラエティタレントの人に任せておいて、ただニコニコ座って、面白い時には面白いというリアクションを取れば良い。
 製作側のスタッフが求めているのは極論を言えばそれだけなのである。
 だが何に対しても真面目な彼女はそれを良しとしない。どんな番組だろうと全力投球をしようとする。それが素晴らしい姿勢なのは言うまでもない。……だけど、せめて今くらいは自分を休めることを優先して欲しかった。
 何と言うか、彼女はもう仕事中毒なんじゃないだろうか?という気がしてしまう。仕事をしていないと不安、誰かに求められていないと不安なのではないだろうか?
 


 そこまで思い至った時、私は一つの策略を思い付いた。

「そこまでおっしゃるなら……少し社長に連絡を取ってみますね」
 
 廊下に出て社長に連絡を取っているフリをして、スマホで諸々の事情を調べてみる。
 ……うん。大丈夫だと思う。



「希さん?一つ仕事が入りました。早朝からの移動になるんですが、大丈夫ですか?」

 俺の問いかけに希は一瞬驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに目を輝かせて大きくうなずいた。


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