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オマケ

ナトーラスの願い

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ウッドバーンという国では、各地を治める首長は他の首長と婚縁を結ぶ事が通例となっている。

ザイモック島の首長の子供であった先代ナトーラスはキタール島の首長の娘を伴侶としたように、その息子の若きナトーラスも代替わりの儀式を得てナント島の首長の末の娘を伴侶に迎えることになった。

ここに辿り着くまで紆余曲折があった。
ウッドバーンの首長達は初めこそ穿った目で見ていたが、
「ナトーラス・ザイモック・コンラン」
とその名を変えて聴衆の前にナラが立った瞬間、首長達はナラが持つ可能性に漸く気がついた。

資源頼みのレンティア政治を行うウッドバーンにおいて、一足早く絹の生産を始めたキタール島が首長国の中でも経済基盤を強くするのを目の当たりにしてきた。またザイモックもまたその道を突き詰めようとし始めている。

目の前に立つ若き青年は大陸で新たな産業を学んできた青年であり、大陸の横暴により帰郷が叶わずに天命を全うした父の意思を継ぐという悲劇を背負った青年であり、あのニルスやサトラリアといった大陸の国々が一目おくレインの庇護を得る青年である。

…欲しい、と誰もが思っていた。

ナラを身内に迎えようと躍起になった首長一族を横目に、ナラが選んだのは小島ナントの首長の子供達の中でも一番の風変わりと蔑まれていた末娘メイシャだった。


「本当に私なんかで宜しかったのですか?」
薄紅色のドレスの裾をくるりと翻したメイシャはナラを見上げてお伺いを立てた。

取り立てて器量が良い訳でもなく、賢くもない。
取り柄と言えるのはただ健康な事くらいだ。
誰に言われなくても変わり者だという自覚はある。
なにせナラの披露目のパーティーで、ナラそっちのけでナラの工房へと足を運ぶくらいには変わっている。

どうせナラは力の強い島出身の姫と政略結婚をするか、綺麗で賢い人を選ぶか…。自分の人生には関係がないとメイシャは思っていた。
だったら意味のないパーティーに魅力は全く感じなかったから。

「お仕事なのにごめんなさいね。邪魔にならないようにしますから少し脇で見させて貰っても宜しいかしら?」

着飾ったドレスに染料が付くことを恐れたナラの工房で働く人達に、ニルスのアイリーン殿下のだというシミだらけの木綿の服と前掛けを貸してもらい工房を案内してもらったのだ。

おそらく早々にナラへ連絡が入ったのだろう、程なくして自分の披露目のパーティーを切り上げたナラ自らが工房へとやってきて案内をしてくれるとことになった。

勝手な事をして申し訳ないとひたすら謝り倒したメイシャにナラは優しかった。

「染色に興味があるのですか?」
「いえ、そういう訳ではないのですけれど…。自分の手で何かの姿が変わっていく様子は美しくて眩しくて、何より楽しくてワクワクしていました。」

職人が実演と称してひとたび染料に浸した白い絹糸は一瞬の間に薄く色付いた。
それを洗いまた漬けてまた洗う。幾度もそれを繰り返し、淡い色がだんだんと濃くなり、しまいには激るような濃い色に変わっていくという話を飽きる事なく聞き惚れていた。

…いいな。
自分の手で何かを作り出す楽しさはメイシャの知らない世界だった。

「やってみませんか?」
というナラの言葉を間に受けて、
「是非、お願いします。」
と頭を下げた。

…こんなはしたない事をして呆れられているだろう。
そう思わない訳ではなかったけれど、自分の手でそれが体験出来る誘惑には勝てなかったのだ。

もちろん作業は直ぐには終わらない。
「宜しければ出来上がるまで我が家に滞在しませんか?」
とまで言ってくれたナラが神のように見えた。

結局ひと月ほど滞在を伸ばし、メイシャは初めて薄紅色の絹糸をドレス1着分ほどの布になるという量を染め上げたのだ。

職人が織り上げてくれた絹布を手にした時、あまりの嬉しさに涙が溢れてしまったメイシャに、ナラが、
「これを婚約の披露目会の衣装にしませんか?純白のウエディングドレスは僕が用意致しますから。」
とまで言ってくれる。

本当にナラは神かがって優しい人だと思った。
自分で染めた糸で作ったドレスでお嫁に行けるなんて!なんて素敵な、なんて素晴らしい事なんだろう!
…でも。

「とても嬉しいですけれど、ご迷惑ではありませんか?」
ナラはこれを仕事にしているはずだ。
ナラが染めた糸で作られた絹布はサトラリアの王も大金を支払っても欲しがると聞いている。
甘えてしまうのは申し訳ないと思った。

ちっともと、微笑んでくれていたナラに、支払いの話をすると途端にナラの目がスッと冷たいものに変わって、メイシャはヒュっと息を呑んだ。

「僕がメイシャから金を取ると本気で思っていますか?」
「えっ!?そういう訳では…。」
怒らせるつもりはなかったと謝ろうとするメイシャにナラが畳み掛けた。

「僕が、妻にと願う女性から金を取ると本気でそう思っているのですか?」
「えっ!?」
「メイシャはこの布で作ったドレスを着て、僕のところへお嫁に来てはくれないの?」

…それは。どういう事?

戸惑ってしまい返事も碌に出来ないまま、サッとメイシャの手から絹布を取り上げたナラは、
「これがドレスに仕上がるまで滞在を伸ばして頂こう。」
とプリプリした様子で部屋を出て行ってしまった。

…えーっと?
どういう事でしょう…か?

それからドレスが仕上がるまでにさらにひと月の時間を要した。
毎日ナラが迎えに来て、2人でナラの工房に入り、ナラの横で作業を手伝う日が続く。
不思議なことに後から染めた糸の方が先にドレスへと変わり出荷されていく。

流石に鈍感なメイシャにもその意味が理解できた頃、
「この暮らしが苦でないならば、僕の妻になって下さい。」
と膝をつかれた時には迷いなく、
「喜んで。」
と答えたのだった。


漸くドレスが仕上がり、それを着てナラの前でくるりと回ったときに、メイシャはもう一度だけ、ナラに確認をしたのだ。
「本当に私なんかで宜しかったのですか?」
と。

「僕はメイシャがいいんだ。私なんかなんて言わないで。
僕はメイシャと一緒に仕事ができて楽しいんだ。
…それにメイシャは僕を酔い潰してしまおうなんて考えもしないでしょう?
強いだけの女性は…苦手なんだ。」

私だってこのふた月は心から楽しかった。父に願い出てここで働けるようにお願いしたいくらいだった。

…でも?
ナラを酔い潰す?それは無理でしょう?ナラは私が知っている中で誰よりもお酒に強い。
ナラと一緒にお酒を飲めば、絶対に先に潰される自信が私にはある。

そう答えると、ナラは優しい微笑んでくれる。
「ほらね、考えもしないだろう?変に策を講じたり、自分を無闇に着飾ったりはしない。好きな事をただ好きだからと突き詰められるのはメイシャの好ましい所だ。
そういうところ、僕は好きだよ。」
「…良くわからないけど、私で宜しければ喜んで。」

それに今更知らなかった頃にはもう戻れない。
ナラの仕事に向ける情熱は心から尊敬出来る。尊敬出来る人と人生を共に出来るのならばこんなに幸せな事は無いのだから。


メイシャは知らない。

エリールでは姉だけでなくローラだけでなく。
エリールの女達はあの手この手を尽くして新郎を酔い潰そうとする。
初夜に花嫁を蔑ろにして酒に潰れたという既成事実は、その後ことあるごとに夫を尻に敷こうとする妻の武器にされる。
それはニルス王弟にまで及び、初夜に酔い潰れたという失態にアリストリア殿下は心から悔やまれている。
まあ、リーンはそれで夫を尻に敷いたりはしないけれども、自由にエリールやウッドバーンを行き来するリーンは違う意味で夫を振り回している。

そんな事をしなくても、ぼくはメイシャを心から大切に守るのに。

どうかエリールの女には染まらないで、僕の色に染まって欲しい。
それが世界を股にかける染色職人ナラの小さな願い事。
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