昭和レトロな歴史&怪奇ミステリー 凶刀エピタム

かものすけ

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消失

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 外へ出てみると、昨日の一面低い雲がたれこめていたのが嘘みたいな日本晴れ。
 空は、高く、青く、澄み切っていた。
 雪は積もっていたが、この暖かい陽気でかなり解けてきていて革靴で歩けないこともない。

 僕はマキリの家よりも、もっと奥の方へ分け行ってみることにした。
 妙なことに、道は奥へ行くほど踏み固められ、歩きやすくなっていく。
 しばらく行くと彼方に煙突が見えてきた。
 あれが精錬所だろうか。
 煙突を目指して、さらに鉱山町の奥へ奥へと進んでいくと。
 やがて水色の切妻屋根の、シンプルな箱を積み重ねたようなツーバイフォー建築の建物が現れた。
 まだ彼方に煙突が見えるから、この建物は精錬所ではない。
 窓枠には、薄い波ガラスが嵌まっていて、どれも割れていない。
 窓が割れていない建物にお目にかかるのは、鉱山町に来てこれが初めてだった。
 誰かいるのかと窺っていると、波ガラスに歪んだ影が浮かんだ。
 そして建物正面のアルミサッシの引戸が開かれ、髪に白いものの混じった初老の男が出てきた。

 上半身は、灰色の防災ジャンパーの上に、モコモコのダウンベストを羽織っている。
 下は紺の防災用カーゴパンツ。
 足はゴム長靴。
 いかにも作業員といったいでたちだった。

「おめえさん、どちらさん?」

 髪に白い物が混じってはいるがタクシーの運転手よりもずっと若い印象。
 年齢は、五十代後半か、六十くらいか。
 眼は細くて釣り目。
 腹が少し出ていて横幅があり、信楽焼の狸の置物を想わせた。

「やあ、失礼しました。人が居るとは思わなかったもので」

 この人が踏み固めていたから、雪道が歩き易かったのだろう。
 男性に近づいて並んでみると、身長は僕と同じくらい。
 僕は、男性に名刺を差し出した。

「こんな辺鄙なとこに、お客さんとは珍しいね。へえ、東京の大学の助教授さんかい」

「ちょっと用事があって、人に会いに来たんです」

「人に会いに?」

 男性は、怪訝な表情で僕の言った言葉をオウム返しに繰り返す。

「まあ、まあ、立ち話もなんだから、事務所に入るといいよ」

 僕は、玄関先のひまわりマット(雪取りマット)で雪を落してから、勧められるまま建物の中に入った。

 玄関には、土間も、上がりまちもなく、意外と簡素。
 靴を脱がないで上がるオフィスタイプの建物だった。
 通されたのは八畳ほどの部屋で、事務机と折り畳みのパイプ椅子が置かれていた。
 排気管がつながっている黒い酒樽のような物体は石炭ストーブか。
 ストーブの上にはヤカン。
 ストーブわきには豆炭の積まれた銀色のブリキ製バケツが置かれていた。
 都会では石油ストーブが普及してきていたが、石炭の産出する北海道ではまだまだ石炭ストーブが多い。
 部屋の隅の床には、箒や、使われなくなった黒電話が転がっていたり、紐で縛った新聞紙の束が置かれていて、全体的に雑然とした雰囲気だ。

「あのー、ここは、どういった建物なんでしょうか」

「ああ、ここね。ここは幌別鉱山株式会社の施設管理事務所よ」

 男性は、ダウンベストを脱いでパイプ椅子に引っ掛けると、壁に立て掛けてあったもう一脚を開いて僕の前へ置いた。

「あー、こりゃどうも」

 僕は差し出されたパイプ椅子に座った。

「ここへ来る前に調べたんですけど、幌別鉱山を管理していたのは、北海道硫黄株式会社じゃありませんでしたっけ」

「ちょべっと前に北海道硫黄株式会社は事業を整理して、幌別鉱山株式会社に名前変更したんだわ。現在は、索道の施設の管理と、汚染された抗排水の処理をする会社になっとるんよ」

 ダウンベストを脱ぐまで見えなかったが、男性の灰色の防災ジャンパーの胸には、幌別鉱山株式会社という会社名と、根本という名前が、黄色い刺繍で施されていた。

「へえー」

「で、大学の助教授さんが、誰に会いに来たって?」と根本が訊く。

「卯子沢マキリさんです。現在は、その卯子沢さん宅で御厄介になっています」

「卯子沢? そんな名前聞いたことないね。この町にはそんな人、居らさらないですよ」

「いない? またまた」

 僕は「ご冗談を」という代わりに両手を振った。

「凄いアイヌ美人で、一見すると痩せてるんですけど、出るところは出てて――」

 僕は、卑猥スレスレのジェスチャーを交えて、マキリの容貌とプロポーションを表現した。

「知らないねえ。鉱山町のもんは、みんな顔見知りだもんで。誰かと勘違いしてるんじゃないかい」

「そんなわけないですよ。昨晩だって、僕はマキリさんと――」

 僕は言い淀み、自分の手を見つめた。
 マキリの肌に触れたときの温もりは、しっかりとまだこの手に残っていた。

「そんなこと言ってもねー。この町には、もう索道の管理者の私以外、人は住んどらんのですよ」

 根本は、事務机上のラックに置かれたバインダーを掴むと、指を舐めてページをめくっていく。

「鉱山町だけでなく、黄渓集落の方の名簿も調べてみたけんども、いやー、やっぱし居ねなー」

「いや、卯子沢さんが、この町にいないなんてありえないです」

 僕は頑として譲らなかった。

「やれやれ。無駄だろうとは思うけど、じゃあ確認しに行ってみっか。一応この町の管理任されてっからねえ。ふーっ、どっこいしょと」

 根本は、パイプ椅子の背もたれを掴みながら、いったんパイプ椅子に落ち着けた重い腰を、再び持ち上げた。

 僕は、根本を伴って来た道を引き返し、マキリの家まで戻ってきた。

「あの家です」
 
 僕は根本にチセ風の小屋を指し示す。

「マキリさん」

 小屋の出入り口をくぐると、屋内は家を出てきたときとは打って変わって荒れ果てていた。
 家中が埃だらけ。
 梁から吊り下げられていた自在鉤の魚の形をした横木は、囲炉裏の中に落ちて、灰を被っていた。
 昨夜食べた石狩鍋に使った黒い鉄製の丸鍋も床に転がっていた。
 人の気配も、生活臭もまったくない。
 唯一、人がいたことを表わすものといったら、僕が置きっ放しにしていた、テープレコーダーデッキの入ったバッグと、寅さんトランクだけだった。

「ほれ。言った通りだべ」

「そんな馬鹿な」

 僕は、この現状を目の当たりにしてもなお、現実が受け入れられなかった。

「キツネにでも化かされたんじゃないかい」

「ありえない。確かに僕はここで、マキリさんと一緒に暖をとって」

「まさかおめえさん、ゆんべ、こったらとこに泊ったのかね。本当に呆れた人だ。よく凍
え死にしなかったね」

 根本は、付き合いきれないと首を振る。
 俺は、とりあえず置きっぱなしにしていた荷物を持ってマキリの小屋を出た。

「そんな重そうな荷物持ってこれからどうなさる」

 僕が根本の問いに黙っていると。

「おめさん独り、ここに置いとくわけにもいかんし。ともかく事務所の方に来らせい。その後のことは一緒に考えてやっから」

 僕は根本の勧めで、いったん管理事務所へ行くことになった。
 でも、まだマキリのことを、吹っ切れたわけじゃなかった。

「マキリさんが幻なんて、そんなことありえない」

 根本と一緒に管理事務所に向って歩いている間も、僕は独り言をぶつぶつ呟いていた。

「ふうん。そのマキリとかいうおなごに、相当入れ込んどったみたいだねえ。そったらいいおなごだったら、幻でもいいから私も拝んでみたかったよ。でも気ぃつけた方がいいよ。幌別には、人間をたぶらかす淫魔の伝説があるからね」

「淫魔――パウチカムイのことですか」

「ほう、詳しいね」

「僕の専攻は言語学で、研究対象はアイヌ文化と、アイヌ言語ですから」

「はー、なるほど。そっちの方面の学者さんだったのかい」

 アイヌには、夜な夜な裸で踊りくるい人間を誘惑するパウチカムイという淫欲の神がおり、人間を淫乱に変えてしまうといわれていた。

 確かに昨晩は、今までに味わったことのない官能的な夜ではあった。
 あったのだが――。

「でもあの人は違う。あの人はパウチカムイなんかじゃない!」

 僕は、この何処にもぶつけようのない気持ちを怒声として吐き出した。

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