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第三章 三人目と四人目と五人目
四人目・伊野田民生
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意識があるまま四肢を切断される……という痛みは到底想像できるものではない。目覚めたとしても余程嫌な感覚だったろう……とリコリスが珍しく気を利かせたところだった。背後から「ああ、よく寝た」というのんき極まりないあくび混じりの声がした。
あれだけのことをされてよくもまあ、とリコリスは地獄の使者なりに戦いた。そんなまったりとした朝のような一言で済ませて良いものなのか。
「あ~よく寝た。首斬られる視点ってあんななんだな」
普通はできない体験したわ、と尚ものんきな感想を述べる谷垣に、リコリスは呆れ混じりに声をかけた。
「あれだけのことをされて、よくもまあ……のんきなものですね」
「殺されるのはいつものことだろ。頭は即死だから全然良かったけど、足とかは流石に気絶もできないし参ったわ」
「……その精神の強靭さ、感服いたします……」
それはそうと、彼は根っからの悪人、殺人鬼ではないのだと、リコリスには透けて見えていた。矢吹奏多への対応なんかを見ていても、彼には殺しを行ってしまう発作……“スイッチ”があるのだとわかった。
「それにしても、谷垣様。貴方様はもしかして……」
「あー、なんか野暮なこと言うつもりならやめてくれ。どうせこのあと嫌でもわかる」
「……どういう意味です?」
「あんた、“俺にはトラウマがある”とか言うつもりだろ」
次に俺が殺したのは、そのトラウマの元凶だよ、と吐き捨てるように谷垣は言う。リコリスは、その言葉を聞いてやっぱりか、と思うと同時に殺していたことに驚きを隠せなかった。
「知りたいならその人に聞けばいい。成仏してなければ、だけどな」
「……私が聞いてよろしいものなのですか?」
「正直言うとずっと“気になる~”って顔しててうざいんだよな」
「なっ……」
トラウマ、即ち心の傷。谷垣の場合は結構深そうだから、と直接本人に聞くといったことをしてこなかったというのに、この言いぐさである。リコリスは少しムッとするが、どこか自棄になっているような谷垣の様子に気付き、口を噤んだ。
「……」
「……あんたが言い返さないの珍しいな。……別に、知られてどうこうって訳じゃないし、聞きたいなら勝手に聞けばいいし。興味なければとっとと殺し返しを見守ればいいし」
どこか諦観したような表情の谷垣。その心境はどのようなものなのか。リコリスは計り知れないものだった。
「いつもみたいに業鏡だって使うんだろ? だったらすぐにあんたが知りたいことは見られるんじゃないか」
「……谷垣様は、殺したくて殺しているのですか?」
「……その質問は、どういう意図だ? まさか、“殺したくて殺してなければ減刑でーす”なんて言うわけじゃあるまいし」
俺がこれまでの相手を殺して来たのは事実で、どうにもならない過去だよ、と谷垣は嗤う。全ての化けの皮が剥がれるのはもうすぐそこだ、と勘付いているような諦めた笑みだった。
リコリスは覚悟と自棄がないまぜになったような谷垣を尻目に、複雑な気持ちで今回の被害者を呼び出した。
「……それでは、今回の被害者である伊野田様をご案内いたしました」
「やあ。……久しぶりだねぇ、谷垣くん」
「……あんたの顔なんか、もう二度と見たくなかったのにな」
「……はは、そうだろうね。すまないねぇ……」
谷垣の反応に困ったように笑む、優しげな老人。それがリコリスから見た伊野田民生の印象だった。
「……やれよ、リコリス」
「……え?」
「殺し返しの前には、殺し方に間違いが起こらないように、業鏡を使う……そういう話だったろ」
「さようで……ございますが……」
「……」
八つ当たりでもするように、谷垣は早く業鏡を使え、と催促をする。ぶっきらぼうに言われたリコリスは少しだけ戸惑いの色を見せた。伊野田は、寂しそうな、悲しそうな、複雑な表情で、目を細めて谷垣を見ていた。双方の口は閉ざされたまま、何も語ろうとはしない。
リコリスは、観念したように業鏡を発動させた。
「……それでは、これより業鏡による再現をさせていただきます」
「……再現、か」
「……」
谷垣は目を瞑って深く息を吸っていた。まるで、向き合いたくない、今まで目を逸らしていた何かと向き合いに行く前のような、そんな表情だった。
伊野田は懐かしむようにぽつりとぼやき、懐かしむような微笑みをたたえている。どこかに寂しさを滲ませながら。
そんな二人を飲み込むように、業鏡が再現を始める。
「はぁ~ッこの一杯だよなあ」
映し出された風景では、昼間から居酒屋で飲んだくれる谷垣の姿があった。何らかの憂いでも晴らすように、ビールを片手に焼き鳥を食べている。
「……酒は美味しいんだけどなあ」
「ははは、そんなこと言って! うちの焼き鳥に文句でもあんのかいあんちゃん?」
「あーいや、そういうわけじゃないっすよ。美味しいし、ビールに合ってていいと思う」
この頃の谷垣は、己の人生に意味を見いだせなくなっていた。ヤクザとしてやっていくにしても、人を動かすために狡猾に振る舞うなど面倒この上ない。
だからといって、今更足抜けをしてどうなるというのか。自分はとっくのとうに人殺しだというのに。
二人の再会は、そんな悩みを抱えている時期だった。
「おや? きみ……もしかして、谷垣くんかい?」
「……は……」
ふとかけられた声に、どくん、と心臓が跳ねたのを谷垣は感じた。跳ねた心臓がそのまま奈落に落ちるような、そんな錯覚さえした。いやなくらいに聞き覚えのある、柔らかで穏やかな声。いや、まさか、そんなはずは、と否定をしながらも、体は強張る。
「僕もご一緒していいかな?」
「伊、野田……さん……」
伊野田民生。かつて、施設内で谷垣が誰よりも信頼していた人物である。いつもの“発作”が起きないのは酒のおかげか、再会の衝撃ゆえか。
それでも、谷垣の心臓はバクバクと騒ぎ出し、頭には鈍痛が走る。ああ、なんでこんなタイミングで出会ってしまうんだ。
「……どうぞ」
「どうも! ……本当に、久しぶりだねぇ」
「……そう、ですね」
「随分と大きくなって……きみと、こうして呑めるなんてね」
「……はは、は」
普段だと得意分野である愛想笑いすら硬くなる。頭によぎるのは忘れようにも忘れられないあの日のことで、自分をじっとりと見つめるあの疑念の視線が今でも向けられているような気がして、本当は今すぐにでもここを立ち去ってしまいたかった。
「ちゃんと暮らしているかい?」
「……ちゃんと、ってなんすか」
「ほら、自炊したりしてなかったり、とかあるじゃない?」
「はは……適当に暮らしてますよ。飯も、寝るのも」
「そうかい……とりあえず、元気なら良かった」
居心地が悪そうにしている谷垣に気付いているのかいないのか、伊野田は呑気に声をかける。
「良ければ、今きみが住んでいる部屋とかも見てみたいな。……なんて、行き過ぎた話か。はは、この年になるとどうもお節介になりすぎてしまうね……」
「……いいっすよ、別に」
「……いいのかい?」
「どうぞ。見るモンなんて特に何もないと思いますけど」
「本当かい? 嬉しいな」
谷垣の言葉に、心底嬉しそうに言葉を返す伊野田。還暦をとうに過ぎた彼にとっては、谷垣のことは子供や孫のように見えているのかもしれない。そんなことを谷垣はぼうっとした頭で考えていた。部屋に案内したら、いまさら親気取りをされても困る、とはっきり言おう。今の職業に誂え向きな、荒っぽい言葉で。
「今からでも、大丈夫かな? 日を改めた方がいいなら……」
日を改める? 勘弁してくれ、あんたとの約束があるというだけで心が重い。谷垣は焦りによって徐々に混乱していった。
「ああ、いや……これからでも、ぜんぜん」
「いいのかい? こんな突然……」
「別に突然じゃなくても、部屋の様子は変わんないんで」
居酒屋を出た二人は、そのまま谷垣の自宅へと向かった。ボロアパートの一室で、確かに谷垣は雑な暮らしをしていた。飯は基本外食、面倒なときはカップ麺。布団は敷きっぱなしで酒の缶は片付けられずにそこらに転がっている。
そんな部屋を見て伊野田は苦笑を溢していたが、そんなことも露知らず、谷垣はバクバクと早鐘を鳴らす心臓と戦っていた。
言うんだ、親気取りをされても困る、と。だけど、その言葉を口から吐き出すのが怖い。恐ろしい。自分から溝を作った関係なのに、と谷垣は自嘲した。
「随分と寂しい部屋だけど……とにかく、きみが不自由なく暮らせているならよかった」
「……それは、どうも」
一体何がしたいのだろう、この男は。いい歳をして、いまさら俺に何を話す必要がある? 俺が生きている環境を見てお前に何がわかる? 満足したのなら早く帰ってほしい。このバクバクと高鳴る心臓が、殺意に変わる前に。早く、はやく。
谷垣の願いも虚しく、伊野田の言葉は残酷にも紡がれる。
「……きみのことを、ずっと心配していたんだ」
「……はぁ?」
「……あのときのこと、悔いても悔みきれない。……僕は……」
あのとき。疑念に満ち満ちた同年代の子供たちの視線と、それに混じる大人たちの「やっぱりか」という視線と、そしてなによりも、自分を信用すると言ってくれた伊野田の疑念に塗れた視線。谷垣は呼吸を浅く、荒くする。ああ、ああ。
「僕は君を、……っ⁉」
「っ……!」
「……っが……! ぎ……」
「……っはぁ……はぁ……」
やはりだ。タガが外れてしまった。今回ばかりは、と耐えようとした谷垣の理性も相まって、意識はあるままに、衝動的に首を絞めてしまった。死ね、死ね、死んでしまえ。俺の人生をめちゃくちゃにしたくせに。お前さえ、お前さえいなければ。
やがて力なくだらんと腕を下げた伊野田を見て、谷垣は荒れた呼吸のまま背後の壁に背を預けて顔を覆った。
「ああ……ああクソッ……あんたさえ……うああああっ!!」
今更保護者ヅラなんてしやがって。どうせ俺のことなんて忘れていたくせに。あの頃みたいに俺への善意だってあっさりと裏切るくせに。ああ、俺を人間不信にしたのは誰だ。あんた以外にいるのか。
行き場のない谷垣の感情は、慟哭となってその場に響いた。
業鏡が映し出した景色は、そこで途切れた。
伊野田は相変わらず穏やかな面持ちだったが、谷垣は伊野田を殺害したときのように青い顔をして頭を抱えて蹲っていた。
「谷垣様……」
「……全部ね、僕のせいなんだ」
「え?」
「……」
「僕は、谷垣くんが……そうだね、小学生くらいの頃からかな。仲良くしていたんだ。だけど、ある日……」
「……施設内で、窃盗が起きた」
静かに、そして苦しそうに谷垣が目を開けた。伊野田一人の語りに、谷垣が声を挟める。
「みんなが俺を疑うのは当たり前だった。俺は少し前までよく知られた悪ガキだったからな。……けど、伊野田さんは俺と仲がよかったから、信じてくれるだろうなんて、思ってた」
「……全ては、肝心なときに信じてあげられなかった僕が悪いんだ」
「……どうせ最初から信じてなんかいなかったろ。他人を信じるなんて馬鹿げたことだって、あの日に痛いほど理解したよ」
谷垣は自嘲する。幼い日の谷垣は、最も信じてもらいたかった人間に疑念の目で見られ、それ以降人間を信じなくなった。それ以来、彼は二度と“いい子”に戻ることもなくなった。施設を退所する、その時までも。
「……それで? どうせ殺すんだろう。早くしろよ。絞殺なら一瞬だろ」
「僕は……僕はね、谷垣くん」
伊野田は心底申し訳ないとでも言うような顔をして、絞り出すように一言、放った。
「きみを“赦す”よ、谷垣くん」
「……は?」
「……“赦し”、ですか」
「人を殺すこと、それ自体は悪いことではあるけれど……僕は、僕が殺されたことに関しては、きみを赦したい」
「何を……何言ってんだよあんた」
赦し。即ち、自身を殺害した人間に対して殺し返しを行わないという、地獄において最良最善の、優しい選択肢。殺人犯の送られるこの贖罪の世界では、滅多にないと言われているそれを、伊野田は躊躇うことなく口にした。
「何言ってんだよ! 殺せばいいだろ! 折角殺せる機会なんだぞ! 嫌じゃないのかよ、自分を殺した相手なんだぞ!!」
「知っているよ、ちゃんとわかっている。……でもね、僕は赦したいんだ、きみのことを」
「……なんで……」
「……僕はね、きみのことを引き取ろうと思っていたんだ」
「……え?」
「きみと、ちゃんとした家族になれたら楽しいだろうなあって。そう思っていた矢先に、あんなことがあって……」
「……やめてくれ」
「……ごめんね、僕はきみを信じきれなかった。本当に、すまない」
「やめてくれよ!! あんたに赦されたら……“俺”が赦されたら……“俺”は……“俺”はなんなんだよ……」
悪であることを否定されたら俺は一体何なんだよ! と谷垣の悲鳴にも似た叫びが響く。“悪い子”や“悪い人間”であることは、いつしか谷垣にとってはアイデンティティとなっていた。彼を彼たらしめるそれを否定されたことで、一気に不安定な自我が表出してきたのだ。
「……僕を殺したことで、きみが苦しむのは、本意じゃなかったんだ。……だけど、赦してもきみは苦しんでしまうんだね」
「俺を……“俺”を赦さないでくれよ……」
「……最後に、会えて良かったよ。ずっとずっと気がかりだったんだ、言えないままできみと……ああなってしまったからね」
申し訳なさそうに視線を落とす伊野田と、頭を抱えて苦しそうに崩れ落ちた谷垣。一番赦されたくない人間に赦されてしまった。お前は悪い人間だ、お前のせいでこうなった、と糾弾してほしかったほどの相手に、赦されてしまった。
あろうことか、そう生きざるを得なくなったのだろうと見抜かれてさえいた。赦されてしまった。もう二度とやり直しの効かない人生、なのに。
もはや言葉も出ない谷垣の代わりに、リコリスが静かに口を開いた。
「では伊野田さん……貴方はこのまま、成仏なされるということで宜しいですか?」
「ああ、もちろん、それでいいとも。……谷垣くん、きみを信じきれなかったこと……本当に、申し訳なかった」
「……」
俯いたままの谷垣の表情は、その場にいた誰にも伺い知ることはできなかった。けれど、伊野田の言葉に今までにないほどに打ちのめされていることは、リコリスの目にも明らかだった。
伊野田が去ったあとでも無言で俯き続ける谷垣の姿が、ほかの何よりもまざまざと証明していた。
あれだけのことをされてよくもまあ、とリコリスは地獄の使者なりに戦いた。そんなまったりとした朝のような一言で済ませて良いものなのか。
「あ~よく寝た。首斬られる視点ってあんななんだな」
普通はできない体験したわ、と尚ものんきな感想を述べる谷垣に、リコリスは呆れ混じりに声をかけた。
「あれだけのことをされて、よくもまあ……のんきなものですね」
「殺されるのはいつものことだろ。頭は即死だから全然良かったけど、足とかは流石に気絶もできないし参ったわ」
「……その精神の強靭さ、感服いたします……」
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「それにしても、谷垣様。貴方様はもしかして……」
「あー、なんか野暮なこと言うつもりならやめてくれ。どうせこのあと嫌でもわかる」
「……どういう意味です?」
「あんた、“俺にはトラウマがある”とか言うつもりだろ」
次に俺が殺したのは、そのトラウマの元凶だよ、と吐き捨てるように谷垣は言う。リコリスは、その言葉を聞いてやっぱりか、と思うと同時に殺していたことに驚きを隠せなかった。
「知りたいならその人に聞けばいい。成仏してなければ、だけどな」
「……私が聞いてよろしいものなのですか?」
「正直言うとずっと“気になる~”って顔しててうざいんだよな」
「なっ……」
トラウマ、即ち心の傷。谷垣の場合は結構深そうだから、と直接本人に聞くといったことをしてこなかったというのに、この言いぐさである。リコリスは少しムッとするが、どこか自棄になっているような谷垣の様子に気付き、口を噤んだ。
「……」
「……あんたが言い返さないの珍しいな。……別に、知られてどうこうって訳じゃないし、聞きたいなら勝手に聞けばいいし。興味なければとっとと殺し返しを見守ればいいし」
どこか諦観したような表情の谷垣。その心境はどのようなものなのか。リコリスは計り知れないものだった。
「いつもみたいに業鏡だって使うんだろ? だったらすぐにあんたが知りたいことは見られるんじゃないか」
「……谷垣様は、殺したくて殺しているのですか?」
「……その質問は、どういう意図だ? まさか、“殺したくて殺してなければ減刑でーす”なんて言うわけじゃあるまいし」
俺がこれまでの相手を殺して来たのは事実で、どうにもならない過去だよ、と谷垣は嗤う。全ての化けの皮が剥がれるのはもうすぐそこだ、と勘付いているような諦めた笑みだった。
リコリスは覚悟と自棄がないまぜになったような谷垣を尻目に、複雑な気持ちで今回の被害者を呼び出した。
「……それでは、今回の被害者である伊野田様をご案内いたしました」
「やあ。……久しぶりだねぇ、谷垣くん」
「……あんたの顔なんか、もう二度と見たくなかったのにな」
「……はは、そうだろうね。すまないねぇ……」
谷垣の反応に困ったように笑む、優しげな老人。それがリコリスから見た伊野田民生の印象だった。
「……やれよ、リコリス」
「……え?」
「殺し返しの前には、殺し方に間違いが起こらないように、業鏡を使う……そういう話だったろ」
「さようで……ございますが……」
「……」
八つ当たりでもするように、谷垣は早く業鏡を使え、と催促をする。ぶっきらぼうに言われたリコリスは少しだけ戸惑いの色を見せた。伊野田は、寂しそうな、悲しそうな、複雑な表情で、目を細めて谷垣を見ていた。双方の口は閉ざされたまま、何も語ろうとはしない。
リコリスは、観念したように業鏡を発動させた。
「……それでは、これより業鏡による再現をさせていただきます」
「……再現、か」
「……」
谷垣は目を瞑って深く息を吸っていた。まるで、向き合いたくない、今まで目を逸らしていた何かと向き合いに行く前のような、そんな表情だった。
伊野田は懐かしむようにぽつりとぼやき、懐かしむような微笑みをたたえている。どこかに寂しさを滲ませながら。
そんな二人を飲み込むように、業鏡が再現を始める。
「はぁ~ッこの一杯だよなあ」
映し出された風景では、昼間から居酒屋で飲んだくれる谷垣の姿があった。何らかの憂いでも晴らすように、ビールを片手に焼き鳥を食べている。
「……酒は美味しいんだけどなあ」
「ははは、そんなこと言って! うちの焼き鳥に文句でもあんのかいあんちゃん?」
「あーいや、そういうわけじゃないっすよ。美味しいし、ビールに合ってていいと思う」
この頃の谷垣は、己の人生に意味を見いだせなくなっていた。ヤクザとしてやっていくにしても、人を動かすために狡猾に振る舞うなど面倒この上ない。
だからといって、今更足抜けをしてどうなるというのか。自分はとっくのとうに人殺しだというのに。
二人の再会は、そんな悩みを抱えている時期だった。
「おや? きみ……もしかして、谷垣くんかい?」
「……は……」
ふとかけられた声に、どくん、と心臓が跳ねたのを谷垣は感じた。跳ねた心臓がそのまま奈落に落ちるような、そんな錯覚さえした。いやなくらいに聞き覚えのある、柔らかで穏やかな声。いや、まさか、そんなはずは、と否定をしながらも、体は強張る。
「僕もご一緒していいかな?」
「伊、野田……さん……」
伊野田民生。かつて、施設内で谷垣が誰よりも信頼していた人物である。いつもの“発作”が起きないのは酒のおかげか、再会の衝撃ゆえか。
それでも、谷垣の心臓はバクバクと騒ぎ出し、頭には鈍痛が走る。ああ、なんでこんなタイミングで出会ってしまうんだ。
「……どうぞ」
「どうも! ……本当に、久しぶりだねぇ」
「……そう、ですね」
「随分と大きくなって……きみと、こうして呑めるなんてね」
「……はは、は」
普段だと得意分野である愛想笑いすら硬くなる。頭によぎるのは忘れようにも忘れられないあの日のことで、自分をじっとりと見つめるあの疑念の視線が今でも向けられているような気がして、本当は今すぐにでもここを立ち去ってしまいたかった。
「ちゃんと暮らしているかい?」
「……ちゃんと、ってなんすか」
「ほら、自炊したりしてなかったり、とかあるじゃない?」
「はは……適当に暮らしてますよ。飯も、寝るのも」
「そうかい……とりあえず、元気なら良かった」
居心地が悪そうにしている谷垣に気付いているのかいないのか、伊野田は呑気に声をかける。
「良ければ、今きみが住んでいる部屋とかも見てみたいな。……なんて、行き過ぎた話か。はは、この年になるとどうもお節介になりすぎてしまうね……」
「……いいっすよ、別に」
「……いいのかい?」
「どうぞ。見るモンなんて特に何もないと思いますけど」
「本当かい? 嬉しいな」
谷垣の言葉に、心底嬉しそうに言葉を返す伊野田。還暦をとうに過ぎた彼にとっては、谷垣のことは子供や孫のように見えているのかもしれない。そんなことを谷垣はぼうっとした頭で考えていた。部屋に案内したら、いまさら親気取りをされても困る、とはっきり言おう。今の職業に誂え向きな、荒っぽい言葉で。
「今からでも、大丈夫かな? 日を改めた方がいいなら……」
日を改める? 勘弁してくれ、あんたとの約束があるというだけで心が重い。谷垣は焦りによって徐々に混乱していった。
「ああ、いや……これからでも、ぜんぜん」
「いいのかい? こんな突然……」
「別に突然じゃなくても、部屋の様子は変わんないんで」
居酒屋を出た二人は、そのまま谷垣の自宅へと向かった。ボロアパートの一室で、確かに谷垣は雑な暮らしをしていた。飯は基本外食、面倒なときはカップ麺。布団は敷きっぱなしで酒の缶は片付けられずにそこらに転がっている。
そんな部屋を見て伊野田は苦笑を溢していたが、そんなことも露知らず、谷垣はバクバクと早鐘を鳴らす心臓と戦っていた。
言うんだ、親気取りをされても困る、と。だけど、その言葉を口から吐き出すのが怖い。恐ろしい。自分から溝を作った関係なのに、と谷垣は自嘲した。
「随分と寂しい部屋だけど……とにかく、きみが不自由なく暮らせているならよかった」
「……それは、どうも」
一体何がしたいのだろう、この男は。いい歳をして、いまさら俺に何を話す必要がある? 俺が生きている環境を見てお前に何がわかる? 満足したのなら早く帰ってほしい。このバクバクと高鳴る心臓が、殺意に変わる前に。早く、はやく。
谷垣の願いも虚しく、伊野田の言葉は残酷にも紡がれる。
「……きみのことを、ずっと心配していたんだ」
「……はぁ?」
「……あのときのこと、悔いても悔みきれない。……僕は……」
あのとき。疑念に満ち満ちた同年代の子供たちの視線と、それに混じる大人たちの「やっぱりか」という視線と、そしてなによりも、自分を信用すると言ってくれた伊野田の疑念に塗れた視線。谷垣は呼吸を浅く、荒くする。ああ、ああ。
「僕は君を、……っ⁉」
「っ……!」
「……っが……! ぎ……」
「……っはぁ……はぁ……」
やはりだ。タガが外れてしまった。今回ばかりは、と耐えようとした谷垣の理性も相まって、意識はあるままに、衝動的に首を絞めてしまった。死ね、死ね、死んでしまえ。俺の人生をめちゃくちゃにしたくせに。お前さえ、お前さえいなければ。
やがて力なくだらんと腕を下げた伊野田を見て、谷垣は荒れた呼吸のまま背後の壁に背を預けて顔を覆った。
「ああ……ああクソッ……あんたさえ……うああああっ!!」
今更保護者ヅラなんてしやがって。どうせ俺のことなんて忘れていたくせに。あの頃みたいに俺への善意だってあっさりと裏切るくせに。ああ、俺を人間不信にしたのは誰だ。あんた以外にいるのか。
行き場のない谷垣の感情は、慟哭となってその場に響いた。
業鏡が映し出した景色は、そこで途切れた。
伊野田は相変わらず穏やかな面持ちだったが、谷垣は伊野田を殺害したときのように青い顔をして頭を抱えて蹲っていた。
「谷垣様……」
「……全部ね、僕のせいなんだ」
「え?」
「……」
「僕は、谷垣くんが……そうだね、小学生くらいの頃からかな。仲良くしていたんだ。だけど、ある日……」
「……施設内で、窃盗が起きた」
静かに、そして苦しそうに谷垣が目を開けた。伊野田一人の語りに、谷垣が声を挟める。
「みんなが俺を疑うのは当たり前だった。俺は少し前までよく知られた悪ガキだったからな。……けど、伊野田さんは俺と仲がよかったから、信じてくれるだろうなんて、思ってた」
「……全ては、肝心なときに信じてあげられなかった僕が悪いんだ」
「……どうせ最初から信じてなんかいなかったろ。他人を信じるなんて馬鹿げたことだって、あの日に痛いほど理解したよ」
谷垣は自嘲する。幼い日の谷垣は、最も信じてもらいたかった人間に疑念の目で見られ、それ以降人間を信じなくなった。それ以来、彼は二度と“いい子”に戻ることもなくなった。施設を退所する、その時までも。
「……それで? どうせ殺すんだろう。早くしろよ。絞殺なら一瞬だろ」
「僕は……僕はね、谷垣くん」
伊野田は心底申し訳ないとでも言うような顔をして、絞り出すように一言、放った。
「きみを“赦す”よ、谷垣くん」
「……は?」
「……“赦し”、ですか」
「人を殺すこと、それ自体は悪いことではあるけれど……僕は、僕が殺されたことに関しては、きみを赦したい」
「何を……何言ってんだよあんた」
赦し。即ち、自身を殺害した人間に対して殺し返しを行わないという、地獄において最良最善の、優しい選択肢。殺人犯の送られるこの贖罪の世界では、滅多にないと言われているそれを、伊野田は躊躇うことなく口にした。
「何言ってんだよ! 殺せばいいだろ! 折角殺せる機会なんだぞ! 嫌じゃないのかよ、自分を殺した相手なんだぞ!!」
「知っているよ、ちゃんとわかっている。……でもね、僕は赦したいんだ、きみのことを」
「……なんで……」
「……僕はね、きみのことを引き取ろうと思っていたんだ」
「……え?」
「きみと、ちゃんとした家族になれたら楽しいだろうなあって。そう思っていた矢先に、あんなことがあって……」
「……やめてくれ」
「……ごめんね、僕はきみを信じきれなかった。本当に、すまない」
「やめてくれよ!! あんたに赦されたら……“俺”が赦されたら……“俺”は……“俺”はなんなんだよ……」
悪であることを否定されたら俺は一体何なんだよ! と谷垣の悲鳴にも似た叫びが響く。“悪い子”や“悪い人間”であることは、いつしか谷垣にとってはアイデンティティとなっていた。彼を彼たらしめるそれを否定されたことで、一気に不安定な自我が表出してきたのだ。
「……僕を殺したことで、きみが苦しむのは、本意じゃなかったんだ。……だけど、赦してもきみは苦しんでしまうんだね」
「俺を……“俺”を赦さないでくれよ……」
「……最後に、会えて良かったよ。ずっとずっと気がかりだったんだ、言えないままできみと……ああなってしまったからね」
申し訳なさそうに視線を落とす伊野田と、頭を抱えて苦しそうに崩れ落ちた谷垣。一番赦されたくない人間に赦されてしまった。お前は悪い人間だ、お前のせいでこうなった、と糾弾してほしかったほどの相手に、赦されてしまった。
あろうことか、そう生きざるを得なくなったのだろうと見抜かれてさえいた。赦されてしまった。もう二度とやり直しの効かない人生、なのに。
もはや言葉も出ない谷垣の代わりに、リコリスが静かに口を開いた。
「では伊野田さん……貴方はこのまま、成仏なされるということで宜しいですか?」
「ああ、もちろん、それでいいとも。……谷垣くん、きみを信じきれなかったこと……本当に、申し訳なかった」
「……」
俯いたままの谷垣の表情は、その場にいた誰にも伺い知ることはできなかった。けれど、伊野田の言葉に今までにないほどに打ちのめされていることは、リコリスの目にも明らかだった。
伊野田が去ったあとでも無言で俯き続ける谷垣の姿が、ほかの何よりもまざまざと証明していた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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蔵屋
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