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悪疫は取り除かれなければならない。

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 部屋に来た氷雨はこれまでと同じ顔をしていた。
 能天気で、悩みなんて概念から抜け落ちてしまったみたいに。さっきの思い詰めた顔が、まるで嘘みたいに見える。

「へ~、一人暮らしなんスね」

 差し出された座布団に座るなり、氷雨が物珍しげに部屋を見回した。

「まあね。それでどうしたんだ?」
「その、言いたいことがあって来たんすよ」

 微かに空気が張り詰める。言葉を探るような沈黙。
 ややあって、氷雨が口を開く。

「アタシが囲まれてた時、助けてくれて有り難う御座いました。センパイが何と言おうと、アタシはセンパイに助けられました」

 緊張と、戸惑いを混ぜた顔にうっすらと汗が伝う。そいつは窓辺の斜陽に輝いて、やけに綺麗に見えた。

「でも、これが中庭のお礼だったとは思っていません。アタシはお礼が受け取れないので」

 強い眼差しの底は怯えるように揺れていて。それでも彼女は真っ直ぐに僕を見つめてくる。
 僕を恐れているくせに、一歩も退こうとしなていない。気に食わない話し方だ。

「それで、僕に「何かお礼させてください」って?」
「鋭っ、えすぱーっスか!」

 氷雨が大袈裟に驚く。それから居佇まいを正して、もう一度僕をまっすぐ見つめた。

「アタシ、優しい世界が見たいんスよ。だから、みんなに優しくしたくて。そのためには、アタシ個人がいい思いをしちゃいけないと思うんです」

 その話を、僕は鼻で笑い飛ばしてやりたかった。
 目指す世界はどこか僕と似ている。
 けれどそこには自惚れに近い利他主義が含まれていて、僕は舌打ちを飲み込む。

「だったら尚更自分に優しくなよ。自己犠牲でできたものなんて、大抵がニセモノじゃないか」
「笑わないんスか?」

 氷雨が口元だけで笑う。
 よく見ると、探るような目が僕を覗き込んでいた。

「どこに笑う必要があるんだ?」
「みんな笑ったりするんスよ。「優しい世界? なにそれー」って」
「ああ、そんなことか」

 当たり前だ。
 人には人の感性があって、中には停滞を好む人種だっている。何も考えていない人間はもっと多い。
 そう言った類いの人間の多くは現実に余裕がなく、他人の夢に対しても狭量だ。

「僕は素敵なことだと思うよ。自分が良いと思えるものがあるなら、それは大切なものだ」

 ヘーゼルの目が一瞬揺れる。揺らぎの中の僕はひどく退屈そうな顔をしていた。

「生憎僕は優しい世界を見たことも、今がそうだと感じたこともないけどな。もしそんな世界が成立するなら、僕は見てみたい」

 吐き捨てるように、一気に捲し立てる。
 揺れていた氷雨の瞳が一度きつく閉じて、それから。

「変わってますね~、

 もう一度僕を見た目は、また元通りの明るさを取り戻していた。

「僕の名前は「やぎり」だ。あと、君に言われたくない」

 によによと笑う氷雨に、僕は偽物の笑顔を返した。
 彼女の優しさは不気味だ。
 他人には優しくするくせに、自分に返される恩は拒絶する。それはもはや善意の押し売りに近い。

「なんでおかしな噂を流されてるのに、君は誰彼構わず甘やかすんだ?」

 腹を探り合うような沈黙が気に入らなくて、ずっと気になっていたことを訊ねる。氷雨は笑って言った。

「誰かに優しくしたら、その人もまた別の誰かに優しくしてくれるかな、って。そしたらみんな優しくなるかな~、って思ったんスよ」

 どうしようもなく歪んでる。氷雨が言う「みんな」に、彼女自身はいやしない。
 舌打ちは、堪える間もなくこぼれ落ちた。

「それで君が壊れちゃ意味ないだろ」

 そこまで言って、一呼吸挟む。
 氷雨との仲を深めるためには、思ってもいない言葉を吐き出す必要があった。

「心配なんだよ」

 本当に吐き気がした。えづきそうになる喉を押さえて、不安げな顔を偽造する。

「へぇ~パイセン優しいんスね」
「茶化すな、本気だ」

 嘘っぱちだ。

「助けてもらって当たり前。そう思ってる奴、たぶん氷雨の周りにもいるんじゃないか?」

 優しさは人を惹き付ける。
 だが氷雨のように恩返しを受け取らない人間は、周囲の人間をただ無責任にさせる。最終的に都合のいい道具にされるのは目に見えていた。

「あー、確かにいるッスね~」
「やっぱり」

 ため息が溢れた。タバコの匂いが鼻先を掠める。

「それ、男子?」
「えなんスか。男子って言ったら、よぎセン嫉妬してくれます?」
「しねぇよ」

 からかうような笑みに舌打ちを返す。
 ヘラヘラと笑いながら、氷雨が言葉を投げてくる。

「どっちでもいーんスよ。男だろーが女だろーが、アタシは色んな人を助けます」

 歪みのない綺麗な顔で、氷雨は笑って見せた。
 その横顔はいつしか夕暮れに溶けていた。
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