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第二十話「志度とはんなり荘の住人達について」

筋肉老人

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 その後、志度は家にいてもすることが見当たらないので、アパートの周辺をぶらつこうかと思い至った。私服に着替え、自室の鍵を閉めたのをしっかり確認してから、廊下を渡って階段を降りる。

 その折、階下から何か、音楽が聴こえてきた。なんだ?  と耳を澄ましてみる。軽快な音楽と共に、むさ苦しい男性の声「筋肉マッスルモーリモリ!」という、比乃辺りが聞いたらがっくりとずっこけそうな歌詞が、繰り返し流れていた。

 志度はその謎の音楽を不審に思いながら階段を降りる。その先にいたのは、音楽に合わせて肉体を上下左右に振り回す筋肉ダルマ……しかし、顎鬚を蓄えたその顔はどうみても七十代、八十代のそれである筋肉老人。重信 修二郎シゲノ シュウジロウであった。

 汗を撒き散らしながら、古めかしいラジカセから流れる奇怪な曲に合わせて踊るその姿は、名状しがたいものがあった。だが、志度は驚きもせず、その老人に声をかけた。

「重野のじいさん!  こんちわ!」

「おお、白間の坊主か、今日は一人かの?」

 志度に声をかけられて、ダンスを止めて筋肉老人は振り返った。半裸で黒光りする筋肉を除けば、その顔は優しいご老人のそれである。
 だが、そのギャップがなんとも言えぬ気味悪さを醸し出していた。それさえ無ければ、優しくて親切な人物なのだが……もはや存在そのものが、はんなり荘七不思議の一つである。

 実際、挨拶回りで始めてあった時など、志度と心視は妖怪が出たのかと勘違いした物である。比乃だけは「ああ、ここも変人の巣窟か」と何か諦めた目で冷静に受け止めていたが、

 それでも、ここで暮らしている内に何度か顔を合わせたことで、すっかりこの奇々怪界な老人の存在にも慣れたのであった。そも、筋肉ダルマ自体は、第三師団にも嫌というほど居たし、別に怖がることもなかった。

「二人はちょっと仕事で居ないんだ。それで暇だからちょっと散歩しようと思って」

「ふむ、ウォーキングはいい運動になるが、やり方を間違えては意味がない。どれ、この儂が少しレクチャーしてやろう」

「え、いや普通に散歩するだけなんだけど」

 志度の断りも聞かずに、重野は古めかしいラジカセを止めると、志度の前でストレッチをしながらウォーキングについて話し出す。

「よいか、昨今の情報によれば、ウォーキングとはただ歩くだけではだめなんじゃ、一万歩歩こうが百万歩歩こうがほとんど効果がないという実験結果が出ておる。研究によれば、筋肉にはもっと強い刺激を与えなければ大きくできんらしい」

「おお……なるほど……」

 そんなことは知らなかった志度は、筋肉老人の話しに釘付けになった。重野はそれで気をよくしたのか、筋肉をぴくぴくさせながら更に語る

「普通に歩くだけでは、年齢を重ねるごとに薄れて行く筋肉を補うことはできないんじゃ。そこで新しく考案されたのが、早歩きとゆっくり歩きを一定間隔で繰り返す、インターバル歩きなのじゃよ……どれ、儂がペースを作ってやるから、共に歩こうではないか」

 ぐっぐっ、と筋肉に力を入れて志度を誘う重野。志度はちょっと躊躇ったが、他にすることがないのも確かなので、その誘いに乗ることにした。
 実のところ、最近ちょっと運動不足(自衛隊基準)なので都合が良いのもあったし、志度も運動は大好きである。

「わかったよ重野じいさん。ちょっと運動着に着替えてくるから待っててくれる?」

「おう、儂はここで筋肉をほぐしておるから、準備ができたら降りてこい」

 言いながら筋肉を隆起させる重野に背を向けて、志度は自室へと戻った。今着ている私服では、運動するのに不適切なので、ジャージに着替える。
 五分ほどして、至って普通の青いジャージに着替えた志度が降りてくると、重野は先程使っていたラジカセを肩に乗せてスクワットをしていた。どうにも、何かしら身体を動かしていないと落ち着かないらしい。

「重野のじいさん、用意できたぜ!」

 階段を勢い良く快活に降りてきた元気いっぱいの様子の志度に、重野老人はニカッと笑う。

「よし、それじゃあ簡単にストレッチをしてウォーキング開始じゃ!」



 はんなり荘を出て数十分程、街中を練り歩く、上半身裸の首にタオルをかけただけの筋肉老人と、服装は普通だが、白髪赤目の目立つ容姿の少年がいた。

 それはそれは目立って仕方なかったが、本人らは一切気にしていない。というか、好奇の視線にも気が付いていない様子である。呑気に笑顔で、それは楽しそうにウォーキングしていた。

「それにしても、白間の坊主はよく鍛えておるようじゃのう。若いのに関心じゃ」

「お、わかる?  俺筋トレとか得意なんだぜ!  力こぶあんまでっかく作れないけど、重量挙げとか自信あるぜ!」

「動きを見とればわかるわい、自衛隊も存外中々の訓練をしているようじゃのぉ。偉い偉い」

 褒められた志度は嬉しそうに笑う。

「へへっ、俺達は町の平和を守る正義の味方だからな。常日頃から鍛えとかなきゃいけないんだぜ」

「正義の味方か、良いのぅ……儂も、もう五十か六十ほど若かったら自衛隊に入ったのだが……残念じゃ」

「重野じいさんの分も俺達が頑張るから安心しといてくれよな!」

「はっはっ、これは頼もしい正義の味方じゃわい」

 そんな和やかな会話をしながら歩く二人。しばらく、町行く人の一部から写メを撮られたりしながらも歩き回って、二人ははんなり荘に戻ってきた。たかがウォーキングとは言え、早歩きとゆっくり歩きを交互に繰り返すというのは存外疲れる物で、初夏ということもあって二人とも汗まみれであった。

「あー、良い汗かいた!」

 志度が程よくかいた汗を拭う。重野も肩に回したタオルで頰の汗を拭って「いやぁ、たまには若いのと運動するのもいいもんじゃわい」と笑みを浮かべる。

「ウォーキング楽しかったぜじいさん!  また誘ってくれよな!」

「うむ、今度は日比野の坊主も呼ぶと良い、三人でまたウォーキングじゃ」

「おう、約束だぜ!」

 笑顔でサムズアップしあう二人。比乃がもしその場にいたら「いや、遠慮しておくよ」と言うであろう約束を勝手に取り付けた志度は重野老人と別れ、汗を流す為に自室へ戻った。

 部屋に戻ると、汗が沁みたジャージを洗濯機に放り込んで裸になる。白く細いながらも、筋肉がしっかりついた、逞しい身体だ。志度は鏡に写ったその自分の姿に、特に何の感想も抱かず、浴室に入った。混合水栓の金具を捻ると、冷たいシャワーが、火照った身体を程よく冷やしてくれる。

 さて、これでかなり暇を潰せたが、二人が戻ってくるにはまだ時間がある。次は何をしようかと考えながら、志度は身体を洗うために石鹸を手に取った。
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