地獄の沙汰は、

荷稲 まこと

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十一話 傷

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「キョウ!」

 ぼけっと座ったままでいると、前方からアケビが走ってきた。
 早さからみて、遠くに行ってはいなかったのだろう。

「逃げろって言ったのに」
「馬鹿野郎! 無茶な真似しやがって!」
「ほんとになー」

 緊張が一気に解れて、腹の底から笑いが込み上げた。
 恐怖が大きすぎたせいで反動も大きく、咽せても笑いを止められない。
 そんな俺を見てアケビは呆れたように、もー、と言って、俺の前に座り込んだ。
 膨れっ面をしているのがリスみたいでかわいい。
 片手で両の頬袋を潰し、そのままムニムニと揉む。
 彼はまだ怒ったままなのに、抵抗はしなかった。

「お前は怪我してないか?」
「……ねえよ」
「よかった」

 へらり、と笑うとアケビは眉間の皺をより深くして、立ち上がってしまった。
 ふいっと顔も背けられる。
 どうしよう、思ったより怒っているのかも。
 そう心配していると、彼は手をこちらに差し出した。

「……傷、みてやるよ。帰ろう」

 その後、ずっ、と彼は鼻を啜った。
 彼の手を取って立ち上がり、手を繋いだまま帰った。
 歩幅の小さい彼を、追い抜かないよう気をつけて。


 部屋に帰るなり、アケビは俺に座布団に座るよう言った。
 大人しくそれに従い、いつものように胡座をかいて座る。
 すると、彼は俺の脚(というより、股?)の上に座った。
 これは所謂、対面ざ……ごほん。煩悩よ、立ち去れ。
 アケビは至って真面目に、俺の首元の傷を見ている。……あれ、そういえば。

「もう痛くねえや」

 やられた直後は結構痛かったのに、今はひりりともしない。

「走ってる時に気が散ったからじゃねえかな。ここで怪我なんかしたことないし、そもそも怨霊が……なあ、触ってみてもいいか?」
「え? う、うん」

 触られたら流石に痛いんじゃないか、と思いはしたが、真面目に状態を見てくれているのに断るのもな。
 承諾するとアケビは左手でTシャツの襟を引っ張り、右手の親指で首元に触れた。
 擽ったいだけだな。

「痛くない。てか、どこに傷があんのかもわかんねえ」

 そう伝えると、アケビは上目遣いで俺を見た。

「黒い筋が首から鎖骨にかけて三本入ってる。魂に直接つけられた傷だから、生まれ変わっても残るかもしれねえ」
「へえ。アザみたいなもんか」
「他人事みたいに言いやがって……」

 アケビは眉を顰めて俺を睨んでいたが、不意に目を伏せ、首元に唇を寄せた。
 ちゅ、と吸いついてから、濡れた舌の感触。
 思わず体が軽く跳ねる。

「ア、アケビ……」

 アケビの肩を押して抵抗しても、彼は離れずぴちゃぴちゃと舐めるのをやめない。
 これを耐えろってどんな苦行だ。
 辛抱しきれず、彼の顎に手を当て、掬うようにして顔を上げさせた。

「キスすんなら、こっち」

 言い終わらない内から唇を合わせ、触れるだけのキスをする。
 Tシャツの襟を掴んでいたアケビの手が、きゅう、と丸まった。
 切なさで胸が熱くなって、彼の顎に当てていた手のひらを彼の後頭部に、もう片方の腕を背中に回す。
 腹がぴったりくっつくくらい強く抱き締めると、苦しかったのか彼は僅かに背を反らした。
 逃がすわけないのに。
 追いかけるように背を丸め、舌で唇を割り口内に侵入する。
 後頭部に添えた手を結われた髪の流れに沿って動かすと、彼はわかりやすく震えた。
 そろそろやめなきゃまずい。
 何回もそう思いながらやっと顔を離せたのは、彼の息が切れ切れになった頃だった。

「え……っと、ごめん……」

 謝罪の言葉が口を衝いて出た。
 頬を赤く染めた彼が、いつもと違って泣いているように見えたからだ。
 調子に乗ってやりすぎた。
 今度こそ怒らせた。

 アケビはぐしぐしと着物の袖で乱暴に目元を擦ると、立ち上がって布団を出した。
 しかも、一枚じゃない。何枚も重ねてだ。
 何をするつもりなのかと不安に思っていると、彼は俺を見下ろしてにっこりと笑って言う。

「気分的に疲れただろ。いつもよりふかふかにしたから、休め」

 ……怒ってないのだろうか。
 だとしたら、さっきの表情はなんだったんだろう。
 嫌だった、とか……
 駄目だ、本気でへこみそう。
 今は深く考えず、彼の言う通り休むことにしよう。
 落ち込むのは、次に拒まれた時に……
 そんなことを考えながら、立ち上がる。
 すると、彼が俺の腕を掴んだ。

「……とでも言うと思ったかぁ!」

 アケビの怒号が聞こえた時には俺は宙に浮いていた。
 一瞬の無重力。空を切る音。
 加速、からの衝撃。

「ぐげぇ……っ!」

 まったく頭では理解できなかったが、アケビに投げられたのだ。
 多分、一本背負い。
 布団を重ねていたのは、このためだったのか。

「おれは元小姓だぞ! 武芸だって嗜んでんだ! あんたみたいな貧弱に庇われる筋合いはねえ! もう二度とあんな真似すんな! いいな!?」
「え、怒ってんのそこ?」
「あぁ!?」
「い、いえ、なんでもありません。わかりました……」

 本気で怒っているアケビを見るのは初めてで、その迫力にびくびくする。
 しかし、同時に安心もしていた。
 嫌われたわけじゃないんだ。

「畜生め、腹の虫がおさまらねえ! おら立て! 投げ技の一つでも覚えろってんだ!」
「ええ……」
「できるまですっからな! まずは基本の構えからだ。背筋を伸ばせぇ!」
 
 正直、全然やりたくない。やりたくないが……

「はあ……よろしくお願いします、師匠」
「うむ!」

 それでご機嫌が直るなら、付き合ってあげることにしよう。
 アケビも、どこか楽しそうだし。
 
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