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「あったかい」
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僕ははっとした。女性が意図的に缶ポタージュを払いのけたのだと感じたのだ。
僕は再び後悔に苛まれた。何故、こんな柄にもない事をしようとしたのか。僕ごときが。僕ごとき童貞が調子に乗るからこんな報いを受けるのだと。
僕は自己嫌悪に駆られた。もう少しで、その場から駆けて逃げ出すところだった。実際に、クラウチングスタートを切る時のように、僕は全身を低く屈めた。平身低頭、這いつくばって許しを乞う姿にも似ていたかもしれない。
そんな僕を止めたのは、女性の慌てたような声だった。
「違う」
女性は立ち上がって、僕に向かって早口でそう言いかけた。僕はその声に、再び女性の方を振り返った。こわばった僕の足元を目がけ、先程ようやくの思いで手放した缶ポタージュが、ゴロゴロと転がって帰ってきた。
「寒くて。手が、指が」
女性は白い息を吐きながら、両の手を互いに激しく擦り合わせた。そして、僕に向かって、ぴょこぴょこと揺らすように、頭を上下に動かした。茶色に染められた短い髪が揺れ、黒いままの頭頂部が見えた。
寒くて手がかじかんで、うまく缶ポタージュを掴めなかった、決して払いのけたわけではない、そう言いたいらしい。僕はほっとする一方で、これはまた困ったことになったと思った。
そういうことであれば、缶ポタージュの蓋を開けて、手渡すところまでが、僕の役目ということになる。だが、それはあまりにも、「詩的かつ優美な」行動であるように思われた。もっと独自の表現をすれば、「イケメン的な」動きである。
僕は咄嗟に、辺りを見回した。馬鹿らしい話だが、近くにイケメンがいてくれないかと、半ば無意識のうちに救いを求めたのである。「今、この公園にお越しの方の中に、イケメンはいらっしゃいませんか」と、心の中で叫び声を上げた。。
勿論、年末の深夜の公園には、イケメンどころか、僕らの他には猫一匹いないことは、先程来から説明している通りである。 本当に、イケメンというのはいけすかない連中だ。うんざりするほど、街中にうじゃうじゃいるくせに、人がたまに必要とする時には傍にいないなんて。
けれど逆に言えば、ここには観客もいないということである。ヒーローは三十路の童貞で、ヒロインはトレーナー姿のブスという、散々なステージであるが、笑う客も、眉をひそめるスタッフも誰もいない。
ええい、ままよ。僕は逃げ出したい気持ちを振り切って、足元の缶ポタージュを拾い上げた。そして、緑色のスクリュー式の蓋に力を込める。缶が開く時の、パキ、パキ、という音が2度、聞こえた。神社にお参りする時の、柏手を打つ音に似ていると、僕は感じた。
蓋が開いた。ふんわりと、コーンポタージュのまろやかな香りが広がる。
女性は、立ったまま、僕の様子を見つめていた。一歩近づくと、その細い目に、街灯の灯りが反射して、キラッと光った。
僕は気恥ずかしさを隠そうと、視線を下に向けた。茶色のトレーナーの、胸のあたりの真ん中に、大きなアップリケが縫い付けられているのが目に入った。動物の顔を模ったもののようだ。クマだろうか。ただ、クマにしては少々細身すぎる気もする。その顔はどこか歪んでいて、不恰好ではあったが、妙な可愛げがある。手製のアップリケなのかもしれない。
僕は、そのアップリケを目印に、左手をずいっと差し出した。女性が僕の顔を見上げているのが、気配でわかる。しかし、目を合わせてはいけないと思った。何しろこちとら、今こうしているだけで精一杯なのだ。視線を合わせたりしたら、そちらに気を取られて、缶ポタージュを落としてしまうかもしれない。集中しなければ。
そうしていたのは、ほんの数秒間のことだった。女性は両手を差し出すと、トレーナーからそこだけ露出している指先で、缶ポタージュを支え、そのまま、自分の胸元に引き寄せた。ちょうど、缶の口の部分が、アップリケの動物の口のあたりに押し付けられた。そして、僕の左手の指先も。
僕は慌てて缶から指を離した。正確には、缶からというより、女性の胸元から、である。ほんの一瞬だが、指先に、缶ポタージュのものとは別の、確かな温もりを感じた。
生まれて初めて、女性の胸に触れた。その僕の前で、女性は指先で摘むように持っていた缶ポタージュを、自らの口元へと運んでいった。その動きを、条件反射的にただ視線で追いかける僕。無意識に呼吸を止めていた。
薄く、がさついた唇が、缶ポタージュの幅広の口に当てられた。
こぷん。
小さな音を立てながら、女性の喉が上下に動く。
こぷん。こぷん。
立て続けに、2度、3度と。僕は止めていた息を使い、尋ねた。
「オっ、オいシイ?」
声が裏返った。その間抜けな声に反応してか、公園のクスノキをねぐらに休んでいたカラスが一羽、寝ぼけてグワッと鳴いた。意外なところに想定外の観客がいたものである。僕はドキドキしてきた。
「あったかい」
小さな声が、応えてくれた。
彼女はベンチに腰掛けると、缶に口をつけたまま、僕の方をまっすぐ見上げた。針のように尖った前髪の奥の、糸のように細い目に、僕は正面から見据えられた。
「ありがとう」
彼女の薄い唇が、小さく横に開いた。行儀悪く並んだ歯の隙間に、コーンの粒が引っかかっている。
その口元が、可愛いと思った。
僕は再び後悔に苛まれた。何故、こんな柄にもない事をしようとしたのか。僕ごときが。僕ごとき童貞が調子に乗るからこんな報いを受けるのだと。
僕は自己嫌悪に駆られた。もう少しで、その場から駆けて逃げ出すところだった。実際に、クラウチングスタートを切る時のように、僕は全身を低く屈めた。平身低頭、這いつくばって許しを乞う姿にも似ていたかもしれない。
そんな僕を止めたのは、女性の慌てたような声だった。
「違う」
女性は立ち上がって、僕に向かって早口でそう言いかけた。僕はその声に、再び女性の方を振り返った。こわばった僕の足元を目がけ、先程ようやくの思いで手放した缶ポタージュが、ゴロゴロと転がって帰ってきた。
「寒くて。手が、指が」
女性は白い息を吐きながら、両の手を互いに激しく擦り合わせた。そして、僕に向かって、ぴょこぴょこと揺らすように、頭を上下に動かした。茶色に染められた短い髪が揺れ、黒いままの頭頂部が見えた。
寒くて手がかじかんで、うまく缶ポタージュを掴めなかった、決して払いのけたわけではない、そう言いたいらしい。僕はほっとする一方で、これはまた困ったことになったと思った。
そういうことであれば、缶ポタージュの蓋を開けて、手渡すところまでが、僕の役目ということになる。だが、それはあまりにも、「詩的かつ優美な」行動であるように思われた。もっと独自の表現をすれば、「イケメン的な」動きである。
僕は咄嗟に、辺りを見回した。馬鹿らしい話だが、近くにイケメンがいてくれないかと、半ば無意識のうちに救いを求めたのである。「今、この公園にお越しの方の中に、イケメンはいらっしゃいませんか」と、心の中で叫び声を上げた。。
勿論、年末の深夜の公園には、イケメンどころか、僕らの他には猫一匹いないことは、先程来から説明している通りである。 本当に、イケメンというのはいけすかない連中だ。うんざりするほど、街中にうじゃうじゃいるくせに、人がたまに必要とする時には傍にいないなんて。
けれど逆に言えば、ここには観客もいないということである。ヒーローは三十路の童貞で、ヒロインはトレーナー姿のブスという、散々なステージであるが、笑う客も、眉をひそめるスタッフも誰もいない。
ええい、ままよ。僕は逃げ出したい気持ちを振り切って、足元の缶ポタージュを拾い上げた。そして、緑色のスクリュー式の蓋に力を込める。缶が開く時の、パキ、パキ、という音が2度、聞こえた。神社にお参りする時の、柏手を打つ音に似ていると、僕は感じた。
蓋が開いた。ふんわりと、コーンポタージュのまろやかな香りが広がる。
女性は、立ったまま、僕の様子を見つめていた。一歩近づくと、その細い目に、街灯の灯りが反射して、キラッと光った。
僕は気恥ずかしさを隠そうと、視線を下に向けた。茶色のトレーナーの、胸のあたりの真ん中に、大きなアップリケが縫い付けられているのが目に入った。動物の顔を模ったもののようだ。クマだろうか。ただ、クマにしては少々細身すぎる気もする。その顔はどこか歪んでいて、不恰好ではあったが、妙な可愛げがある。手製のアップリケなのかもしれない。
僕は、そのアップリケを目印に、左手をずいっと差し出した。女性が僕の顔を見上げているのが、気配でわかる。しかし、目を合わせてはいけないと思った。何しろこちとら、今こうしているだけで精一杯なのだ。視線を合わせたりしたら、そちらに気を取られて、缶ポタージュを落としてしまうかもしれない。集中しなければ。
そうしていたのは、ほんの数秒間のことだった。女性は両手を差し出すと、トレーナーからそこだけ露出している指先で、缶ポタージュを支え、そのまま、自分の胸元に引き寄せた。ちょうど、缶の口の部分が、アップリケの動物の口のあたりに押し付けられた。そして、僕の左手の指先も。
僕は慌てて缶から指を離した。正確には、缶からというより、女性の胸元から、である。ほんの一瞬だが、指先に、缶ポタージュのものとは別の、確かな温もりを感じた。
生まれて初めて、女性の胸に触れた。その僕の前で、女性は指先で摘むように持っていた缶ポタージュを、自らの口元へと運んでいった。その動きを、条件反射的にただ視線で追いかける僕。無意識に呼吸を止めていた。
薄く、がさついた唇が、缶ポタージュの幅広の口に当てられた。
こぷん。
小さな音を立てながら、女性の喉が上下に動く。
こぷん。こぷん。
立て続けに、2度、3度と。僕は止めていた息を使い、尋ねた。
「オっ、オいシイ?」
声が裏返った。その間抜けな声に反応してか、公園のクスノキをねぐらに休んでいたカラスが一羽、寝ぼけてグワッと鳴いた。意外なところに想定外の観客がいたものである。僕はドキドキしてきた。
「あったかい」
小さな声が、応えてくれた。
彼女はベンチに腰掛けると、缶に口をつけたまま、僕の方をまっすぐ見上げた。針のように尖った前髪の奥の、糸のように細い目に、僕は正面から見据えられた。
「ありがとう」
彼女の薄い唇が、小さく横に開いた。行儀悪く並んだ歯の隙間に、コーンの粒が引っかかっている。
その口元が、可愛いと思った。
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