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忘れ物みたいな言葉
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*
そうして僕らは日常に帰った。
町中で見かける警官の数は減り、交番の前を通っても声をかけられることはない。
何も恐れないでいいデートは久しぶりだった。
遠くの町へピクニックに出かけたし、近所の川でザリガニを採ったりもした。
遊園地では観覧車に乗って僕の高所恐怖症を克服しようとしてみたり、コーヒーカップを限界まで回してみたりと、僕らは絵に描いたような青春を消費して。
そして──九月一日を迎えた。
結果的に言えば、それが僕らの最後の日だった。
「晴悟くん、それ、おでこの」
待ち合わせの堤防にやって来た茉宵は、僕を見るなり顔を曇らせる。
僕の額の右隅には、茉宵のそれよりも少し大きな結晶が出来ていた。
僕が答えるよりも前に、彼女の口の端からは暗い血が流れ出す。
「結晶っスよね」
「ああ、君のより大きいぜ」
「そんなことで、張り合わないでくださいよ」
彼女は一瞬だけ泣き出しそうな顔を作ると、勢いよく頭を振ってから笑った。
満面の笑顔だった。
「アタシ、この夏が人生で一番楽しかったです。生まれてきて、よかったっス!」
「ああ、僕もだよ。悔しいけど」
「へっへーん、ざまー見ろっスよ」
僕らは笑いながら堤防に座る。遠くの水平線に、空とも海とも違う、淡く澄んだ帯が横たわっている。
笑いの余韻が息を引き取った少し後で、茉宵がそっと息をつく。
「どうしてくれるんですか。アタシ、死にたくなくなっちゃいました」
「ざまぁ見ろ、だね」
「晴悟くんのせいっスよ。責任、取ってくださいね?」
「はいはい、一緒に行くよ」
勝手な物言いだ。自分の意思で生きようと思ったくせに。
不気味な優しさを押し付けて、自分の望む形に世界を変えようとしたくせに。本当に、自分勝手だ。
──でも。
この口から零れたのは、どうしようもなく心の深いところで生まれた、幸福な願望だった。
「ああ、死にたくないなぁ」
「でも、いい死に方でしょ?」
茉宵が僕の肩にしなだれ掛かって、そっと微笑んだ。僕は彼女の頭に自分の頭を重ねる。
「そうだな。殺人鬼には理想の死に方だ」
僕らは静かに笑う。
少しずつ消えていく蝉の声を悼むかのように、風鈴が鳴いている。その時ふと、僕は出来損なったこの世界に「正しさ」を見つけたような気がした。
今でも愛なんかに、この世界を救えるとは思っていない。
けれど愛とは少し離れたところで、一人一人の幸福を尊重した世界は存在する。僕も茉宵も、若も芽衣花も。結局みんな、ありきたりな幸せに浸っている。
それと同じように、集団の幸福でしか物事を測れない世界も存在するのだろう。そのどちらもが大切だったのだ。
世界が一つのことしか許せなかったとしたら、そこに残るのはきっと、干からびた幸福の残骸だけだろうから。
それを気付かせてくれた少女は僕の殺害対象で、僕にとっての死神で。けれどどうしようもなく、愛おしい恋人だった。
心臓が無遠慮に握りしめられるように痛んでも、僕はもう苦しくない。それが僕にとっての幸福なんだ。
だって、すぐ手の触れる距離に茉宵がいる。
「また生きましょ。次も、その次も一緒に」
もしも来世があるとして、次はどんな出逢い方をするのだろう?
きっと、どうしようもない偶然で知り合うのだろう。結晶のない恋心に戸惑い、頭を抱えて、けれど次の瞬間には結晶のことなんか忘れて。そうして自由な恋ができればいい。
僕らは指を絡ませあう。
唇から伝わった熱が心を包み込む。
全身から力が抜けて、お互いの肩に顔を埋《うず》める。
抱き合うような姿勢のまま、血まみれの幸福が二つ、海に墜落していく。
唇を重ねて、身じろぎもせず。
ずっと、二人きりで。
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